瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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  高見島 新なぎさ2
高見島に入港する新なぎさ2    

塩飽諸島の中で、多度津から猫フェリーで行けるのが高見島と佐柳島です。高見島は古くから人が住んでいたという塩飽七島の一つです。その向こうの佐柳島は高見島からの入植者によって江戸時代になって開かれたとされます。高見島の「餅つき唄」の中にも、次のようなフレーズがあります。
高見・佐柳は 仲のよい島だよ― ソレ
あいの小島(尾島)は子じゃ孫じゃよ
ソレハ ヨイヨイヨイ
  「あいの小島(尾島)は子じゃ孫じゃよ」と高見島と佐柳島は、親子・兄弟島と謡われています。今回はこの内の高見島に伝わる民俗について、見ていくことにします。  テキストは「西山市朗   高見島・佐柳島の民俗十話」です。 
高見島の島名は、 どこからきているのでしょうか?
ひとつは、高見三郎宗治の名からきているという説があるようです。
浜部落の三谷家(屋号カミジョ)の土地からでた五輪の供養塔は、鎌倉~室町時代のもので、児島高徳の墓だと地元では伝えています。この墓には、浜の人々が夏祭りにおまいりしていたと云います。
また別の説では建久年間(12世紀末)に、備前国児島から移住してきた人たちが開いたのが始まりだという伝承もあるようです。
最後の説は、周辺の島の中で一番高く、周りが見渡せる島だから、高見島と呼ぶようになったのだとされています。これが一般的なようです。
 寿永四年(1185)屋島の源平合戦に破れた平家船団が西方に落ち延びていくときに、高見・佐柳島にも立ち寄って水・飲料、燃料のマキを積み込んだという伝承もあるようです。高見島の浜の庄屋・宮崎家は、平家方の宮崎将監の後裔だと自称していたようです。この島が海の民の拠点として、機能していたことはうかがえますが、それ以上は分かりません。
高見島(たかみじま)

 高見島は浦と浜の二つの港があります。
一般的には「○○浦・○○浜」というのが一般的です。ところが高見島の場合は、なぜか単に浦・浜という集落名です。字名では「大久保通・大谷通・古宮通・六社通・田ノ上通・浅谷通・下道通・高須通」というように、○○通に分けられています。
北側の浦集落は、江戸時代前期に大火にあい、現在のところに集落を移したようです。
それ以前は古宮、ナコチ・ハナタ・フロ・キトチ一帯に集落があったようです。大聖寺ももともとはハナタにあり、そこには腰を掛けたりすると腹が痛むという腹くわり石や五輪の塔が残っていたと云います。フロには、古い泉もあって、ここがかつての島の水源で、ここを中心に人々が集まり住み集落が海辺に出来たことがうかがえます。泉の先には「三郎ヨウジ」という地名も残っているようです。
高見島 浦集落3
高見島 浦集落
  瀬戸の島を歩くと、古い集落には共同井戸があります。
雨の少ない瀬戸内海の島々にとっては、井戸は生命の水の提供場所として神聖な場でもあったようです。水は天からのもらいもので「天水」です。後に弘法大師伝説が伝わってくると、泉・井戸も弘法大師に「接ぎ木」されていきます。そして、満濃池とつながっている井戸(宮の井戸)として雨乞いの話になったりしています。高見島の井戸伝説としては、次のような話が伝えられます。
①若水迎えにつかっていたミキャド(御神井戸)の湧き水の杓井戸
②死が近付くとほしがっていたという冷たくて美味しい水の話。
③むかしの浦の里にあったフロの泉
どちらにしても、古代から瀬戸内海を行き来する交易船は、風待ち・潮待ちのための寄航港が必要でした。そこには、美味しい水を提供してくれる井戸があることが必須条件だったようです。立ち寄った船に、これらの井戸も美味しい水を提供していたのでしょう。

高見島 浦集落4
高見島 浦集落
石垣の上に立ち並ぶ浦の家並は、江戸時代前期の風景(たたずまい)を今も残しています。

高見島 浦集落男はつらいよ
男はつらいよのロケ地となった高見島

 男はつらいよなどのロケ地として使われたわけが分かります。今は、空き家になった家が淋しそうに立ち並んでいます。

高見島 浦集落2
高見島 浦集落

制立場があり、北戸小路。南戸小路・下戸小路があり、集落の中央上に大聖寺がドンと構えています。ここから見える瀬戸内海は最高です。
高見島 大聖寺2
高見島の大聖寺
沖を行く備讃瀬戸行路の大型船、その向こうには丸亀平野の甘南備山である飯野山が望めます。
高見島 大聖寺からの瀬戸内海
大聖寺から望む備讃瀬戸と丸亀平野
高見島と佐柳島の戸数変化を見てみましょう。
江戸時代の塩飽人名衆650名のうち、高見島には77名の人名がいました。ここからも高見島は歴史が古く、廻船の拠点としても機能していたことがうかがえます。高見島の人たちが無住だった佐柳島に入植し、本浦を開いたと云います。さらに佐柳島の北側には福山・真鍋島から渡ってきた人たちが住みつき、また安芸の家船漁師も早くからやってきて、この島を根拠に漁業を続けていました。それが現在の佐柳島の長崎集落です。こうして、佐柳島は漁業の島として成長して行きます。それに対して高見島はどうなのでしょうか?

高見島 戸数・人口


正徳三年(1713)の記録には、高見島の戸数249戸(1449人)、佐柳島144戸とあります。しかし、この時期に塩飽の北前行路の独占体制が崩れて、塩飽廻船業は大きな打撃を受けます。その後は、船大工や宮大工として島外に活躍するする者が増えて、島を去る者が増えた、島の戸数や人口は減少傾向に転じたことは以前にお話ししました。
 高見島も明治には、249戸から195戸へ減少しています。そして、戸数の半数が大工だったことが分かります。漁師は1/6しかいません。瀬戸の島と聞くと、すぐに漁師港を思い浮かべますが、そのイメージでは高見島は捉えきれない島なのです。浦の集落の住人も漁業を生業としていた人たちではないようです。

高見島 ネズミ瓦
高見島の浦集落の漆喰壁の飾り瓦
 男はつらいよのロケ地「琴島」として、高見島と志々島は使われました。外国航路の船長だった父の家に、病気療養で帰ってきてる娘を松坂慶子が演じていました。その家は坂の上にある立派な家でした。この家は漁師達の家ではないのです。漁師の家は海沿いです。ここには、大工や農家などの家が坂沿いにあったようです。

高見島 うさぎ瓦
飾り瓦のうさぎ
 佐柳島と比較すると、高見島はその後は戸数・人口ともに減少していきます。それとは逆に、佐柳島は近世末から漁師の島として、戸数と人口が増えていきます。いったんは人口が急激に増えた佐柳島も高度経済成長がの中で、過疎化の波に飲み込まれていきます。

茶粥(チャガイ)を食べる島
高見島には水田がないので、米が作れませんでした。そんな島の人々が食べていたのが茶粥です。茶粥を作るときには、網目の布袋(茶袋)に茶を入れて炊き、そこへ麦・米や、薩摩芋・ササギ・炒った蚕豆・ユリネ・ハゼ(あられ)・団子等を入れていたそうです。熱いのをフウフウと吹きながら食べるのが、香ばしくあっさりしていて、美味しかったと云います。茶粥について、研究者は次のように記します。
朝飯は、暗がりで炊き、昼飯は11時頃、夕飯は、暗くなる前に食べていた。朝夕、茶粥のときもあったし、オチャヅケと言って間食を食べることもあった。畑仕事には、ヤマイキベントウと言って、麦飯の弁当を持って行ったりしていた。船での昼飯は白米のご飯だった。(御用船方の伝統か)
メシ(昼飯)、午後六時バンメシ(晩飯)・ョイメシという習慣だった。
茶粥を食べる風習は、瀬戸内にみられ、広島県から和歌山・奈良県へとつながっている。
畑作に頼っていた島の人々にとって、乏しい穀物等を入れて、出来る限り味よく、満腹感を味わおうとした、貧しいながら一つの生活の知恵であった。

 この茶粥に使われたのが以前にお話した「仁尾茶」です。
飲んでも食べてもおいしい。茶粥のために作られた土佐の「碁石茶」【四国に伝わる伝統、後発酵茶をめぐる旅 VOL.03】 - haccola  発酵ライフを楽しむ「ハッコラ」

土佐の碁石茶

仁尾茶は伊予新宮や四国山脈を越えた土佐の山間部で作られた碁石茶でした。仁尾商人が土佐で買い付けた碁石茶は、瀬戸内海の島々を商圏にしていたようです。
高見島や佐柳島では、畑仕事はすべて婦人の仕事で、肥料、収穫物を頭の上に乗せて山の上の畑まで運び上げていました。
「ソラのヤマ(はたけ)」は、ヒコシロ、マツネなどにありました。そこへ荷物を頭に載せて行き帰りしていたのです。頭上運搬のことを地元では「カベル」と云います。「ワ」を頭にすけたり、ワテヌグイをしてカベッテいました。これは女性だけの運搬方法です。男の場合は肩に担ぐか、「カルイ」で背負ったり、水の運搬はニナイ(担桶)を「オッコ」(天秤棒)で担いで運んでいました。
 女性の頭上運搬は、瀬戸内海の島々や沿岸部では近世まで見られた風俗でした。高松城下図屏風の中にも、頭に水甕を「カベッテ」って、お得意さんまで運ぶ姿が描かれていたのを思い出します。
高松城下図屏風 いただきさん
水桶を頭に乗せて運ぶ女達 高松城下図屏風

両墓制について
両墓制 
佐柳島の長崎集落の両墓制
佐柳島の北側の長崎集落では、かつては海沿いに死体を埋め、黒い小石を敷き詰め、その上に「桐の地蔵さん」という人形を立てました。それが「埋め墓」です。月日をおいて、骨を取り出し、家毎の石塔を立てた「拝み墓」に埋葬します。「埋め墓」と「拝み墓」を併せて、両墓制と呼びます。
1両墓制
佐柳島の長崎集落の埋め墓

 長崎集落の埋め墓の特徴は、広い墓地一面に海石が敷きつめられていていることです。この石は、全部海の中から人が運び上げた石だそうです。かつての埋葬にはほとんど穴を掘らず、棺を地上に置いてそのまわりに石で積んだようです。その石は親戚が海へ入って拾い上げて積みます。
 このような積石は、もともとは風葬死者の荒魂を封鎖するものでした。それが時代が下がり荒魂への恐怖感がうすれるとともに、死者を悪霊に取られないようにするという解釈に変わったと研究者は考えているようです。肉親のために石を積む気持が、死者を悼み、死後の成仏を祈る心となって、供養の積石(作善行為)に変わっていきます。
佐柳島の埋め墓で、海の石を拾ってきて積むというのも供養の一つの形なのでしょう。
 ここには寺はありません。古い地蔵石仏(室町時代?)を祭った小庵があるだけです。同じ佐柳島の本浦集落の両墓制は、海ぎわに埋め墓があり、その上の小高い岡の乗蓮寺周辺に拝み墓があります。
佐柳島への入植者を送り出した高見島の浦と浜の両集落にも、両墓制の墓地があります。

高見島 浦集落の両墓1
高見島・浦集落の両墓制

高見島にはそれぞれの墓地に大聖寺と善福寺がありました。拝み墓が成長して、近世に寺になったようです。島にやってきて最初に住持となったのは、どんな僧侶なのでしょうか?  
  この時期に、塩飽から庄内半島のエリアを教線エリアにしていたのが多度津の道隆寺明王院であったことはお話ししました。道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

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 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部へと広域に活動を展開していたことが分かります。たとえば
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。その中には粟島や高見島も含まれていたようです。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
また、影響下に置いた塩飽諸島は古代以来、人と物が移動する海のハイウエー備讃瀬戸地域におけるサービスエリア的な存在でした。そこに幾つもの末寺を持つと言うことは、アンテナショップをサービスエリアの中にいくつも持っていたとも言えます。情報収集や僧侶の移動・交流にとっては非常に有利なロケーションであったのです。こうして、この寺は広域な信仰圈に支えられて、中讃地区における当地域の有力寺院へと成長していきます。その道隆寺ネットワークの中に、高見島や粟島の寺社も含まれていたことになります。
高見島 大聖寺山門
大聖寺(高見島浦集落)
 高見島では埋め墓のことをハカといい、参り墓のことをセキトウバと呼んでいます。
埋葬するとその上にむしろをおき、土をかぶせ、ハカジルシの石と六角塔婆をたて、花を供えます。四十九日の忌日には「四十九院」という1m角ほどの屋根つきの塔婆の家を埋め墓の上に建てます。四十九枚の板には経文が書かれています。
一般庶民が石碑・石塔を建てるようになったのは、江戸時代後期以後だといわれます。それまでは埋葬したところに、簡単に土を盛り、盛り石をして墓標を建てる程度だったようです。

高見島 石仏
高見島の石仏

高見島の浦のロクシには、棄老伝説が残っており、その近くには赤子薮もあったと伝えられます。古くは、死ぬと海へかえすという風習もあったようです。新仏(アラリョウ)ができると、灯ろう船(西方丸・極楽丸)に乗せて灯ろうを流す風習も残っています。

高見島には、浦に大聖寺、浜に善福寺(廃寺)がありました。
高見島 大聖寺3
大聖寺
大聖寺は、弘法大師開基の寺として伝えられています。島には次のような弘法大師伝説が伝わっています。
「片葉の葦」
「西浦のお大師さん」
「ガンの浦の弘法大師の泉」
「浜・板持の大師の井戸」
「釜お大師さん」
これを伝えた高野聖の存在がうかがえます。
  瀬戸内海の港にも、お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達だったことは以前にお話ししました。死者供養は聖を、庶民が受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが道隆寺や弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。それらの寺院を拠点とする高野聖たちが、周辺の両墓制に建てられた庵やお堂に住み着き供養を行うようになります。高野の聖は「念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰 + 廻国 + 修験者」的な性格を併せ持つ存在でした。彼らが住み着いた庵の一つが、多度津の桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の周辺です。それが現在の摩尼院や多門院に発展していくと多度津町史は記します。(多度津町史912P)。同じように周辺の島の港にも聖たちがやってきて、定着して念仏信仰を広げていったようです。そして近世後半になって最後に弘法大師伝説がもたらされます。

高見島 燈台2
高見島 北端の燈台 向こうが佐柳島
 高野聖たちによってもたらされた念仏阿弥陀信仰の上に、後に弘法大師信仰がもたらされて、島四国八十八ヵ所巡りが近世後半には姿を見せるようになります。瀬戸の島には、今でも島遍路廻りが春に行われている島があります。私も伊吹や粟島・本島などの島遍路廻にお参りしたことがあります。高見島にも島一周の島遍路コースがあり、石仏が祀られています。
高見島 西海岸の石仏

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献    「西山市朗   高見島・佐柳島の民俗十話」

浦集落を徘徊し、お寺の境内で備讃瀬戸航路を東に向かう舟をボケーと眺めて時を過ごす。しかし、帰りの舟の時間までは、まだ3時間ある。時間を自分で「活用」しなければならい。

 別の視点からみれば時間に追いかけられることも、あすこにも行きたい、ここへも行きたいとか、ここの見学時間は15分で・・とかという制約はなくなる。そのためか心にゆったりとした時間が流れる。
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高見島 浦の港
ここでボケーとするか、読書の時間にするか・・
島の北端の灯台に行ってみようという考えが浮かんできた。
男木島も本島も粟島も北に隠れたポイントがあった。高見島にも・・と期待して

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高見島 浦集落の路地
そうとなれば行動ありき。さっそく浦集落から海へ下りていく。

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下りたところが浦集落の両墓制の墓域。黙祷し南無阿弥陀仏・・。

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島遍路の石仏に導かれて、燈台に続く舗装路を歩く。

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塩飽諸島の広島
目の前には、塩飽諸島の広島。採石のために削られた山肌が至る所に見える。

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北には手島・小手島も見えてきた。海岸には鵜が羽を広げて羽干しを行っている。
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かつては、もう一つの集落がこのあたりにはあったらしい。
民家の跡は自然に帰り分からないが手入れされた墓石がいくつもならんでいた。神社も改修されている。

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道があったのはここまで。かつての集落があった所まで。ここから道はない。海岸線を歩くしかないようだ。
ここまで40分程度。時間はたっぷりある。
石仏が「きおつけていきなはれ」と声をかけてくれたような・・

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島の南側の様相とは少し変わってきた。
大きな石がゴロンゴロン。

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歩きにくいゴロタ石の海岸の向こうに燈台が見えてきた。
右手の島は佐柳島。
高見島と佐柳島の間を備讃瀬戸航路を西行する舟が抜けていく。

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かつて男木島灯台の袂に野宿したのを思い出し、この燈台が光を放つ姿を見てみたいと思うが・・それもかなうまい。
プレートには板持鼻燈台(昭和42年)と刻まれていた。

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高見島の北燈台
西側から燈台を振り返る。
さて、ここまできたのなら島の西側を歩いて、一周することにしようか・・
時間も2時間近くあるし・・と考えた。そして、西側の海岸へと足を踏み入れた。

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ところが景観が西と東では大きく違っていた。

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高見島 西海岸
崖から崩れ落ちた岩が積み重なる岩場とゴロタ石の続く海岸が交互に現れる。
歩きづらいことこの上ない。時間がかかる。
これは舟に間に合うのかな・・・という不安までわき出していく。
先ほどまでの楽勝気分がしぼんでいく。

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海岸に落ちていたのは・・・
焦り始めるといいことはない。
そんななかで岩の間に寝転がっていたのが・・・

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島遍路の石仏が波の侵食で海岸に・・
この方。ミニ四国の石仏さんがこんなところに寝転がっていました。
「慌てない 急がない。このわたし見なはれ」と・・
波に浸食され、もとあった場所から落ちて荒波にもてあそばれ流され・・
石仏のたどってきた道を思うと・・舟に遅れることなんかたいしたことないように思えてきます。今を楽しみ充実させるために・・のんびりゆこうよと思い直します。
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高見島西海岸
海岸の様相がまた変化します。岩牡蠣のカラをつけてタイルを張ったような岩たちがゴロンゴロンと転がります。

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高見島西海岸
こちらは岩を敷き詰めたロックガーデン。
なにか自然の作り出したアートのようです。

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高見島西海岸
こんなんはいかがでしょうか。
あなたの思いのままに掘ってください。
自然の贈り物ですと・・・。

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高見島西海岸
こちらは釈迦三尊像の制作中。制作者は「波」。完成予定は未定です。

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そんな海との「会話」を楽しみながら西海岸を南下します。
沖には、佐柳島を目指して定期船が進んでいきます。あの舟が引き返してきて高見島港に寄港します。それにできるなら間に合いますように・・

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高見島 西のお堂
いのりが通じたのでしょうか。
西のお堂が見えてきました。
ここまでが120分。後、港までは30分でいけます。
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高見島西のお堂からの佐柳島
歩いてきた北側方面を振り返って見ます。佐柳島と小島が見送ってくれます。
あの島までが香川県。その向こうの真鍋島は岡山県になります。
島が連なると言うことは海の中には山脈が連なっていると言うこと。峠を越える山風がキレットや風折れで強くなるように、島の間の瀬戸は流れがわき上がり海流が複雑になります。そのためこのあたりは「潮が涌く」→「塩飽」の島々と呼ばれてきました。その海を見守ってきたお堂です。

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備讃瀬戸航路
備讃瀬戸航路を東に向かう舟の一番奥に見えるのが象頭山。金毘羅宮が山腹に鎮座する山です。北前船の水夫達は、行き交う舟の上から航海の安全を祈ったと伝えられます。
 西向きのお堂からは瀬戸に沈む夕陽が美しいそうですが、そろそろ湊に向かいます。
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佐柳島港に入港する新なぎさ2
佐柳から引き返してきた「新なぎさ2」が入港してきました。これに乗って多度津に帰ります。
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島一周といういい思い出が作れたことに感謝。



梅雨入りには少し早い6月初旬に、高見島を訪れた。思いつきで目的地をころころと変えながら島を「徘徊」する。そして、たどり着いた一軒の豪邸(?)。その家の「ひろな」をのぞき込むと、こんな光景が広がっていた。

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反対側から見ると

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こんな感じ・・・・????
庭先の白い箱のような中にはいってみると、

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海を前面に全面の鏡張り。こんな光景が目に飛び込んできます。
そして、そこに広がる光景は・・

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西に向けて開け、与島や本島、そして瀬戸大橋が迎えてくれます。

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いったいこの仕掛けは?? 
私の「予備知識」をフル動員して浮かんできたのは「瀬戸芸の作品」=置き土産かなという推察。
それにしても、朽ちていく集落の中を「侘びさび」「滅びの美学」を味わいながら歩いてきて、その雰囲気の中にどっぷりと浸かっていた身にとっては、どんでん返しのオブジェでした。これをアートの力というものかしらと自分を納得させます。
この「テラス」に座って大休止。陽光の中、ウトウトと昼寝までしていました。
太陽光の熱さで目が覚めます。
もう一度、周囲を見回して見つけたのがこれ。
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高見島の民家の飾り瓦 しっぽが禿げた夫婦の鼠?

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こちらは馬?

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こちらはウサギでしょうか?

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広島方面を守るのは普段は仲の悪い犬と猿

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そして正面には吠える虎

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さらに母屋の屋根には、滝を登り龍をめざす鯉がはねています。
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最後は天女に見送られて、この「テラス」を去りました。
いろいろな発見があり、楽しい時を過ごさせていただきました。感謝

さて次は、どこへいこうかしらん。
歩きながら気付いたのは、人の気配がないということ。
浦の集落自体が「ゴーストタウン化」しているうな気配。
歩いても誰にも出会わない。

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高見島の集落跡
更地になった空間が至る所に点在する。

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屋根から下ろされた瓦がオブジェのように積み上げられている光景が到るところで目に付く。 
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 そういえばこの島が「琴島」として登場した「男はつらいよ」で、松坂慶子の父親でかつては外国航路の元船長がダンスを踊った家は、今はどうなっているのか・・・とふと思う。そして、先ほどの家が重なり合う。
1993年の封切りだったからもう四半世紀の時が流れている。

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大聖寺への分岐点までやって来た。

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ここが光男を連れ戻しにきた寅さんが、最初に松坂慶子に出会った場所だ。この階段を登っていくと
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大聖寺の山門
大聖寺の山門が見えてくる。

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ここは期待したとおりの光景を用意して待っていてくれた。
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季節は琵琶の熟する頃
おむすび山の讃岐富士と沖を行くコンテナ船
時間を気にせずボケーと眺めていた。

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大聖寺
お参りを済ませて、さてどうするかを思案する。
帰りの便は15:50。今は12:10分。約3時間半の時間がある。
蝶が花から花へ渡り歩くように、普段は目的地から目的地へ目的地へ渡り歩く習性がある私である。しかし、島ではそれはできない。舟が来るまでは、時間の「有効活用」を図ることを求められる。何事にもゆっくり、ゆっくりなのである。

 いろいろ考えた末に、島の北の端の燈台まで行くことにする。男木島の北端の燈台の雰囲気の良さに味をしめていたのである。
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高見島 浦の港
目標が決まれば行動あるのみ。
長い休息の結果、躰は軽くなった。島の北端の燈台目指して出発!

この時は、それが思った以上の「苦行」になるとは思ってもいなかった。
その様子は、また次回に・・・・・

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