高越寺絵図
高越(こうつ)寺については、阿波忌部の開拓神話の上に、弘法大師信仰や修験道などが「接ぎ木」されてきたことを以前にお話ししました。高越山は「忌部修験」と呼ばれる山伏集団の拠点とされてきました。しかし、この説については、次のような批判も出ています。「超歴史的であり、史料的な裏づけからも疑問視される」
さらに加えて近年、九山幸彦は阿波忌部に関する伝承は近世の創作であることを明らかにしています。高越山について、新たな視角が求めれているようです。そのような中で、四国辺路研究とのにもつながりから高越山の歴史を見直そうとする動きがあるようです。今回は「長谷川賢二 山岳霊場阿波国高越寺の展開 修験道組織の形成と地域社会所収」をテキストに、高越山の歴史を見ていくことにします。
高越山山頂に建つ弘法大師像
高越山には、12世紀初頭の早い時期から弘法大師伝承が伝わっています。
古い弘法大師伝説があるのに、四国88か所の霊場(札所)にはならなかった寺です。どうしてなのでしょうか。大師信仰とは別の条件で「霊場の取捨選択」があったと研究者は考えているようです。その条件とは何なのでしょうか?
高越寺が霊場として最初に文献史料に登場するのは、弘法大師信仰とのかかわりについてのようです。
真言密教小野流の一派・金剛王院流の祖・聖賢の『高野大師御広伝』(元永元年〔1118)に次のよう登場します。
〔史料1〕阿波国高越山寺、又大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々。澄崇暁望四遠、伊讃土三州、如在足下。奉造卒塔婆、十今相全、不朽壊。経行之跡、沙草無生。又有御千逃之額、千今相存。
意訳変換しておきます
阿波国の高越寺は、弘法大師が建立した寺である。ここで大師は法華経を書写し、この峯に埋納した。この地は空気は澄み渡り伊予・土佐・讃岐の三州も足下に望むことができる。大師が造った卒塔婆は、今も朽ちることなくそのままの姿で建っている。経典を埋めた跡は、草が生えない。「御千逃」の額は、いまも懸かっている
ここには大師がこの地にやって来て「高越山寺」を建立し、さらに法幸経を書写し、埋納したことが記されます。
弘法大師が亡くなって200年ほど経った11紀になると、「弘法大師伝説」が地方にも拡がり、四国と東国は修行地として強調されるようになります。こうした中で高越山でも弘法大師との関わりが語られるようになったようです。数多くの大師伝が残されていますが、高越寺が登場するのはこれだけのようです。
高越寺の霊場化がうかがえる次のような史料があります。
一つは、大般若経一保安三年〔1122)~大治2年〔1127)です。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名が見られます。天台系の教線が高越山におよんでいたようです。
二つ目は、経塚が発見されており、12世紀のものとされる常滑焼の龜、鋼板製経筒(蓋裏に「秦氏女」との線刻銘がある)、白紙経巻八巻などの埋納遺物が出てきています。
これは先ほど見た大師信仰の浸透と並行関係で進んでいたようです。以上から13世紀に高越寺は顕密仏教の山岳霊場となっていたと研究者は考えているようです。
近世の縁起『摩尼珠山高越寺私記』(以下私記』)にも弘法大師の高越山来訪が記されます。
『私記』は寛文五年(1665)、当時の住職宥尊が記したもので、高越寺の縁起としては最古のものになるようです。『私記」の内容は、大まかに分けると次の4つになるようです。
①役行者(役小角)に関する伝承
「天智人皇御字、役行者開基、山能住霊神、大和国与吉野蔵王権現一体分身、本地別体千手千眼大悲観世音苦薩」「役行者(中略)感権現奇瑞、攀上此峯」
などと、役行者による開基や蔵王権現の感得が記されています。そして蔵王権現(本地仏 千手観音)の山であり、役行者が六十六か所定めた「一国一峯」の1つに配されたなどとされています。
②弘法大師に関する伝承
弘仁天皇御宇、密祖弘法大師、有秘法修行願望、参請此山権現有感応、紡弗而現」
などと記され、大師が権現の示現を得て、虚空蔵求聞持法等の行や木造一体の彫刻をしたとされます。
③聖宝に関する伝承
「醍醐天皇御宇、聖宝僧正有意願登此山」
などと記され、聖宝が登山し、一字一石経塚の造営、不動窟の整備などを行ったとされます。
④山内の宗教施設
山上の宗教施設が記されます。「山上伽藍」については、
「権現宮一宇、並拝殿是本社也」「本堂一宇、本尊千手観音」「弘法大師御影堂」
などがあったほか、若一王子宮、伊勢太神宮、愛宕権現宮などとの本社があったようです。さらに
山上から7町下には不動明王を本尊とする石堂
山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)があり、地蔵権現宮があったことが分かります。また「殺生禁断並下馬所」と記されるので、ここが聖俗の結界となっていたようです。
山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現宮があります。その他には、鳥居があったことが記されます。
高越寺の役行者
しかし、研究者は次のように指摘します。
最重視されていたのは、大師ではないことに注意が必要である。役行者(役小角)の開基とされ、蔵王権現が「本社」に祀られ、その本地仏である千手観音が本尊として本堂にあるというように、役行者にこそウェイトがあることは明らかであろう。したがって、 17世紀の高越寺は、存立の基礎という意味では大師信仰が後退し、修験道色の濃い霊場となっていたといえる。
高越山の修験道の霊場としての起点は、いつから始まるのか
ここで研究者が取り上げるのが役行者と蔵王権現です。
役行者は修験道の開祖と信じられており、修験道とは切っても切れない関係というイメージがあります。しかし、歴史的に見ると、これは古代にまで遡るものではないようです。『私衆百因縁集」(正嘉九年〔1257)に
「山臥行道尋源、皆役行者始振舞シヨリ起レリ」
という記載が現れるのは13世紀以後のことのようです。
また、役行者と蔵王権現のコンビ成立も12世紀頃で、このコンビのデビューは『今昔物語集』が最初になるようです。
一方、13~14世紀は、「修験」は山伏の行と認識されるようになる時代でもあります
「顕・密・修験三道」(近江国国城寺)や部 「顕・密・修験之三事」(若狭円明通寺)などというような表現が各地の寺院関係史料にみられるようになります。四国でも、土佐国足摺岬の金剛福寺の史料に「顕・蜜兼両宗、長修験之道」とあります。こうした状況から「修験道」が顕教・密教と並ぶ仏教の一部門として、認知されるようになってきたことが分かります。
こうしたことを背景にして役行者は、山伏に崇拝されるようになります。こんな動きが高越寺に及んできたのでしょう。
高越寺には南北朝~室町時代のものとされる立派な聖宝像があります。これは、中世後期にこの山で聖宝信仰があったことを物語ります。聖宝には、以前にもお話ししましたのでここでは省略しますが、醍醐寺の開祖で、真言密教小野流の祖です。聖宝は若い時代には山林修行を行った修験者でもあったようで、蔵王権現とも関係が深く、『醍醐根本僧正略伝』(承平七年〔937)には、吉野・金峯山に堂を建立したとされます。そのため12世紀後半以降には、「本願聖宝僧正専十数之根本也」と醍醐寺における山伏の祖とされるようになります。
さらには天台寺門系の史料『山伏帳』にも「聖宝醍醐仲正」と記されているので、天台宗からも崇拝されるようになっていたことがうかがえます。弘法大師伝説に続いて、聖宝が信仰対象となるのは13~14世紀のことです。これも、先ほど見たように「修験道の地位向上」と同時進行ですすんでいました。この二つの流れの上に、高越山の聖宝像があるのでしょう。それは高越寺が修験道霊場化していく過程をあらわしたものだと研究者は考えているようです。
奥の院背後の蔵王権現鳥居
奥の院は、中央が「高越大権現」、向かって右が「空海」、向かって左)が「役小角」を祀っている高越寺には南北朝~室町時代のものとされる立派な聖宝像があります。これは、中世後期にこの山で聖宝信仰があったことを物語ります。聖宝には、以前にもお話ししましたのでここでは省略しますが、醍醐寺の開祖で、真言密教小野流の祖です。聖宝は若い時代には山林修行を行った修験者でもあったようで、蔵王権現とも関係が深く、『醍醐根本僧正略伝』(承平七年〔937)には、吉野・金峯山に堂を建立したとされます。そのため12世紀後半以降には、「本願聖宝僧正専十数之根本也」と醍醐寺における山伏の祖とされるようになります。
左から観賢僧正、聖宝(理源大師) 神変大菩薩像(役行者)
上醍醐
上醍醐
さらには天台寺門系の史料『山伏帳』にも「聖宝醍醐仲正」と記されているので、天台宗からも崇拝されるようになっていたことがうかがえます。弘法大師伝説に続いて、聖宝が信仰対象となるのは13~14世紀のことです。これも、先ほど見たように「修験道の地位向上」と同時進行ですすんでいました。この二つの流れの上に、高越山の聖宝像があるのでしょう。それは高越寺が修験道霊場化していく過程をあらわしたものだと研究者は考えているようです。
聖宝
聖宝像=醍醐寺=当山派というつながりから、高越寺と当山派を結びつけて考えたくなります。これに対して研究者は次のように、ブレーキをかけます。
①三宝院が修験道組織を管掌するのは江戸時代になってからのこと②中世に醍醐寺三宝院が山伏と結びついていたと、当山派に直結させることはできないこと③中世の聖宝信仰は真言宗だけではなく天台寺門派に連なった山伏がいたこと
したがつて、聖宝信仰と修験道の関連は深いとしても、修験道=当山派というとらえ方は取りません。
中世に霊場化していた可能性のある「中江」(中の郷)を見てみましょう。
「中江」(中の郷)は、高越寺表参道の登山口と山上のほぼ中間地点にあたります。近世以降には、中善寺があったようです。ここには、貞治二年(1364)、応永六年(1399)、永享3年(1431)の板碑が残るので、中世にはすでに聖域化していたと研究者は考えているようです。
また、ここは「聖俗の結界」であったようです。中世の山岳霊場では「中宮」といわれる場にあたります。そうだとすれば、中の郷の結界性も高越山が霊場化していたことを示すものかもしれません。14~15世紀には、山麓と山が結ばれ、高越山内は霊場としての体裁が整いつつあったとしておきましょう。
時代をさらに下って15~16世紀の高越山の様子を史料から見てみましょう
中世後期になると、和泉国上守護細川氏との関係から高越寺のことが分かるようになるようです。
⑤の細川常有が菩提寺として応仁二年(1468)に建立した瑞高寺に
「高越寺井上社之事一円」(文明九年〔1477〕)、
上守護家菩提寺の永源庵に
「高越別当職井参銭等」が(明応四年〔1495〕
上守護家の細川元常が大檀那となり高越寺の造営にかかわった棟札があるようです。
永正11年(1514)の「蔵王権現再興棟札」上守護家の細川元常が大檀那となり、
「御庄代官常直」「当住持人法師清誉」「大願主勧進沙問慶善」
らが名を連なります。
「上棟本再興蔵王権現御社一字」「右意趣者奉為 金輪型阜、天長地久、御願円満、国家安穏 庄園泰平、殊者御檀越等一家繁、子孫連続故造立之趣、如件」
裏面には次のような銘があります
「刑部太輔源朝臣元常」と「丹治朝臣常直」の著判、「檜皮大工久千田宥円」の名「御社造立悉皆五百六十二人供也」
この棟札には「蔵王権現御社」としるされます。これが高越山の霊場化が確実視できる初めての史料のようです。「再興」とあるので、これ以前から蔵王権現が高越山に祀られていたようです。銘には「荘園泰平」とあります。ここからは、再興には高越山麓の上守護家領である河輪田庄・高越寺庄の安穏を祈願する願いがあったようです。つまり、蔵王権現社が高越寺の中核的な施設として機能していたことがうかがえます。
高越山奥の院の蔵王権現の扁額
また、「勧進沙門慶善」の名からは、この再興事業には勧進僧が参加し、勧進活動も行われていたことが分かります。棟札の裏面に「御社造立悉皆五百六十二人供也」とあるのが勧進に応じた人数ではないのでしょうか。
これら事業関係者は「庄園泰平」の祈りに束ねられ、組織統合のシンボルにもなっていきます。こうして高越山は、河輪田庄・高越山庄の鎮守としての性質を帯びて、地域の霊場としての機能していた可能性があります。ただし、これらは高越山の社領ではありません。上守護家の所領支配に組み込まれている荘園なのです。それは上守護家という支えがあって成り立つもので、「御檀越等一家繁昌、子孫連続」とされるべきものなのでしょう。
裏面には「檎皮大工久千田宥門」という大工の名があります。「久千田」が地名に由来するとすれば、吉野川北岸にあった朽田庄(久千田庄とも。阿波市阿波町久千田)に居住する職人かもしれません。高越寺は山麓一帯だけでなく、古野川の南北にまたがる地域との関係を持っていた気配もします。
細川常有の「若王子再興棟札」(寛正三年〔1462〕の写し(寛政二年(一七九〇〕)もあるようです。
ここからは熊野十一所権現の一つである若王子が祀られていたことが分かります。つまり、熊野行者などによる熊野信仰も同時に信仰されていたことになります。先ほど見た『私記』には、高越寺には「蔵王権現を中核として、若一王子(若王子)、伊勢、熊野」が境内末社として勧請・配置されていたと記されていました。この棟札からは、15~16世紀には、すでにそのような宗教施設が姿を見せていたようです。
16世紀の「下の房」の空間構成は、どうなっていたのでしょうか。
下之坊のある「河田」は、高越山麓の河輪田庄(河田庄)域と研究者は考えているようです。天明八年(1788)の地誌『川田邑名跡志』(以下「名跡志』)には次のように記されています。
「下之坊、地名也、嘉暦・永和ノ頃、大和国大峯中絶シ 近国ノ修験者当嶺(高越山)二登り修行ス。此時下ノ坊ヲ以テ先達トス。修験者ノ住所也 天文年中ノ書ニモ修験下ノ坊卜記ス書アリ」
意訳変換しておくと
「下之坊の地名である。嘉暦・永和ノ頃に大和(奈良)大峯への峰入りができなくなったために、、近国修験者が当嶺(高越山)に、やってきて修行するようになった。この時に下ノ坊が先達となった。つまり下の房とは修験者の住所である。天文年中の記録にも「修験下ノ坊」と記す記録がある」
ここからは次のようなことが分かります。
①大峰への登拝ができなくなった修験者たちが高越山で修行をおこなうようになったこと②その際に、下之坊が高越山で先達を務めたこと
また同書の「良蔵院」の項には、下之坊は天正年間、土佐の長宗我部氏の侵攻の前に退去した後、近世に良蔵院として再興された記されます。さらに『名跡志』には、良蔵院以外にも「往古ヨリ当村居住」の「上之坊ノ子係ナルヘシ」という山伏寺の勝明院など、山麓の山伏寺が七か寺あったと伝えます。「下之坊」の名称からすれば、セットとして「上之坊」も中世からあり、また高越山を修行場としたと推測できますが、史料はありません。
和泉国に残された和泉国上守護細川氏の一次史料からは、高越山の麓は以上のようなことが分かります。これは、従来言われていた「阿波忌部氏の拠点」で「忌部修験の拠点」という説を大きく揺り動かせるものです。「高越山=阿波忌部修験の拠点」説は、阿波側の後世の近世史料によって主張されてきたものなのです。
高越寺は、山伏をどのように組織していたのでしょうか
高越山に残された大般若経巻の修理銘明徳三年〔1292)には、「高越之別当坊」「高越寺別当坊」という別当が見えます。また上守護家による永源庵への明応四年〔1495)の寄進にも「高越別当職並参銭等」とあり、別当が置かれていたことが分かりますが、詳しいことは分かりません。
時代を下った『西川田村棟付帳』寛文13年(1671)には、弟子、山伏、下人などが登場します。ここからは次のような高越山の身分階層がうかがえます。
①住学を修める正規の僧職と弟子=寺僧②山伏=行を専らにする者③寺に奉仕する下人(俗人)
基本的には寺僧と山伏だったようで、中世寺院の「学と行」の編成だったことが推察できます。しかし、15世紀末には別当職は、山内の実務的統括から切り離されていたようです。大まかには寺僧が寺務や法会を管掌し、そのもとで山伏が大峰修行や山内の行場の維持管理などを行ったとしておきましょう。しかし、地方の山岳寺院でなので、寺僧と山伏に大きな違いはなかったかもしれません。
確認しておきたいのは『名跡志』では、山麓の山伏は高越寺には属していません。下之坊の伝承にあるように、高越山を修行の場としていたとみられ、山内と山麓をつなぐ役割をもっていたと研究者は考えているようです。
以上をまとめてると次のようになります。
①高越寺が史料に登場するのは13世紀で、弘法大師大師にかかわるものである
②15世紀には、役行者や蔵王権現信仰を中心に修験道の霊場となっていく。
③山内や下の房には、修験者(山伏)の拠点でもあった。
④この時期の高越寺は和泉国上守護細川氏の所領支配に組み込まれた
⑤高越寺は、近世初頭には阿波の有力霊山として広く知られていた
「高越山=忌部修験の拠点」説を、以前に次のように紹介しました。
⑥高越山周辺地域を、中世に支配したのは、忌部氏を名乗る豪族達
⑦忌部一族を名乗る20程の小集団は、忌部神社を中心に同族的結合をつよめた
⑧中世の忌部氏は、忌部神社で定期会合を開いて、「忌部の契約」を結んでいた。
⑨忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。
⑩忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達だった。
しかし、今見てきた高越寺の歴史からは⑥⑦は見えてきません。中世の高越山周辺は④で、高越寺は細川氏の庇護下にあったのです。忌部氏の気配はありません。⑧⑨についても、同時代史料からはこのような事実は見られないようです。⑩に関しては、これでいいでしょうが「忌部修験」とすることはできないことは、史料が示すとおりです。
以上から、「高越山=忌部修験の拠点」説には、冒頭で述べたような次のような批判が出されているようです。
①「超歴史的であり、史料的な裏づけからも疑問視」される②九山幸彦氏は阿波忌部に関する伝承は、近世の創作であることを明らかにした。
最後に、研究者は高越寺が四国辺路の札所に選ばれなかった背景を次のように推測しています
近世初頭に阿波の霊山として認知されていた寺院として、高越寺以外に大龍寺・雲辺寺・焼山寺・鶴林寺を上げます。これらは高越寺以外は、全て四国遍路の札所になっています。しかし、古くからの弘法大師信仰霊場でもあった高越寺が札所に選ばれませんでした。その背景は、高越山が大師信仰の霊場というよりも修験道霊場としての側面が強かったことにあるとします。そして、「開かれた霊場・巡礼地」としての基準に合わなかったというのです。
別の研究者は、もとは高越寺も四国辺路の「大辺路」の札所であったものが、巡礼経路の変更で外れてしまったという説もあるようです。今は四国遍路道は10番切幡寺で吉野川を遡るのをやめますが、かつては高越寺へも四国辺路の行者達は巡礼していたのかも知れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。