瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:高越山

高越寺は、他にはないような雰囲気を感じ取らせてくれる伽藍です。修行の山で、修験者の拠点だったという感じが強くします。そして、豪壮で力強い山門の前に立った時の印象と、山門をくぐってその前に拡がる伽藍のイメージが大きく違います。それは、入口の木造山門と、伽藍中心に立つ近代的な本堂の落差なのでしょうか。
 
高越山山門4
高越寺の山門

 高越寺は、戦前の昭和14(1939)年1月の大火で、ほとんどの建造物が焼失したようです。
残ったのは、本堂と離れていた山門・鐘楼・お水舎の三棟だけでした。それ以外の建物は焼け落ち、戦後になって建てられたものなのです。つまり、伽藍の入口附近は、それまでの古い建物で、それから内側の建物は、戦後に新築されたものなのです。それがさきほどの私がいだくイメージを作り出しているのかもしれません。今回は、高越寺の建築物群を、調査書を片手に見てまわることにします。テキストは、「阿部 保夫 高越山の姿  阿波学界紀要2012年です。

高越寺は、明治の神仏分離以前には「高越権現」と称していますたが、近代になってからは「金剛蔵王尊」を本尊とする真言宗の寺となりました。そして、山門が明治38年、鐘楼が明治42年、手水舎も同時期に建立されます。この3つが明治末の建築物であることを押さえておきます。
それでは、戦前の火災を免れた山門から見ていくことにします。報告書には次のように記されています。

高越山山門平面図
高越寺の山門・鐘楼・手水舎の平面図
高越山の山門
本堂から40m程東方向に位置し、三間一戸二階二重門で両脇に彩色された仁王像を安置する。下の重は、柱脚部は礎石に礎盤を載せ、柱は円柱(粽)で腰貫、内法貫、飛貫、頭貫、厚台輪で固め、壁は横板張りとする。虹梁、籠彫木鼻、十二支の中備彫刻、彫刻板支輪などで飾る。上の重は、切目縁に擬宝珠高欄を回らし、円柱(粽)を切目長押、頭貫、厚台輪で固め、壁は横板張りとする。開閉装置は桟唐戸、火灯窓を設け、組物は二手先とし、尾垂木、詰組で繋ぎ、中備彫刻で飾る。軒は、放射線状に二軒繁扇垂木で大きく張出す。妻飾は虹梁に大瓶束笈形付で、破風の拝みに飛龍の懸魚を付ける。多彩な彫刻と、礎盤、粽柱、厚台輪、木鼻、板支輪、火灯窓などの禅宗様式が色濃い建物である。

高越寺山門6
高越山山門
中ノ郷から真っ直ぐに伸びる石段を登っていくと、上から圧倒するように迎えてくれるのがこの山門です。徳島県の五大重層門の一つとされているようです。

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入母屋造、銅板葺、三間一戸の二重門で軸部は総欅です。
高越山山門の重層

重層な二重軒に繁を扇に打ち、斗拱は出組二手先となっています(写真13)。
高越山山門の
壁の中央に板扉を入れて左右には、和様と禅宗様が混交する火燈窓(写真14)があり、擬宝珠高欄を廻らしています。全体に「和様と禅宗様が混交」し、「それがよく融合し,堂々とした風格と威厳に満ちた格調高い建築」と研究者は評します。

高越山山門の十二氏彫刻

見所は彫刻です。特に虹梁の木鼻や、初層の軒下の欄間にの十二支(写真15)に研究者が注目します。これを掘った彫師は、美馬郡脇町拝原の名工三宅石舟斎(九世)で、彼の代表作とされるようです。建築年代は先ほど見たように、明治末期のものになります。
高越寺山門の仁王
      高越寺山門の仁王さま 老朽化で立っていられなくなったようです。
建物全体に痛みが目立ち始めています。これを次の時代に残していく智恵が求められています。
次に、山門の隣の鐘楼を見ておきましょう。

高越山鐘楼3

桁行一間、梁間一間、一重、柱脚部は礎石に礎盤を載せる。柱は円柱(粽)で腰貫、内法貫、頭貫、厚台輪で固め、虹梁、籠彫木鼻などで飾る。軒は二軒繁垂木で、屋根形状は入母屋造の銅板葺である。山門と同様に、多様な彫刻が近代的な建物である。
高越山鐘楼9
高越山鐘楼
桁行と梁間が等しい四本柱で、入母屋造,銅板葺二重軒,繁内転びの円柱が礎盤に建っており、腰貫と頭貫の間に虹梁を廻らしている。斗拱は出組二手先で詰組となっており、材は総欅である。基壇は花崗岩で精巧な仕上げとなっており、正面には階段が設けられている。軒の出が大きく気品があり、妻飾りなどが何とも言えない重厚さを感じさせる(写真16)。また,精巧で入念な蟇股、木鼻の彫刻が美しい(写真17)。

高越山鐘楼の彫刻
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           高越山鐘楼の彫刻 三宅石舟斎(九世)作

この鐘楼も昭和の大火から免れたもので、山門と相前後する明治末期に同じ大工・彫師によって建てられたものと研究者は考えています。
④御水舎は規模は、規模は小さいのですが同じ時期に建てられたものです。
高越山手水舎
切妻造、銅版葺、一重軒、繁、四本の円柱が内転びに立ち,頭貫と台輪を廻らして斗拱で桁を支えている。すっきりとした美しさの建物で,要所に配する彫物が素晴らしく,建物にも調和している(写真18)。中でも、妻の笈形、四面の蟇股が注目される(写真19)。

高越山手水舎彫刻

そう言われてみれば、彫刻がたくさん彫られています。この建物は山門や鐘楼と共に、明治初めに建てられ、昭和の大火を焼け残った三棟の一つになります。最初に述べたように、入口周辺の3つの建物は、豪壮感あるもので明治末に同一の大工・彫師の手によるものだったことを押さえておきます。
さて、敗戦後すぐに建立された高越寺本堂を見ていくことにします。
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高越寺本堂
本堂は、昭和24(1949)年に戦後混乱期に再建されたものです。一見すると本堂には見えず、神社のようにも思えます。この建物は、あまり例のない様式で、本殿に前殿を接合し、さらに前殿に向拝を付けたスタイルで権現造りのように見えます。

高越寺本堂
高越山本堂
その権現造りの正面は、入母屋造平入の拝殿の中央に千鳥破風と軒唐破風が付けらています。唐破風は大きく堂々と力強く感じます。同時に、きらびやかな装飾も施されています。まさに、戦後直後という解放感の中で、建築家が蓄積してきた想像力を爆発させたもののように私は感じます。ある意味では「変わった形式の本堂」で「自己主張する建物」と私には見えます。

高越寺本堂内部
        高越寺本堂内部 大提灯にはいまも「高越大権現」と書かれている

本堂に祀られているのは次の通りです。
 本尊 金剛蔵王尊(高越大権現)      
 脇仏 千手観音 + 役行者 
ここからは「金剛蔵王尊=蔵王権現 千手観音=熊野補陀洛信仰 役行者=修験道」の各信仰の形がうかがえます。
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高越大権現の御真言
本殿入り口の扁額は木彫で、15代藩主蜂須賀茂昭の直筆とされます。(写真9)
高越山文書の中には、蜂須賀家政・第3代藩主蜂須賀光隆・第5代藩主蜂須賀綱矩(つなのり)や家老の蜂須賀山城(池田内膳)からの書簡をつなぎ合わせた巻子もあるので、早い時期から蜂須賀家とのつながりを持ち、保護を受けていたことがうかがえます。

高越寺本堂の扁額
大虹梁の上には形のよい蟇股が配され,向拝の兔の毛通しをはじめ、獅子口、箕甲の線など均整が保たれている。大虹梁の木鼻や蟇股、懸魚などの彫刻が豪華であり、見事な龍の彫刻が左右の柱に刻まれている(写真10)。これらの彫刻は美馬郡(現美馬市)脇町拝原、十世彫師、三宅石舟斎の大作であるが、彫師としては十世をもって終末しているので、石舟斎最後の作品となった。

高越山本道の彫刻

              高越寺本堂向拝部の三宅石舟斎(十世)の龍
錫杖塔は、昭和49(1974)年に完成したものです。
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この伽藍の中で、他を圧倒する存在です。鉄筋コンクリート石張仕上げで、大きな錫杖が天を指します。その下の塔身は八面で、そこに守り本尊八尊が刻まれていて、塔を廻って巡拝できます。多宝塔でなく、こんな塔を建てた所にも独創性や自己主張を感じます。私が高越寺と聞いて最初に思う浮かべるのは、この塔です。この塔と、山門のコントラストが強烈な印象として残るのかも知れません。

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善通寺の錫杖

心経塔は、信者の納経を納める塔で、錫杖塔の翌年(1975年)に完成したものです。

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高越寺 心経塔
宝篋印塔をイメージした塔に宝剣がたっています。

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             修行中の空海に飛んでくる宝剣(弘法大師行状絵詞)
これは弘法大師行状絵詞の中に描かれた宝剣をイメージさせます。錫杖や宝剣というのは、弘法大師伝説の重要なアイテムです。ここには、弘法大師伝説をより強く打ちだしていこうとする高越寺の布教戦略だったと私は考えています。

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                    高越寺護摩堂
高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)には、当時の宗教施設について、次のように記されています。
①「権現宮一宇、並拝殿是本社也」 → 権現信仰=修験道
②「本堂一宇、本尊千手観音」   → 熊野観音信仰
③「弘法大師御影堂」       → 弘法大師信仰
④「若一王子宮」         → 熊野信仰
⑤「伊勢太神宮」         → 伊勢信仰 
⑥「愛宕権現宮」         → 愛宕妙見信仰 → 虚空蔵求聞持信仰  
これと現在の信仰物を対比させてみましょう。
 本堂
 本尊  金剛蔵王尊(高越大権現) → ①     
 脇仏  千手観音         → ② 
     役行者          → ①
 大師堂 弘法大師         → ③
こうして見ると、④⑤⑥が姿を消しているようです。④⑤は、熊野信仰と伊勢信仰で神仏分離の時に姿を消したのかも知れません。しかし、⑥の「愛宕権現宮」の痕跡がなくなっているのはどうしてなのでしょうか? 
秦氏の妙見信仰・虚空蔵

「愛宕妙見信仰」や虚空蔵信仰は、渡来人で鉱物資源開発や鍛冶などの技術集団であった秦氏が信仰した信仰です。それが高越山からは消えたことになります。
 高越山が忌部氏の聖地であり、高越寺が忌部神社の別当であったということについては、現在ではいろいろな疑問点が出されています。
それは根拠となる史料がないのです。「高越山=忌部氏聖地」が「あたりまえ」とされていて、それが前提としていろいろなことが語られてきました。「忌部十八坊」と高越山・忌部神社の関係、十八坊の相互関係(山伏結合としての実態)なども、史料から明らかにされていないことは以前にお話ししました。
高越寺の一番古いとされる縁起「摩尼珠山高越私記」(1665年)の構成を、研究者は次のようにまとめます。
A 役行者(役小角)に関する伝承
①「天智天皇の御宇、役行者開基」
②「大和国吉野蔵王権現と一体分身にして、本地別体千手千眼大悲観世音菩薩」
③「役行者が(中略)権現の奇瑞を感じ、この峰(高越山)によじ上る」
ここには高越山が役行者による開基で、蔵王権現(本地仏 千手観音)を本尊とする山で、役行者が全国に六十六ヶ所定めた「一国一峰」の一つであること記される。
B 弘法大師に関する伝承
④「弘仁天皇の御宇、密祖弘法大師、秘法修行の願望有り此の山に参詣す」
⑤「権現感応有りて、彷彿として現る」と、大師が権現の示現を得て、虚空蔵求聞持法等の行や木造二体を彫刻したこと
C 聖宝に関する伝承
⑥「醍醐天皇の御宇、聖宝僧正、意願有り此の山に登る」と、聖宝がやってきて一字一石経塚の造営、不動窟の整備などを行ったこと。
これと先ほど見た宗教施設群を併せて考えると、次のようなことが分かります。
①17世紀後半の高越山は、山岳宗教の霊山としての施設群を有していたこと
②「役行者開基」で、「大和国吉野蔵王権現と一体分身にして、本地別体千手千眼大悲観世音菩薩」
③弘法大師信仰が根付いて、大師堂があり、大師信仰の霊場でもあったこと
しかし、この時点で高越寺で最重視されていたのは、弘法大師信仰ではなく、開基者の役行者や蔵王権現、そしてその本地仏である千手観音でした。それはこれらが本尊として本堂に祀られていたことから分かります。ここでは17世紀後半の高越山では、弘法大師信仰よりも、蔵王権現信仰の方が優勢であったことを押さえておきます。別の見方をすると、高越寺は、大師信仰が後退し、修験道色の濃い霊場となっていたと言えそうです。これが高越寺が四国霊場の札所にならなかった要因の一つと研究者は考えています。
 このようななかで本尊の蔵王権現に、忌部氏の祖先神を「本地垂述」させようとした動きが出てきます。「忌部遠祖天日鷲命鎮座之事」に、次のように記されています。(要約)

「(高越山には)古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座していたが、世間では蔵王権現を主と思い、高越権現といっている。もともとこの神社は忌部の子孫早雲家が寺ともどもに奉仕していた。ところが常に争いが絶えないので、蔵王権現の顔を立てていたが、代々の住持の心得は、天日鷲を主とし、諸事には平等にしていた。このためか寺の縁起に役行者が登山した折に天日鷲命が蔵王権現と出迎えたなどとは本意に背くことはなはだしい」

ここからは信仰対象や由来を巡って、次の二つの勢力の対立があったことです。
①主流派は「役行者=蔵王権現(高越権現)」説であったこと
②非主流派は「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座」していたとして、忌部氏の祖神を地神と主帳
ここからは近世の高越山では「忌部氏の地神」と「伝来神の蔵王権現」の主導権争いがあったこと、て忌部修験と呼ばれる勢力が、蔵王権現に忌部氏伝説を「接木」しようとしている痕跡がうかがえます。

近世の氏粟国忌部大将早雲松太夫高房による「高越大権現鎮座次第」は次のように記します。

吉野蔵王権現神、勅して白く一粟国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め、諸神達集る高山なり、我もかの衣笠山に移り、神達と供に西夷北秋(野蛮人)を鎮め、王城を守り、天下国家泰平守らん」、早雲松太夫高房に詰げて曰く「汝は天日鷲命の神孫にで、衣笠山の祭主たり、奉じて我を迎へ」神託に依り、宣化天皇午(五三八)年八月八日、蔵王権現御鎮座なり。供奉三十八神、 一番忌部孫早雲松太夫高房大将にて、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供す。この時、震動雷電、大風大雨、神変不審議の御鎮座なり。蔵王権現、高き山へ越ゆと云ふ言葉により、高越山と名附けたり、それ故、高越大権現と申し奉るなり。

意訳変換しておくと
吉野の蔵王権現神が勅して申されるには、阿波国麻植郡衣笠山(高越山)は、御祖神を始め、諸神達が集まる霊山であると聞く。そこで我も衣笠山(高越山)に移り、神達と供に西夷北秋(周辺の敵対する勢力)を鎮め、王城を守って、天下国家泰平を実現させたい」、
さらに(忌部氏の)早雲松太夫高房に次のように告げた。「汝は天日鷲命の神孫で、衣笠山(高越山)の祭主と聞く、奉って我を迎えにくるべし」 この神託によって、宣化天皇午(538)年八月八日、蔵王権現が高越山に鎮座することになった。三十八神に供奉(ぐぶ)するその一番は忌部孫早雲松太夫高房大将で、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供した。この時、震動雷電、大風大雨、神変不思議な鎮座であった。蔵王権現の高き霊山へ移りたいという言葉によって、高越山と名附けられた。それ故、高越大権現と申し奉る。
この中で作者が伝えたいのは次の2点でしょう。
①吉野の蔵王権現が、阿波支配のために高越山にやってきたこと、
②その際の先導を務めたのが忌部氏の早雲松太夫高房だった。
高越山の蔵王権現と忌部氏が、この物語で結びつけられていきます。しかし、このような由来を史料や現地の痕跡からは裏付けられないのは今まで見てきた通りです。
忌部氏の祖を祀るものが川田にはありません。それは山崎の忌部神社です。
ここでは、先住地神の天日鷲命が譲歩して、蔵王権現を迎えた形になっています。そして、忌部一族を名乗る勢力が、祖先神の天日鷲命を奉り、その一族の精神的連帯の中心としてあったのが山川町の忌部神社とされます。しかし、中世の高越山やその山下の川田には、忌部氏の痕跡はありませんでした。忌部氏の信仰していた神々も出てきません。これをどう考えたらいいのでしょうか? 誰もいない高越寺の伽藍に座り込んで、答えの出ない謎を考えていました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

「阿部 保夫 高越山の姿  阿波学界紀要2012年
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今回はいよいよ高越山山頂の高越寺を目指します。前回の中ノ郷徘徊を終えて、県道248号にもどって舟窪つつじ園へのつづら折れの道を登っていきます。標高差800mあまりの山道を原付バイクはあえきあえぎ登っていきます。がんばれがんばれと応援しながらの山道走行です。途中の「天狗の湧水」で水分補給のために小休止。
 高越山から奥野井山にかけては、修験者の痕跡が色濃く残るところです。権現と名付けられた山々が続き、母衣暮露の滝などの行場も各地に残ります。このあたりが阿波修験道の中心であったというのがうなづけます。

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舟窪ツツジ園からの稜線上の峰峰には「権現」が開かれています。今では、修験者の修行エリアであったことをしめす「道しるべ」でもあります。この林道をたどっていくと迎えてくれるのが・・
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立石峠
 立石峠です。ここには大きな石が立てられています。これが立石峠の謂われのようです。これも自然石と云うよりも修験者達が目印のため、行の一環として行ったとも言われます。東側の木々が刈り払われ、展望がきくようになっています。ここからの展望は素晴らしい。お気に入りのテーブルでおやつです。
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立石峠から高越寺の駐車場まではわずかです。
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高越山駐車場
広い駐車場には誰もいません。ここで足ごしらえをして、高越寺までは約20分程の登山道を歩き出します。
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まず、大きな山門が迎えてくれます。
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巨岩の下には、石仏や祠が安置されています。ここも行場だったようです。

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「やくしだけ」の行場と薬師如来
ここにも断崖の下に石仏が安置されています。説明版には次のように記されています。

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高越山の「やくしだけ」説明版
ここには薬師如来と十二神将が祀られていることが記されています。
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高越山の行場「やくしだけ」の薬師如来
合掌していつものように念じて、廻りを見回しますが十二神将は見当たりません。少し下がってもう一度見上げると・・
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高越山の行場「やくしだけ」の薬師如来と十二神将と鎖
瀧(断崖)の上に向かって、鎖が伸びています。その上に十二神将の一人が見えて来ました。この瀧が「やくしだけ」と呼ばれる行場のようです。

高越山 薬師鎖場
行場「やくしだけ」の鎖場
この鎖場に沿って十二神将は鎮座します。まさに行者たちの行を見守っているのです。そして鎖場のゴールに待ち受けているのが・・・
高越山行場薬師岳の最上部の不動明王
          高越山の行場「やくしだけ」の鎖場最上部の不動明王
鎖場の一番上には、行者達の守護神・不動明王が見守ります。このような行場が高越山の廻りにはいくつもあったようです。一つの行場を終えると、次の行場に向かい、行場を行道しながら修験者たちは
「修行(験を積む)」し、天狗になろうとしたのかも知れません。
 また、真言密教には金剛界と胎蔵界という二つの曼荼羅世界があるとされました。それは行場にも当てはまります。私は、高越山が金剛界で、奥野々山が胎蔵界であったのではと想像しています。そんなことを考えながら平坦なトラバース道の参道を歩いて行きます。歩きながら考えるというのも楽しいものです。
高越山地蔵菩薩

そして最後に登場したのが・・ 
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高越山参道の地蔵尊
高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)には、
山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」と記されています。中世の中ノ郷の宗教施設は、地蔵信仰であったようです。その影響がここにも現れているのかななどと、想像を膨らませます。
この地蔵尊を越えると、向こうに高越寺の鐘楼が見えて来ました。
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                        高越寺

高越寺山門5
高越寺山門
里(山下)の川田からの登山道は、この山門の正面につながります。駐車場からの道は、車社会になってからの裏参道です。そのため山門に横から入ることになります。山門を入ると迎えてくれる光景は・・
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                      高越寺
高越寺ワールドです。次回は。その建物群めぐりを行いたいと思います。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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前回は、山川町の高越山登山口の川田庄を散策して、修験者の痕跡を追いかけました。今回は川田川を遡って、中腹の中ノ郷を目指します。川田川沿いの県道248号を登っていくと、ふいご温泉の看板が眼に入りました。
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高越大橋西側のふいご温泉の看板
「温泉」の名に釣られて、のこのこと下りていきます。そそり立つ岩壁の横に温泉があります。
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                     ふいご温泉
中ノ郷を探った後は、高越山の奥の院まで探索予定なので温泉に入ることはできません。誘惑を振り払って、やってきた道を引き返していると、こんな説明版がありました。

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鞴(ふいご)橋と紅簾片岩の説明版
ここには次のようなことが書かれています。
①ここから100mほど上流の左岸に、名越銅山があった
②明治には、良質の班銅鉱を産出し、それを対岸で製錬するためにめに吊り橋を架けた。
③製錬は、人力の鞴(ふいご)で行われたので、この橋を鞴橋と呼んだ。
④また対岸には飯場もあり、鉱夫たちは鞴橋を渡って出勤した。
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鞴(ふいご)橋
ふいご温泉には、銅山があったのです。そのために立派な吊り橋があり、その跡が絶壁の上の芝生のキャンプ場として活用されています。

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鉱山跡にあるキャンプ場
銅鉱山がここにはあったようです。帰ってきて調べて見ると高越山周辺には、銅鉱山が次の3ヶ所あったようです。
高越山周辺の鉱山跡
高越山周辺の銅山跡
①高越鉱山跡本坑口
②久宗坑口(川田エリア)
③川田山坑口(ふいご温泉)
高越山ふいご温泉周辺の鉱山

これらの鉱山からは含銅硫化鉄鉱などを採掘していたようです。

2密教山相ライン
四国の鉱山と山岳寺院の相関関係図
以前に、四国の中央構造線沿いは「鉱物資源ライン」であったこと、鉱山のあった所には有力な山岳寺院があり、修験者たちの拠点となっていたことをお話ししました。簡単に言うと、「霊山に鉱山あり、そして修験者の拠点であった」という相関図が描けることになります。それでは、この相関関係は高越山にも当てはまるのでしょうか。この関係を説明するには、次のようなキーワードを結びつけて行く必要があります。
秦氏 鉱山開発 修験者 愛宕妙見信仰 虚空蔵信仰

まず技術集団としての秦氏集団を押さえておきます。
技術集団としての秦氏

 鉱山開発を担った秦氏集団が信仰したのが、愛宕妙見(北斗七星)信仰であり、虚空蔵菩薩信仰です。その信仰の中心には修験者たちがいました。四国には虚空蔵菩薩を安置する寺院も多くあり、求聞持法の信仰者が多いことは以前にお話ししました。四国の空海伝承に登場する虚空蔵像は、「明星が光の中から湧きたった」「明星が虚空蔵像となってあらわれた」と表現します。
   空海の高弟で讃岐秦氏出身の道昌が虚空蔵求持法の修得のため百日参籠した時「明星天子来顕」と「法輪寺縁起」は記します。この「明星」は、空海が室戸岬で虚空蔵求聞持法を修法していた時、口の中に入ってきたというものと同じものでしょう。 虚空蔵求聞持法と明星とは関係がありそうです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵


ここまでをまとめておくと次のようになります。
①朝鮮半島からの渡来した秦氏集団は、最先端産業である鉱山・鍛冶の職人集団であった
②当時の鉱山集団がギルド神のように信仰したのが星神(明星)である
③彼らは妙見=北極星と考え、妙見神が天から金属を降らせたと信じ信仰した。
④妙見信仰と明星信仰は混淆しながら虚空蔵信仰へと発展していく。
⑤修験者たちは虚空蔵信仰のために、全国の山々に入り修行を行う者が出てくる。
⑥この修行と鉱山発見・開発は一体化して行われる。
⑦こうして開発された鉱山には、ギルド神のように虚空蔵菩薩が祀られ、その山は虚空蔵山と呼ばれることになった。
こうして見ると四国の霊山には、鉱山が多い理由が分かるような気もしてきます。それ媒介をした集団が、空海に虚空蔵求聞持法を伝えた秦氏ではないかという説です。
大仏造営 辰砂分布図jpg

 伊予の辰砂(水銀)採掘に、秦氏が関わっていた史料を見てみましょう。
大仏造営後のことですが、『続日本紀』天平神護二年(766)二月三日条は、次のように記されています。
伊豫国の人従七位秦呪登浄足ら十一人に姓を阿倍小殿朝臣と賜ふ。浄足自ら言さく。難波長柄朝廷、大山上安倍小殿小鎌を伊豫国に遣して、朱砂を採らしむ。小鎌、便ち秦首が女を娶りて、子伊豫麿を生めり。伊豫麻呂は父祖を継がずして、偏に母の姓に依る。浄足は使ちその後なりとまうす。

  意訳変換しておくと
伊豫国の従七位呪登浄足(はたきよたり)ら11人に阿倍小殿(おどの)朝臣の姓が下賜された。その際に浄足は次のように申した。難波長柄朝廷は、大山上安倍小殿小鎌(をがま)を伊豫国に派遣して、朱砂を採掘させた。小鎌は、秦首(はたのおびと)の娘を娶ってて、子伊豫麿をもうけた。伊豫麻呂は父祖の姓を名乗らずに、母の姓である秦氏を名乗った。私(浄足)は、その子孫であると申請した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①難波長柄豊碕宮が置かれた白雉二年(651)から白雉五年(654)に、大山安倍小殿小鎌は水銀鉱(辰砂)採掘のために伊予国へ派遣された
②小鎌は、現地伊予の秦首(はたのおびと)の娘と結婚した
③その間に出来た子どもは、父方の名前を名乗らずに母方の秦氏を名乗った。

  内容は、愛媛の秦氏一族から改姓申請がだされていて、事情があって父親の姓が名乗れず伊予在住の母方の姓である秦氏を名乗ってきたが、父方の姓(大山安部)へ改姓するのを認めて欲しいという内容です。ここからは、伊予で秦氏が水銀採掘に従事し、中央政府から派遣された小鎌に協力し、婚姻関係を結んでいたことが分かります。

 松旧壽男氏は『丹生の研究』で、次のように指摘します。

「伊予が古代の著名な朱砂産出地であったことと、七世紀半ばに中央から官人が派遣され、国家の統制のもとに現地の秦氏やその支配下集団が朱砂の採掘・水銀の製錬に当たっていたことは、少なくとも事実とみることができる」

南伊予の秦氏と神社を一覧化したのが次の表です。

1南予地方秦氏関係神社表
              南伊予の秦氏関連神社と周辺鉱山の産出品

以上から伊予には、大仏造営前から中央から技術者(秦氏)が派遣され、朱砂採掘などの鉱山開発を行っていたと言えそうです。こうした動きは、阿波にもあったと私は考えています。阿波も伊予に続く「鉱山ベルト地帯」で、銅鉱や辰砂(水銀)がありました。そこに秦氏が入ってきて、彼らの信仰である妙見信仰や虚空蔵信仰を勧進したという説になります。
渡来系の秦集団は、戸籍に登録されているだけでも10万人を越える大集団です。

その中には支配者としての秦氏と、「秦の民」「秦人」と呼ばれたさまざまな技術を持った工人集団がいました。彼らの中で鉱山開発や鍛冶などに携わった集団が信仰したのが、虚空蔵信仰・妙見信仰・竃神信仰でした。これらは定着農民の信仰ではなく、農民らから蔑視の目で見られ差別されていた非農民たちの信仰でもありました。一方、八幡神・稲荷神・白山神なども秦氏の信仰ですが、これらは周囲の定着農民も信仰するようになって大衆化します。しかし、もともとはこれらも秦氏・秦の民が祭祀する神の信仰で、虚空蔵・妙見・竃神信仰と重なる信仰であったと研究者は考えているようです。

  それでは、高越山に秦氏や愛宕妙見信仰の痕跡はあるのでしょうか?

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   高越山山頂の弘法大師像 ここからは「秦氏女」との線刻銘がある経筒が出てきた。
秦氏に関しては、弘法大師像の立つ高越山山頂の経塚がありました。ここから出てきた経筒は、12世紀のものとされ、常滑焼の龜、鋼板製経筒で蓋裏に「秦氏女」との線刻銘があり、白紙経巻八巻などの埋納遺物も出てきています。ここからは、高越山信仰の信者として、秦氏がこの周辺にいたことが分かります。
愛宕妙見信仰にはついては、高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、「山上伽藍」について次のような宗教施設があったと記します。
「権現宮一宇、並拝殿是本社也」 → 権現信仰=修験道
「本堂一宇、本尊千手観音」   → 熊野観音信仰
「弘法大師御影堂」       → 弘法大師信仰
「若一王子宮」         → 熊野信仰
「伊勢太神宮」         → 伊勢信仰 
「愛宕権現宮」         → 愛宕妙見信仰   → 虚空蔵菩薩信仰 → 虚空蔵山
④山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現宮と鳥居

ここからは山上には、愛宕権現社があり、麓の「一江(川田)には、虚空蔵権現社が鎮座していたことが分かります。以上から高越山にも「秦氏=愛宕妙見信仰=虚空蔵信仰=鉱山開発」という関係が見えます。高越山は甘南備山の姿をした山、行場のある山としてだけでなく、もうひとつ鉱山資源を産出する山として、秦氏が定住し、そこに愛宕妙見信仰や虚空蔵菩薩信仰が根付いた山と言えそうです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究 
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好天の日が続いたので「山のてっぺんで私も考えたシリーズ」の再開です。今回は阿波の高越山の頂上に立って、いろいろと考えるという魂胆です。阿讃山脈を三頭トンネルを越えて原付バイクでちんたらとやってきたは、山川町前川の川田八幡神社です。

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                    川田八幡神社(山川町)
このあたりは高越山から伸びてきた尾根が川田川に消えていくあたりになります。中世の河輪田庄(河田庄:江戸時代の川田村)と高越寺庄にあたります。庄域はよく分からないようでが、中世後期には和泉上守護細川氏の所領となっていて、上守護家の拠点であった泉屋形とされる井上城跡もあります。高越山の山の上のお寺にお参りする前に、里に残る高越山の修験者たちの痕跡を探そうとやってきました。

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まずは川田八幡神社に参拝し、「教え給え、導き給え、授け給え」と祈念します。
この神社は、高越山から伸びてきた尾根の上にあり、50段の石段を登ります。

川田八幡神社本殿3 山川町
川田八幡神社本殿
川田八幡神社(高越庄八幡宮)は、高越寺荘の鎮守として、歴代の領主に厚く保護されてきた神社です。その社殿は鎌倉の鶴岡八幡宮と同じ特異な様式(『山川町史』)とされます。また、現存する最古の棟札に「右大将軍頼朝公御一門繁栄子孫豊楽」と記されています。これらを合わせて考えると、関東御領である高越寺荘の鎮守として「大檀那小笠原弥太郎長経」が鶴岡八幡宮を勧請した神社とする説もあります。少し長くなりますが調査報告書を引用しておきます。

本殿は、三間社流造銅板葺きで、花崗岩の基き壇に建ち、身舎部分は亀腹と地覆延石を回す。円柱(上粽)を地覆長押、切目長押、内法長押で固め、柱頭部は頭貫木鼻(拳)と台輪木鼻が載る。組物は平三斗とし、彩色された中備彫刻を填める。軒は二軒繁垂木とする。妻飾は虹梁の上に笈形付の太瓶束を立て、太瓶束中央部に彩色された鳳凰の彫刻で飾り、その様式から後補されたものと考えられる。内部は、仏教の影響を受け二室に区切られている。奥は一段上げて床を張り、板戸を填める。手前の天井を格天井で仕上げる。

 向拝は、角柱を虹梁形頭貫で固め、獅子の木鼻が付く。身舎と繋海老虹梁で繋ぎ、柱頭部の組物は出三斗とする。柱間には中備彫刻を填める。虹梁形頭貫と繋海老虹梁の絵様の彫りは浅く、形状は簡素であり、下面には錫杖彫を施し、神仏習合の名残が見られる。軒は二軒繁垂木である。縁は四方切目縁とし、擬宝珠高欄を回す。腰は束つか立貫を通す。階は木口階段5級で浜床を張り、随神像を安置する。

山川町川田八幡神社本道
川田八幡神社本殿の平面図

川田八幡神社本殿2 山川町

棟札は9枚残されていて、最も古いものが「建久8年(1197)上棟」の鎌倉時代初期のものです。しかし、元和3年(1617)以前の5枚は、筆跡がよく似ており、元和3年に書き写された可能性があると研究者は指摘します。つまり、この棟札をそのまま信じることは出来ないようです。
本堂の建築年代については、虹梁の絵様や錫杖彫、棟札の再興の記述から、享保16年(1731)とします。これ以後の棟札には、上葺、葺替上棟とあるので、屋根の修理がそれ以後に数度行われていることが分かります。幾度かの改修を経ながら地域の人達が400年以上、守り継いできた建物になります。しかし、この神社からは忌部氏の痕跡は窺えません。
 中世の修験者は、天狗になるために修行していたことは以前にお話ししました。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗達(別当金光院発行)

それは讃岐の金毘羅大権現や白峰寺の天狗達と同じです。修験者の山は、天狗の住む山でもあり、そこにはいろいろな天狗伝説が生まれます。ここでも高越山の行場を渡り歩く修験者が数多くいて、中腹の中ノ郷や麓の川田に拠点を設けていました。彼らの経済基盤は、お札の配布や、先達としての高越山参拝にありました。その拠点が、弘田八幡神社周辺と云うことになります。それでは、高越山信仰の痕跡を探して、弘田の里を歩いて見ます。

 弘田八幡神社の参道の鳥居の横に、立派な花崗岩の門柱が建っています。

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       高越山登山道の入口門柱(弘田八幡神社) 側面に「高越山」とある
寄進文から明治38(1905)年7月に北海道の山田正太郎氏が寄進したものであることが分かります。ここには側面に「高越山」と掘られています。ここが高越山への入口起点になるようです。

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               高越山登山道の入口門柱(弘田八幡神社)
ここからは高越山へのスタートは、弘田八幡神社であると当時の人達は認識していたことがうかがえます。ここから伸びる道を進んでいくと、分岐点に「光明真言百万遍」と刻まれた庚申信仰の版碑が建っています。
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             「光明真言百万遍」と刻まれた庚申信仰の版碑
この地域でも幕末から明治にかけて庚申信仰が、盛んに信仰されていたことがうかがえます。ちなみに、庚申信仰へ人々を組織したのも修験者(山伏)であったことは以前にお話ししました。庚申碑を見ていると、田んぼの向こうにも板碑が見えます。さっそく行って見ます。こんな時に原付バイクは便利です。

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大坊の板碑
説明文を読んでおきます。
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「14世紀後半のもので、「追善供養」のために作られたもので「これだけの板碑は、天下広しといえどもないと言われるほどの名品」と書かれています。14世紀後半には、追善供養を行う僧侶(修験者集団)がいたことになります。刈り取りの終わった田んぼの彼岸花を眺めながら棚田の中の道を進んでいくと、鳥居が坂の上に見えてきました。
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高越山への鳥居
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                    高越山への鳥居
鳥居に下を谷から取水した用水路が等高線に沿って流れていきます。この用水路によって、棚田に水が引き込まれています。用水路の完成と棚田開発はリンクしていたはずです。それを担ったのが向こうに大きな屋根が見える明王院のような気がしてきます。後で明王院には立ち寄ることにして、この鳥居をくぐって登っていきます。
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高越山登山口(山川町)の鳥居から
ふりかえると鳥居の向こうには、こんな光景が広がっていました。弘田の里、そしてはるかに吉野川や北岸が見てきます。そして、ここが観音堂になります。

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高越寺(里の観音堂)
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観音堂の弘法大師像と不動明王像
観音堂にお参りして、中をのぞかせて貰うと右に弘法大師像、左に不動明王が祀られています。中央にある閉じられた厨子の中に、本尊の観音さまがいらっしゃるのでしょう。ここからは、これらをもたらした次のような修験者・聖達の痕跡がうかがえます。
観音菩薩  → 補陀洛観音信  → 熊野信仰の熊野行者
弘法大師像 → 弘法大師信仰  → 高野聖
不動明王  → 修験者の守護神 → 役行者と蔵王権現信仰

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高越山への登山口の観音堂の黒松

道の向こう側に新しく植樹された黒松の下に小さな碑が置かれています。そこには次のように記されています。
高越寺コク屋の観音堂は表参道の出発点、昔から多くの先達や一般信者が信仰の祈りを持ち、厳しい山道を遠路徒歩で往来していた。観音堂の前には、先達や信者を迎えに飛来した高越寺の御天狗様等が羽を休めたと伝わる黒松(樹齢約千年)があり、観音堂より山頂へ、帰路へと見守り道案内したと伝わる。

要点をまとめておくと
①観音堂の前の道が高越寺への表参道であった。
②参拝者や先達を迎えに、高越山から天狗が下りてきて、見守り道案内をした。
この松は高越山から飛んできた天狗達が羽根をやすめた所だったというのです。天狗信仰が語り伝えられています。こんな話に出会うとホクホクしてきます。

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             金毘羅大権現と天狗たち (金毘羅金光院発行)

 権現と天狗達の関係を考えていると、「どちらからですか?」と奥さんから声をかけられました。
お話しをしていると、ここが高越寺の住職の里の住居であることが分かりました。確かに、グーグルマップで「高越山高越寺」を検索すると、ここが出てきます。奥さんの話によると、いろいろな祭礼や行事が、ここでも行われていたようです。例えば観音堂から少し上がった丘では、奉納相撲が行われていて、阿波だけでなく、淡路や讃岐からの参拝者も多かったと云います。また、集団参拝の信者達は先達に率いられて、中ノ郷や山頂などでの行場巡りをしながら「修行」し、2、3泊して下りてきたとも云います。ただ、山頂に登って参拝するだけでなく、行場での修行も行われていたようです。それは、剣山の集団参拝と同じです。ここでは観音院が高越寺の里寺であり、高越山への参拝のスタート地点となっていたことを押さえておきます。そうだとすれば、木屋平の龍光寺と同じように、やってくる信者たちの世話をする宿坊なども里にはあったことが考えられます。
 さて、もうひとつ気になる寺院があります。下の鳥居の向こうに見えた明王院です。

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明王院(山川町川田)四国三十六不動霊場第9番の札所
  この寺の本尊は不動明王で「川田不動」とも呼ばれ、四国三十六不動霊場第9番の札所になっています。修験者の守護神・不動明王を本尊としていることを押さえておきます。縁起には、次のように記されています。
「空海が四国巡錫の折、高越山に立ち寄り開基。1571年(天正2年)要全大徳師を中興の祖とし伽藍を整備し、大聖不動明王法を修して不動明王と毘沙門天を勧請」

とします。 阿波郡村誌には「天正2年(1574)2月に、第1世住職要仙が創立」とあります。戦国時代に、不動明王や毘沙門天を勧進して、新たに創建された寺院のようです。

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                明王院(山川町川田)
明王院は井上城の城主であった土肥氏が菩提樹として建立し、保護した寺院のようです。
井上城跡2
井上城跡

この寺の近くに井上城がありました。そこには今は、「土肥右衛門尉源昌秀」と「土肥紀伊守源朝臣庸吉」の墓が建っています。説明版を見ておきます。

井上城跡
井上城跡説明版(山川町井上)

ここには次のようなことが記されています。
①ここに初めて城を築いたのは細川常有で1451年のことで、川田城と称した。
②その後、永禄年間に土肥氏が城主となり井上城と改めた。
③高越山を背負って、この城の下に城下町が形成されていた。

細川元常の時に土肥綱真が功績によりこの地に移ってきて、16世紀半ばの戦国時代に城主になったようです。「阿波志資料書」には次のように記します。

「土肥因幡守源綱真初与七と称し、父秀行と共に讃岐国神崎城に居住し、後の天文年間中川田井上城に移居した云々。」

 ここからも土肥氏が天文年間(1532~1555年)に、讃岐神崎城から川田井上城に移ってきて新たな城主となったことが記されています。土肥氏の知行についてはよく分かりませんが、川田・川田山・拝村などを所領として、相当な勢力があったと研究者は考えています。また金山小路、小川小路などの名が残っているので、城下町形成が行われていた痕跡もあります。
 先ほど見たように明王院は、「天正2年(1574)2月に、第1世住職要仙が創立」とありました。
要仙も高越山で修行を積んだ修験者であったのでしょう。その要仙を土居氏が保護し、菩提樹として、不動明王や毘沙門天を勧進して、新たに創建したのが明王院と私は考えています。しかし、時は戦国時代、土佐の長宗我部元親の阿波侵攻で、時代は大きく動きます。綱真には房実、康信、秀実の三子がありましたが、新右衛門秀実は、天正7年(1579)脇城で長曽我部軍と戦い戦死します。そして3年後には長曽我部元親が阿波を統一して、井上城も落城します。しかし、明王院は長宗我部元親の保護を受けて存続します。ここまでで押さえておきたいのは、この周辺に忌部氏の痕跡はないと云うことです。

   今度は。高越山を史料で押さえておきます。南北朝時代のもので、高越寺の霊場化がうかがえる3つの史料があります。
1つ目は、大般若経一保安三年〔1122)~大治2年〔1127)です。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名が出てきます。天台系密教の教線が高越山におよんでいたことがうかがえます。
2つ目は経塚です。12世紀のものとされる常滑焼の龜、鋼板製経筒(蓋裏に「秦氏女」との線刻銘)、白紙経巻八巻などの埋納遺物が出てきています。秦氏がこの周辺にいたことがうかがえます。
3つ目は、最初に見た「大坊の板碑」です。これは14世紀後半のもので「追善供養」のために作られたものでした。
以上からは12世紀頃には高越山が修験者によって霊場化していたこと、そして祖先供養なども行っていたことがうかがえます。

次に古い史料は「川田良蔵院文書」の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」(1364(貞治三年)です。「檀那を譲り渡す(名簿売買)」という熊野檀那株の売買契約書で、当時の修験者たちがよくおこなっていたことです。川田良蔵院というのは、高越寺の子院のひとつだったようです。ここからは次のような事が推察できます。
①鎌倉時代から南北朝にかけて、高越山の麓・川田には何人もの修験者がいたこと。
②高越山の里の修験者は、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに「引率」していた「熊野行者」がいたこと
③高越山周辺は、熊野行者以外にも修験者達がさまざまな宗教活動を行っていたこと
次に細川常有の「若王子再興棟札」(寛正3年(1462)の写し(寛政2年(1790)を見ておきましょう。
ここからは熊野十一所権現の一つである若王子が高越山に鎮座していたことが分かります。熊野信仰も引き続いて信仰されて、熊野詣での拠点だったようです。先ほど見た『私記』には、高越寺には「蔵王権現を中核として、若一王子(若王子)、伊勢、熊野」が境内末社として勧請・配置されていたと記されていました。この棟札からは、15~16世紀には、すでにそのような宗教施設が姿を見せていたことになります。
この文書には「下の房」が出てきます。下之坊のある「河田(川田)」は、高越山麓の河輪田庄(河田庄)と研究者は考えています。天明8年(1788)の地誌『川田邑名跡志』には次のように記されています。

下之坊、地名也、嘉暦・永和ノ頃、大和国大峯中絶シ 近国ノ修験者当嶺(高越山)二登り修行ス。此時下ノ坊ヲ以テ先達トス。修験者ノ住所也 天文年中ノ書ニモ修験下ノ坊卜記ス書アリ」

意訳変換しておくと
「下之坊とは地名である。嘉暦・永和の頃に大和(奈良)大峯への峰入りができなくなったために、近国の修験者たちが当嶺(高越山)に、やってきて修行するようになった。この時に下ノ坊が先達となった。つまり下の房とは修験者の拠点住所である。天文年中の記録にも「修験下ノ坊」と記す記録がある」

これは後世の記録ですが、次のようなことが分かります。
①大峰への登拝ができなくなった修験者たちが高越山で修行をおこなうようになったこと
②その際に、下之坊の修験者たちが高越山で先達を務めたこと
また「良蔵院」の項には、下之坊は天正年間、土佐の長宗我部氏の侵攻の際には退去したが、その後近世になって良蔵院として再興された記されます。さらに『名跡志』には、良蔵院以外にも「往古ヨリ当村居住」の「上之坊ノ子係ナルヘシ」という山伏寺の勝明院など、山麓の山伏寺が七か寺あったと伝えます。ここには川田の里は、山伏寺がいくつもあって高越山信仰の拠点となっていたことを押さえておきます。 
 高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、当時の住職宥尊によるもので、山内の宗教施設を次のように記します。
「山上伽藍」については、
「権現宮一宇、並拝殿是本社也」 → 権現信仰=修験道
「本堂一宇、本尊千手観音」   → 熊野観音信仰
「弘法大師御影堂」       → 弘法大師信仰
「若一王子宮」         → 熊野信仰
「伊勢太神宮」         → 伊勢信仰 
「愛宕権現宮」         → 愛宕妙見信仰 → 虚空蔵求聞持信仰  
②山上から7町下には不動明王を本尊とする石堂
③山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」と記されるので、ここが聖俗の結界
④山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現宮と鳥居
ここからは戦国時代の戦乱期を経て、17世紀になっても高越寺は引き続いて修験者による山岳信仰の霊場であったことが分かります。さらに、麓は「一江」と呼ばれていたこと、そこには「虚空蔵権現宮と鳥居」があったことを押さえておきます。「虚空蔵権現宮と鳥居」がどこにあったかは、今の私には分かりません。川田八幡神社としたいのですが、それを裏付ける史料がありません。以上を見る限り、従来言われていた「高越山=忌部修験の拠点」という説を裏付けるものは何もありません。
 高越寺は、山伏をどのように組織していたのでしょうか
高越山に残された大般若経巻の修理銘明徳3年(1292)には、「高越之別当坊」「高越寺別当坊」という別当が見えます。また上守護家による永源庵への明応4年(1495)の寄進にも「高越別当職並参銭等」と出てきます。ここからは高越寺には、別当が置かれていたことが分かります。しかし、詳しいことは分かりません。
 時代を下った『西川田村棟付帳』寛文13年(1671)には、弟子、山伏、下人などが登場します。ここからは次のような高越山の身分階層がうかがえます。
①住学を修める正規の僧職と弟子=寺僧
②山伏=行を専らにする者
③寺に奉仕する下人(俗人)
基本的には寺僧と山伏だったようで、中世寺院の「学と行」の編成だったことが推察できます。しかし、15世紀末には別当職は、山内の実務的統括から切り離されていたようです。大まかには寺僧が寺務や法会を管掌し、そのもとで山伏が大峰修行や山内の行場の維持管理などを行ったとしておきましょう。しかし、地方の山岳寺院でなので、寺僧と山伏に大きな違いはなかったかもしれません。
 確認しておきたいのは『名跡志』では、山麓の山伏は高越寺には属していません。下之坊の伝承にあるように、高越山を修行の場としていたとみられ、山内と山麓をつなぐ役割をもっていたと研究者は考えているようです。

以上、川田の里を徘徊して考えたことをまとめておきます。
①高越山は古くからの霊山で、山林修行者が行場として活動していた。
②12世紀頃には山上にいくつも宗教施設が姿を現し、修験者の活動拠点となった。
③14世紀になると、麓の川田庄には熊野先達を行う熊野行者などの修験者が住み着くようになった
④修験者・聖達は、高越山のお札配布や祖先供養なども行い高野山巡礼の先達も務めた。
⑤また戦乱で吉野山巡礼ができなくなると、近国の修験者が高越山で修行を行うようになり、その先達を務めるようにもなった。
⑥こうして、川田には修験者の拠点(山伏寺)がいくつも現れるようになった。
⑦戦国時代には土肥氏が井上城の城主としてやってきて、修験者を保護し明王院を菩提寺として建立した。
⑧長宗我部元親の侵攻で土肥氏は去ったが、明王院は保護を受け存続した。
⑨高越山の宗教施設は、近世になっても存続し、多くの信者の信仰を集め、川田は登山入口として栄えた。
⑩明治の神仏分離も、大権現信仰は大きな影響を受けることなく存続した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店
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高越寺絵図1
             阿波高越山

阿波の修験道のはじまりは、高越山とされます。高越山修験とは、どのようなものだったのでしょうか。これについては、今までにも触れてきたのですが、今回は「阿波の修験道  徳島の研究6(1982年) 236P」をテキストにして見ていくことにします。

徳島の研究6

高越寺の宥尊が記述した「摩尼珠山高越寺私記」の高越寺旧記(1665(寛文五)年には次のように記します。

「天智天皇の御宇、役行者基を開き、山能く霊神住む。大和国吉野蔵王権現の一体、本地に分身し、体を別って千手千眼大悲観世音菩薩となる」

これに続く部分を要約しておきます。
①役行者が大和国の吉野蔵王権現と一体分身の聖山として、千手観音として高越山を開いたこと。
②高越山が一国一峰の山として開かれたこと。
③弘法大師が修業し、二個の木像を彫ったこと。
④聖宝僧正が修業したその模様。
⑤本山の伽藍、仏像などの五項目についての記録
②の内容をもう少し詳しく見てみると、

役行者行力勇猛、達人神通、自在権化、故感二権化奇瑞、攀上此峯 択地造壇柴燈、 阿祗備行者、有衆生済度志、廻国毎国開二阿祗禰峯、其数六十六箇所、名之謂一国一峯、摩尼珠山配其云々。

意訳変換しておくと

役行者は行力勇猛で、人と神と仏を行き来し、自在に権化(変身)することができた。そこで権化や奇瑞のためには、霊峰にのぼり、その峯の上に護摩壇を築き柴燈を焚いた。 阿祗備行者は衆生救済の志を持ち、全国を廻国し国ごとに阿祗禰峯を開いた。その数は六十六箇所におよび、これを一国一峯、摩尼珠山と呼ぶ。

江戸時代初めには、高越山は以上のように自らの存在を主張していたようです。ここには阿祗爾行者が全国の名山を修験道の山として開いたことが述べられています。全国「六十六山」を「一国一峰」として開いたともあります。修験道も、全国的にその勢力を伸ばす戦略として、大峰山への人山勧誘を行うと供に、教勢拡大のために地方にも霊山を開いて、手近に登って修業のできる「名山」を開拓していたようです。しかし、いつごろから高越山が修験道の拠点となったかについてはよく分かりません。史料的に追いかけることが出来るのは、もっと後になってからのようです。ここには、忌部氏は登場しないことを押さえておきます。
南北朝時代の高越山の修験者が熊野詣でを行っていたことが分かる史料を見ておきましょう。
高越山の麓に高越寺の下寺的存在として活躍した良蔵院と呼ぶ山伏寺がありました。この良蔵院の古文書が「川田良蔵院文書」として「阿波国徴古雑抄」の中に紹介されています。その中の最も古いものが、1364(貞治三年)の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」です。「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」とは、「檀那を譲り渡す(名簿)」ということです。檀那株の売買は修験道の世界で一般に行なわれていました。ここからは鎌倉時代から南北朝にかけて、高越山の麓には何人もの修験道がいて、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに「引率」していたことが分かります。高越山周辺は修験道の聖地となり、熊野行者などの修験者達がさまざまな宗教活動を行っていたとしておきます。ここにも忌部修験はでてきません。

高越山文書からは、高越山の修験道が空海・聖宝を崇める真言修験であったことが分かります。
そのため阿波の修験道は、ほとんどが当山派に属して一枚岩の団結があったと思われがちです。しかし、どうもそうではないようです。組張り(霞・檀家区域)の確保・争奪のために、各勢力に分かれて争っていた気配があるようです。

高越山と他の山・神社の争いについて、次のような話があります。

麻植郡川田町から名西郡神山町へ越える山道がある。この間の山の峰々に山の上では見られない吉野川流域の石が散在している。これは神山の上一宮大粟神社の祭神大宜都比売命が夫である伊予の三島神社の祭神大山祗に会うために神鹿に乗って行くのを、高越山の蔵王権現が嫉妬して吉野川の石を投げたからだという。今もその氏子たちは仲が悪く、神山と川田は通婚しないという。

 もう一つは、大滝山と高越山とが、吉野川を挟んで大争闘をした時に、お互に岩の投げ合いをし、両方の山の岩がまったく入れ換わるまで投げ尽してしまったという。

このふたつの説話は、高越山修験道の置かれた状況を物語っていると研究者は深読みします。 この説話からは、阿波一国が単純に当山派に統一されたとは思えません。

南北朝の頃の阿波は、中央の政争の影響をそのまま受けます。
吉野川流域の平野部は、北朝方の管領細川氏の勢力圏です。それに対して剣山を中央にして、東西にのびる山岳地帯には南朝方についた勢力がいました。
一宮城 ちえぞー!城行こまい
小笠原氏の一宮城(神山町・大日寺背後)

そのエリアを見ると東端は一宮城の小笠原氏で、南朝の勢力は鮎喰川をさか上り、川井峠を越えて木屋平に入ります。さらに保賀山峠から一宇に入り、小島峠を越えて祖谷の菅生に至り、祖谷の山岳地帯に広がっていました。
東祖谷山地図2

祖谷の小島峠
祖谷から、さらに中津山、国見山の山脈を越え銅山川沿いに伊予の南朝方へと連らなっていましす。この山岳地帯を往来しながら連絡を取ったのは修験者(山伏)たちだったとされます。彼らは秘密の文書を髪に結い込んで、伊予の西端の三崎半島まで平野に下りることなく、山中を進んでたどり着くことができたと云います。これが修験の修行の道だったのかもしれません。あるいは熊野行者が開いた参拝道だったのかもしれません。四国各地の霊山と行場を結ぶネットワークが、この時代にはあったことを押さえておきます。それをプロの修験者を辿ると「大辺路・中辺路・小辺路」と呼ばれ、近世には「四国辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
 どちらにしても、南北朝の政治勢力と阿波の修験道は結びつきます。
これは土佐の長宗我部元親が修験者勢力をブレーンとして身近に置くことにもつながります。そのブレーンの中にいた修験者が、金毘羅大権現の松尾寺を任されることになるのです。話が逸れてしまいました。元に戻ります。
高越山11
吉野川からの高越山

高越山は、山容が美しい山です。
里から見て「おむすび山」に見える山を見上げて、人々は生活し、次第にそれを霊山と崇めるようになるというのが柳田國男の説です。それが素直に、うなづけます。人々が信仰する霊山は、支配者の祈願所にもなります。支配者の信仰を受けるようになると、いろいろな保護と特権を与えらます。南北朝の頃には、中央政権の足利氏や管領細川氏の保護を受けて教勢を拡大させます。これに対して神山の焼山寺の修験道が反抗するようになります。また近世になると新しく開山された剣山修験道が高越山に対立して活動するようになります。この対立は宗派的な対立と云うよりも山岳部と平野部のちがいによる経済的状況の反映だと研究者は指摘します。
 その対立の図式は、高越山と吉野川をはさんで北側の讃岐との境にある大滝山修験道との関係で見ておきましょう。
大滝山は南朝勢力下にあったと云われますが、それを示す証拠はないようです。同じ阿讃山系の城王山には新田氏が拠城を置いて、伊笠山周辺を往来したといわれますが、その南朝勢力が西の大滝山まで及んだとかどうかは分からないと研究者は考えています。大滝山修験者と高越山は宗派的対立よりも、その間に拡がる吉野川流域の霞場(檀那区域)をめぐって対立していたとします。 ここでは、阿波の修験道の勢力構図は、高越山を中心に、それを取りまく諸山の山伏たちの対立として形成されていったことを押さえておきます。 

最初に見た高越寺の寺僧宥尊の「摩尼珠山高越私記」(1665年)には、次のように記されていました。

「役行者=大和国の吉野蔵王権現」一体分身で、
「千手千眼大悲観世菩薩」が本尊

これと忌部氏の祖先神を「本地垂述」させることに、この書のねらいはあったようです。しかし、これスムーズに進まなかったようです。「忌部遠祖天日鷲命鎮座之事」には、次のように記されています。(要約)

「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座していたが、世間では蔵王権現を主と思い、高越権現といっている。もともとこの神社は忌部の子孫早雲家が寺ともどもに奉仕していた。ところが常に争いが絶えないので、蔵王権現の顔を立てていたが、代々の住持の心得は、天日鷲を主とし、諸事には平等にしていた。このためか寺の縁起に役行者が登山した折に天日鷲命が蔵王権現と出迎えたなどとは本意に背くことはなはだしい」

ここからは次のようなことが分かります。
①主流派は「役行者=蔵王権現(高越権現)」説
②非主流派は、「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座」していたとして、忌部氏を祖神を地神
この時期になると「忌部氏の地神」と「伝来神の蔵王権現」の主導権争いがあったようです。しかし、こうした争いも蔵王権現優位のうちに定着します。これも山伏修験道の道場としての性格だと研究者は考えています。同時に、忌部伝説を信仰する勢力がこの時期の高野山にはいたこと、忌部伝説が、高越山に接ぎ木しようとする動きは、近世になってからのものであることを押さえておきます。

 粟国忌部大将早雲松太夫高房による「高越大権現鎮座次第」には、次のように記します。

吉野蔵王権現神、勅して白く一粟国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め、諸神達集る高山なり、我もかの衣笠山に移り、神達と供に西夷北秋(野蛮人)を鎮め、王城を守り、天下国家泰平守らん」、早雲松太夫高房に詰げて曰く「汝は天日鷲命の神孫にで、衣笠山の祭主たり、奉じて我を迎へ」神託に依り、宣化天皇午(五三八)年八月八日、蔵王権現御鎮座なり。供奉三十八神、 一番忌部孫早雲松太夫高房大将にて、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供す。この時、震動雷電、大風大雨、神変不審議の御鎮座なり。蔵王権現、高き山へ越ゆと云ふ言葉により、高越山と名附けたり、それ故、高越大権現と申し奉るなり。

意訳変換しておくと
吉野の蔵王権現神が勅して申されるには、阿波国麻植郡衣笠山(高越山)は、御祖神を始め、諸神達が集まる霊山であると聞く。そこで我も衣笠山(高越山)に移り、神達と供に西夷北秋(周辺の敵対する勢力)を鎮め、王城を守って、天下国家泰平を実現させたい」、
さらに早雲松太夫高房に次のように告げた。「汝は天日鷲命の神孫で、衣笠山(高越山)の祭主と聞く、奉って我を迎えにくるべし」 この神託によって、宣化天皇午(538)年八月八日、蔵王権現が高越山に鎮座することになった。三十八神に供奉(ぐぶ)するその一番は忌部孫早雲松太夫高房大将で、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供した。この時、震動雷電、大風大雨、神変不思議な鎮座であった。蔵王権現の高き霊山へ移りたいという言葉によって、高越山と名附けられた。それ故、高越大権現と申し奉る。

ここには吉野の蔵王権現が、阿波支配のために高越山にやってきたこと、その際の先導を務めたのが忌部氏の早雲松太夫高房だったとします。ここに忌部氏が「忌部氏褒賞物語」として登場します。
ここには忌部信仰をすすめる修験者たちの思惑があったことがうかがえます。
ちなみに、この時代になると阿波忌部氏は姿を消して、氏神の忌部神社がどこにあるかも分からなくなっていたことは以前にお話ししました。

 従来は忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達で、彼らを「忌部修験」と研究者は呼んでいました。そして、「忌部修験=高越山修験集団」とされ、語られてきました。私も「高越山は忌部修験道のメッカ」と書いたこともあります。しかし、これについては近年、疑問が投げかけられていることは以前にお話した通りです。
以上をまとめておきます。
①高越山は山容もよく、古代から甘南備山として信仰対象の霊山とされてきた。
②そこへ役行者が吉野の蔵王権現を勧進し、千手観音として高越山を開山した。
③鎌倉時代になると高越山の麓には、熊野詣での先達を行う熊野行者が集住するようになり、修験者の一大勢力が形成されるようになった。
④中世になると阿波忌部氏は衰退し、氏神の忌部神社の存在すら分からなくなる。
⑤このような状態の中で「忌部修験=高越山修験集団」と考えることには無理がある。
⑥高越山修験の拡大は、大瀧山の修験者勢力などとテリトリー(霞)をめぐる対立をもたらした。
⑦これらを宗派対立と捉えるよりも、信徒集団をめぐる対立と捉えた方がいいと研究者は考えている。
⑧南北朝時代の抗争もその範疇である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「阿波の修験道  徳島の研究6(1982年) 236P」
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 阿波の霊山と修験道史をまとめた田中善龍は、高越山と忌部十八坊の関係について、かつて次のように記しました。

  高越山周辺地域には、古代に中央から忌部氏の移住があった。さらに、中世にはその後裔と自称する家族による支配があり、彼らは忌部神社のある山崎の地(吉野川市山川町)などで寄り合いを開いた。これら忌部氏、ないしはその後裔と称する集団は、忌部神社を精神的連帯の核としたが、この神社の別当だったのが高越山頂にある高越寺だった。このような阿波忌部の聖地を前提とするのが、地方的な修験である忌部修験であり、大滝山系真言修験と対立関係にあった。

 そして「忌部修験」の内で現存するものは、吉野川市、美馬市、美馬郡、三好市にあり、室町時代に連帯組織を形成したこと、その中でもつるぎ町半田の神宮寺が中心であり、忌部神社を共通の聖地としていたとします。

私も田中氏の説にもとづいて、高越山=忌部修験の聖地と考えてきました。しかし、近年になっていろいろな批判が出ているようです。どこが問題なのか、何が批判されているのかを見ていくことにします。テキストは 長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店 です。
 長谷川賢二の批判点は、以下の四点です。
第1に、高越山が忌部氏の聖地であり、高越寺が忌部神社の別当であったということについて、
この根拠となる史料が示されていない。「あたりまえ」の前提とされている。「忌部十八坊」と高越山・忌部神社の関係、一八坊の相互関係(山伏結合としての実態)や個々の内部構造も、史料から明らかにされていない。
第2に、つるぎ町半田の神宮寺が「忌部十八坊」の中心だったという点について。
 田中説を進めると半田町の神宮寺は、山崎に鎮座する忌部神社の「神宮寺」ということになる。また、忌部神社と高越山とが一体であるなら、神宮寺は高越山が遥拝可能な場所か、高越山周辺にあるのが自然だろう。しかし、半田町にある神宮寺は、いずれの条件も満たさない。高越山をセンターとするはずの山伏集団が、そこから離れた場所に中核寺院をもつのも不自然で疑問に思わざるえない。
以上、忌部修験をめぐる田中の所説には、論拠の不明確さや論理の不整合があり、
忌部神社 ー 高越山 ー「忌部十八坊」

をつなぐ明確なつながりは見えてこないとします。議論の前提として忌部修験の存在が語られていて、それがいかなる存在だったのかが語られていないとします。そこで、長谷川賢二氏は史料をして語らしめるという実証史学の原点に戻ります。「忌部十八坊」について記された史料を見ていくことから再出発します
忌部修験に関する根本史料は①『願勝寺系譜』と②『麻殖系譜」とされます。
①『願勝寺系譜』には、九代神党の項に
「安和二年巳己九月十九日、忌部十八坊ヲ定メ」
②『麻殖系譜』には基光・徳光の項に、それぞれ次のようにあります。
「安和三年己巳九月卜九日、忌部神社ハ坊ヲ別」
「忌部授社本社ノ別当、皆福ノ一字無キ寺ハ、福ノ一字ヲ加エテ寺号ヲ改メシム」
と記され、 一八か寺の名が挙げられています。しかし、これだけなのです。実態は何もわかりません。

1『願勝寺系譜』とは、どんな史料なのでしょうか。
美馬町には、浄土真宗興正寺派の讃岐への布教センターとなった安楽寺や、その分院が大きな屋根を並べる寺町というエリアがあります。このその寺町の一角にあるのが真言宗の願勝寺です。この寺には『願勝寺系譜』という文書が残されています。歴代住持の事績集成という形をとった寺史で、文禄二年(1594)の奥書があるようです。従来は、これが全面的に信頼され同時代史料的な価値が認められてきたようです。
その中に天正三(1575)年に発生した「法華騒動」が記されています。その概略は、阿波国支配の実権を掌握していた三好長治が、国内に日蓮宗への改宗を強制したため、日蓮宗の教線が急速に拡大する。それに危機感を抱いて反発した真言宗など諸宗の僧侶が結集し、三好氏の拠点である勝瑞城下での宗論に至るというものです。史料を見てみましょう。

快弁ハ高野山ニテ法華退治ノ一策ヲ儲ケ、阿波へ帰リテ同意ノキ院ヲ訪ラヒ、阿波国ノ念行者多数ノ山伏ヲ催シ、持妙院へ訴訟シ、日蓮宗へ対シ、不当状ヲ三尺坊二持タセテ本行寺へ遣ス処、妙同寺普伝上人返答延引ヨツテ法華坊主ヲ打殺スベシト(中略)本行寺へ押入り騒動二及フ、共魁トナル人々ニハ大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻殖曽川山、牛ノ嶋ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大栗ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノー願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大店同寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮車寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ、忌部郷忌部十八坊ヲ始、其余ノ神宮寺別当附属ノ修験神坊ノ行者ハ此事二与セスト雖、国中ノ騒動大方ナラス
意訳変換しておくと
願勝寺の快弁は、まず高野山で法華退治の一策を講じて、阿波へ帰ってきて、これに賛同する寺院を訪ねた。阿波国の多くの「念行者」や多数の山伏の賛同を得て、持妙院へ訴訟した。日蓮宗に対して、不当申立状を三尺坊に持参させて本行寺へ遣ったところ、妙同寺の普伝上人は、法華坊主を打殺スベシトという返答であった(中略)
 そこで本行寺へ押入り騒動に及んだ、共に立ち上がったメンバーは次の通りである。
大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻殖曽川山、牛ノ嶋ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大栗ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノー願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大店同寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮車寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ、
しかし、忌部郷忌部十八坊ヲ始、その他の神宮寺別当附属の修験や神坊の行者は、この騒動に与しなかったが、国を揺るがす大騒動となった。
 ここには、願勝寺の快弁の活躍ぶりがまず描かれています。そして「法華退治ノ一策」への協力要請を受け人れた「念行者」を核とする山伏集団の蜂起と、それに対する「忌部十八坊」などの非協力があったとします。

長谷川賢二氏は『願勝寺系譜』のテキスト・クリニックを行います
①外見的には、書体が稚拙であり、16世紀末の古文書の書体ではないこと
②書き損じとそれに伴う訂正筒所がいくつかあること
③末尾には「法印権大僧都快盤」の署名と花押の位置関係が不自然なこと
以上から、現存本は16世紀末のものではないとの疑義を持ちます。もし、『願勝寺系譜』が文禄三年(1594)の作成としても、現在本は写本であると推察します。
次に、奥書の記載内容から、史料の性格を見ていきます
右、福聚寺殿ョリ御尋二付、当院古来旧記取調、早速其概略ヲ写収候テ奉備高覧、預御感難有仕合候間、為後来之亀鑑控置候者也、

奥書によると「願勝寺系譜』は「福衆寺殿(峰須賀家政の父である正勝)」の求めに応じて、作成したものの控えであると記されています。ここからは、『願勝寺系譜』の原形は、蜂須賀氏の入国後間もない時期に書かれたことになります。ところが、本文中の記事には後世のことが何カ所か含まれていて、奥書の日付をそのまま信じるわけにはいかないようです。
 「奥書にある「文禄三年」は、現実的な年記ではなく、「古さ」を強調するための虚構である可能性が高い」

と長谷川賢二氏は指摘します。なお、前年の文禄二年は、願勝寺が脇城主稲田氏から美馬郡中諸寺の監督を命じられたとされる年です。美馬地域における願勝寺の卓越性の主張を込めた年紀の設定と研究者は考えているようです。

次に『願勝寺系譜』の歴代住職について見てみましょう。ここにも疑義があるといいます。
初代 福明 「阿波忌部ノ正統忌部玉垣ノ宿面ノ庶弟」
二代 福淵 「麻殖忌部布刀淵ノ三男」
三代 人福 「忌部大祭卜玉淵宿爾第ニノ庶子」
四代 実厳 「忌部麻殖正信ノニ男」
六代 智由 「母ハ阿波忌部石勝ノ女」
八代 智光 「忌部高光ノ庶弟」
九代 智党 「忌部氏人麻殖正種二寺」
10代 徳光 「忌部大祭主信光ノ一弟」
11代 随伝 「共姓モ忌部氏」
12代 了海 一麻殖I遠ノ一男」(随伝の項にあり)
14代 行智 「麻殖正径ノ次男」
16代 行真 「忌部大祭寺麻殖親光内室ノ弟」
21代 月心 「忌部大祭主麻殖利光ノ庶弟」
32代 鏡智 父は「忌部ノ祭主麻殖利光ノ家二客タリ」
33代 観月 「阿波忌部大輔成良ノ子田内ノ‐‥工門成直ノ後胤也」
34代 快念 「忌部人祭主麻殖因幡守ヲ頼」
35代 快弁 「麻殖因幡守猶子トログシ」

「忌部」姓、「麻殖」姓、「麻殖忌部」姓、「忌部麻殖」姓が同系とみられます。歴代住職18人のうち17人までが忌部氏との関係が記されています。当時は僧侶は妻帯できませんから世襲ではありません。この姓から住職は選ばれたとします。
『願勝寺系譜』に見られる忌部伝承は、多くの点で「麻殖系譜』と一致するようです。
『麻殖系譜』とは、忌部神社の祭祀に携わり「忌部大祭主」や「麻殖人宮司」などを務めた者が多数いたという麻殖氏なる一族(当然のように忌部氏を称した)の系図です。成立時期は分かりません。『願勝寺系譜』と「麻殖系譜』は、次の項目は一致します
①住職名
②「忌部十八坊」についての記事内容
③願勝寺の名の由来伝承
このように、両系譜の相関性は高いようです。

これは何を意味するのでしょうか・
その手がかりは『麻殖系譜』が式内忌部神社の所在地論争の際に資料として提出されたことにあるようです。この論争は、明治四年(1871)に政府が忌部神社の国幣中社へのランクアップを行おうとしたときに、次の2つの神社間でどちらが式内社の系譜を引く正統な忌部神社であるかめぐって、起こったものです
①麻植郡山崎村(吉野川市山川町)の天日鷲神社
②美馬郡西端山村(つるぎ町貞光)の五所(御所)神社
最終的には、明治18年(1885) に、妥協案として新たに徳島市に社地が選定され、決着がつけられます。
 しかし、古代の阿波忌部の本拠は麻殖部でしたし『延喜式』巻10(神祗10 神名)には、「麻殖郡八座」の一つに「忌部神社」と明記されています。したがって、美馬郡から式内忌部神社の名乗りがあるのは奇妙なことです。
 ところが、これについては、貞観二年に美馬郡が分割され、三好部が置かれたという独特の解釈を加えた説が主張され、美馬郡鎮座説の根拠とされます。つまり美馬部を三好部とし、麻殖郡を分割して美馬・麻殖の2郡としたというのです。この考え方に従えば、式内忌部神社が美馬那であっても、もと麻殖郡であるから、問題ないということになります。その証拠として出されたのが『阿陽記」などの史書です。
これについて、山崎村鎮座説に立つ小杉檻椰(阿波出身の神学者)は、次のように述べて「阿陽記」は証拠としては無意味であると断じています。
「明文トスル所ノ阿陽記・国鏡ノ類ハ(中略)寛政(1789~1801)ノ比二雑録セシ俗書

 これに対して、美馬郡鎮座説を唱え、小杉と対決した細矢席雄(讃岐の田村神社権宮司)は、『阿陽記」等を「文禄(1592~96年―引用註)或ハ大和(1681~84年)ノ旧記」と主張したようです。
 結局は、麻殖郡分割による郡境変更説が古代史料によるものではなく、成立期も不明確な史料を盾にとったものであることを美馬郡鎮座説派も認めていたわけです。今日では『阿陽記』については、明和年間(1764~72年)の成立とされているようです。やはり、江戸時代中期の論争後に「創作」されたものだったのです。
 このような論争のなかで、「麻殖系譜』は西端山村側の証拠資料として提出されたものです。    
これには、次のような郡境変更説が記されています。まず、玉淵の項に
麻殖上郡・阿波寺郡ヲ合シテ美馬郡トス、麻内山ハ神領ナル故、麻殖中郡トシテ之ヲ別」

たとあります。「麻内山」は、別の項目では、「麻殖内山」と記されています。麻殖郡分割説を唱え、神領である地域(忌部神社を含む)のみが一部とされたという説明です。ここからは『麻殖系譜」は「式内忌部神社美馬郡鎮座説」の擁護のために書かれたことがうかがえます。
郡境変更説は「願勝寺系譜」にも受容されます。
『麻殖系譜』のような細かい記述はありませんが、願勝寺10代徳光の項に「麻殖下郡」という地名が記されます。これは麻殖郡の分割があったということをフォローする内容になります。
 また、先ほど見たように『願勝寺系譜』の忌部伝承が『麻殖系譜』と一致することあわせて考えると、その記述は式内忌部神社美馬郡鎮座説を前提としたものであることが見えてきます。しかも、全編にわたって忌部氏との関係などが記されています。初代福明の項には、玉垣宿爾について「阿波忌部ノ正統」とあり、麻殖氏系譜の正統性が強調されています。以上から長谷川賢二氏は次のように指摘します。
  「こうしたことから考えれば、美馬郡鎮座説の影響は、転写過程での部分的な潤色によるものではなく、『願勝寺系譜』全体の成立にかかわって意識的に取り込まれたものとすべきであろう。

式内忌部神社美馬郡鎮座説の正当化するために『願勝寺系譜』や『麻殖系譜』が書かれたものであるとすれば、それが唱えられ始めた時期に着目すれば、両系譜の成立期も自ずと分かってくるはずです。そこで、忌部神社論争の起点を確認します。
  この明瞭な時期は、文化11年(1815)完成の藩供地誌『阿波志』に次のように記されています。
元文中、山崎・貞光両村祀官、相争忌部祠

ここからは元文年間(1736~41年)、麻殖郡山崎村と美馬郡貞光村の神職の間で、忌部神社の所在をめぐり争われていたことが分かります。つまり、近代以前にも忌部神社の所在をめぐる争論があったのです。
 このときの争論では、麻殖郡の種穂神社が忌部神社とされ、寛保三年(1743)完成の『阿波国神社御改帳』には「種穂忌部神社」と記載されています。しかし、種穂神社の神職だった中川氏に伝わつた史料によれば、その後も問題は続いていたことがうかがえます。
 貞光村と西端山村は、近接しています。明治の忌部神社論争においては、貞光村の忌部旧跡も取り上げられ、西端山村と一体となって美馬郡鎮座説の焦点となった地域のようです。
 どうやら18世紀前半の忌部神社=貞光村説は、近代における西端山村説とほぼ同じエリアの中での式内忌部神社の所在地を廻る争論であったようです
 以上から美馬郡鎮座説を正当化する伝承が必要となったのは、18世紀前半のことのようです。都境変更説が記された『阿陽記』の成立は18世紀後半とみられています。忌部神社をめぐる争論との関係からしても、納得がいく時期です。
 このようにみてくると、「願勝寺系譜』『麻殖系譜』の式内忌部神社美馬郡鎮座説を意識した記述は、争論との関係から定形化されるようになってきたと研究者は指摘します。ここからも『願勝寺系譜』を奥書の文禄三年(1594)に成立していたとは、見なせないというのが研究者の結論になるようです。
  『麻殖系譜』についても、近代の忌部神社論争時までには成立していて、論争に利用されました。そのため、江戸時代の論争がはじまった18世紀前半には出来上がっていたようです。しかし、『願勝寺系譜』と比較して、その先後関係は分かりません。
 どちらにしても両系譜は、式内忌部神社をめぐる論争という、きわめて政治的な動きの中で書かれたものであるようです。そのため「創作された伝承」が含まれていることを、想定する必要があります。す。このことについて、長谷川賢二氏は次のように記します

  こうした史料に関する問題を考慮するなら、先に虚構と断定できないとした忌部修験についても、中世史の問題として議論するには慎重を要する。美馬郡鎮座説が本格的に展開する18世紀以後に、当該神社の社会基盤の広がりや権威を誇張するために名目的に創り出された可能性も含んでおく必要があるように思うのである。

以上をまとめておくと
①「忌部修験」は、イメージが先行して、それを証拠立てる史料がないこと
②「忌部修験」の根本史料である『願勝寺系譜』『麻殖系譜』は、式内忌部神社美馬郡鎮座説をフォローするために後世に書かれたもので、18世紀以前に遡るとは考え難いこと
③史料にもとづかないイメージを無理に組み立てても、研究の深化にはつながらないこと
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店


高越寺絵図1
高越寺絵図
高越(こうつ)寺については、阿波忌部の開拓神話の上に、弘法大師信仰や修験道などが「接ぎ木」されてきたことを以前にお話ししました。高越山は「忌部修験」と呼ばれる山伏集団の拠点とされてきました。しかし、この説については、次のような批判も出ています。
「超歴史的であり、史料的な裏づけからも疑問視される」

 さらに加えて近年、九山幸彦は阿波忌部に関する伝承は近世の創作であることを明らかにしています。高越山について、新たな視角が求めれているようです。そのような中で、四国辺路研究とのにもつながりから高越山の歴史を見直そうとする動きがあるようです。今回は「長谷川賢二 山岳霊場阿波国高越寺の展開 修験道組織の形成と地域社会所収」をテキストに、高越山の歴史を見ていくことにします。
高越山 弘法大師
高越山山頂に建つ弘法大師像
 
高越山には、12世紀初頭の早い時期から弘法大師伝承が伝わっています。

古い弘法大師伝説があるのに、四国88か所の霊場(札所)にはならなかった寺です。どうしてなのでしょうか。大師信仰とは別の条件で「霊場の取捨選択」があったと研究者は考えているようです。その条件とは何なのでしょうか?
高越寺が霊場として最初に文献史料に登場するのは、弘法大師信仰とのかかわりについてのようです。
真言密教小野流の一派・金剛王院流の祖・聖賢の『高野大師御広伝』(元永元年〔1118)に次のよう登場します。
〔史料1〕
阿波国高越山寺、又大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々。澄崇暁望四遠、伊讃土三州、如在足下。奉造卒塔婆、十今相全、不朽壊。経行之跡、沙草無生。又有御千逃之額、千今相存。
意訳変換しておきます
阿波国の高越寺は、弘法大師が建立した寺である。ここで大師は法華経を書写し、この峯に埋納した。この地は空気は澄み渡り伊予・土佐・讃岐の三州も足下に望むことができる。大師が造った卒塔婆は、今も朽ちることなくそのままの姿で建っている。経典を埋めた跡は、草が生えない。「御千逃」の額は、いまも懸かっている

ここには大師がこの地にやって来て「高越山寺」を建立し、さらに法幸経を書写し、埋納したことが記されます。
  弘法大師が亡くなって200年ほど経った11紀になると、「弘法大師伝説」が地方にも拡がり、四国と東国は修行地として強調されるようになります。こうした中で高越山でも弘法大師との関わりが語られるようになったようです。数多くの大師伝が残されていますが、高越寺が登場するのはこれだけのようです。
高越寺の霊場化がうかがえる次のような史料があります。
一つは、大般若経一保安三年〔1122)~大治2年〔1127)です。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名が見られます。天台系の教線が高越山におよんでいたようです。
二つ目は、経塚が発見されており、12世紀のものとされる常滑焼の龜、鋼板製経筒(蓋裏に「秦氏女」との線刻銘がある)、白紙経巻八巻などの埋納遺物が出てきています。
 これは先ほど見た大師信仰の浸透と並行関係で進んでいたようです。以上から13世紀に高越寺は顕密仏教の山岳霊場となっていたと研究者は考えているようです。
 近世の縁起『摩尼珠山高越寺私記』(以下私記』)にも弘法大師の高越山来訪が記されます。
『私記』は寛文五年(1665)、当時の住職宥尊が記したもので、高越寺の縁起としては最古のものになるようです。『私記」の内容は、大まかに分けると次の4つになるようです。
  ①役行者(役小角)に関する伝承
「天智人皇御字、役行者開基、山能住霊神、大和国与吉野蔵王権現一体分身、本地別体千手千眼大悲観世音苦薩」
「役行者(中略)感権現奇瑞、攀上此峯」
などと、役行者による開基や蔵王権現の感得が記されています。そして蔵王権現(本地仏 千手観音)の山であり、役行者が六十六か所定めた「一国一峯」の1つに配されたなどとされています。
  ②弘法大師に関する伝承
弘仁天皇御宇、密祖弘法大師、有秘法修行願望、参請此山
権現有感応、紡弗而現」
などと記され、大師が権現の示現を得て、虚空蔵求聞持法等の行や木造一体の彫刻をしたとされます。
  ③聖宝に関する伝承
「醍醐天皇御宇、聖宝僧正有意願登此山」

などと記され、聖宝が登山し、一字一石経塚の造営、不動窟の整備などを行ったとされます。
  ④山内の宗教施設
山上の宗教施設が記されます。「山上伽藍」については、
「権現宮一宇、並拝殿是本社也」
「本堂一宇、本尊千手観音」
「弘法大師御影堂」
などがあったほか、若一王子宮、伊勢太神宮、愛宕権現宮などとの本社があったようです。さらに
山上から7町下には不動明王を本尊とする石堂
山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)があり、地蔵権現宮があったことが分かります。また「殺生禁断並下馬所」と記されるので、ここが聖俗の結界となっていたようです。
山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現宮があります。その他には、鳥居があったことが記されます。
以上の記述からは、大師が高越山に現れたとこと、実際に大師堂があったようで、17世紀になっても高越寺は、引き続いて大師信仰の霊場であったことが分かります。

高越山 役行者
高越寺の役行者

しかし、研究者は次のように指摘します。
最重視されていたのは、大師ではないことに注意が必要である。役行者(役小角)の開基とされ、蔵王権現が「本社」に祀られ、その本地仏である千手観音が本尊として本堂にあるというように、役行者にこそウェイトがあることは明らかであろう。したがって、 17世紀の高越寺は、存立の基礎という意味では大師信仰が後退し、修験道色の濃い霊場となっていたといえる。


高越山 奥の院蔵王権現
高越山奥の院の蔵王権現

高越山の修験道の霊場としての起点は、いつから始まるのか

ここで研究者が取り上げるのが役行者と蔵王権現です。
役行者は修験道の開祖と信じられており、修験道とは切っても切れない関係というイメージがあります。しかし、歴史的に見ると、これは古代にまで遡るものではないようです。『私衆百因縁集」(正嘉九年〔1257)に
「山臥行道尋源、皆役行者始振舞シヨリ起レリ」

という記載が現れるのは13世紀以後のことのようです。
 また、役行者と蔵王権現のコンビ成立も12世紀頃で、このコンビのデビューは『今昔物語集』が最初になるようです。
一方、13~14世紀は、「修験」は山伏の行と認識されるようになる時代でもあります
「顕・密・修験三道」(近江国国城寺)や部 「顕・密・修験之三事」(若狭円明通寺)などというような表現が各地の寺院関係史料にみられるようになります。四国でも、土佐国足摺岬の金剛福寺の史料に「顕・蜜兼両宗、長修験之道」とあります。こうした状況から「修験道」が顕教・密教と並ぶ仏教の一部門として、認知されるようになってきたことが分かります。
 こうしたことを背景にして役行者は、山伏に崇拝されるようになります。こんな動きが高越寺に及んできたのでしょう。
高越山 権現
奥の院背後の蔵王権現鳥居
奥の院は、中央が「高越大権現」、向かって右が「空海」、向かって左)が「役小角」を祀っている

高越寺には南北朝~室町時代のものとされる立派な聖宝像があります。
これは、中世後期にこの山で聖宝信仰があったことを物語ります。聖宝には、以前にもお話ししましたのでここでは省略しますが、醍醐寺の開祖で、真言密教小野流の祖です。聖宝は若い時代には山林修行を行った修験者でもあったようで、蔵王権現とも関係が深く、『醍醐根本僧正略伝』(承平七年〔937)には、吉野・金峯山に堂を建立したとされます。そのため12世紀後半以降には、「本願聖宝僧正専十数之根本也」と醍醐寺における山伏の祖とされるようになります。
「聖宝像」の画像検索結果
左から観賢僧正、聖宝(理源大師) 神変大菩薩像(役行者) 
上醍醐

 さらには天台寺門系の史料『山伏帳』にも「聖宝醍醐仲正」と記されているので、天台宗からも崇拝されるようになっていたことがうかがえます。弘法大師伝説に続いて、聖宝が信仰対象となるのは13~14世紀のことです。これも、先ほど見たように「修験道の地位向上」と同時進行ですすんでいました。この二つの流れの上に、高越山の聖宝像があるのでしょう。それは高越寺が修験道霊場化していく過程をあらわしたものだと研究者は考えているようです。
醍醐寺の寺宝、選りすぐりの100件【京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
聖宝

 聖宝像=醍醐寺=当山派というつながりから、高越寺と当山派を結びつけて考えたくなります。これに対して研究者は次のように、ブレーキをかけます。
①三宝院が修験道組織を管掌するのは江戸時代になってからのこと
②中世に醍醐寺三宝院が山伏と結びついていたと、当山派に直結させることはできないこと
③中世の聖宝信仰は真言宗だけではなく天台寺門派に連なった山伏がいたこと
したがつて、聖宝信仰と修験道の関連は深いとしても、修験道=当山派というとらえ方は取りません。
中世に霊場化していた可能性のある「中江」(中の郷)を見てみましょう。
「中江」(中の郷)は、高越寺表参道の登山口と山上のほぼ中間地点にあたります。近世以降には、中善寺があったようです。ここには、貞治二年(1364)、応永六年(1399)、永享3年(1431)の板碑が残るので、中世にはすでに聖域化していたと研究者は考えているようです。
 また、ここは「聖俗の結界」であったようです。中世の山岳霊場では「中宮」といわれる場にあたります。そうだとすれば、中の郷の結界性も高越山が霊場化していたことを示すものかもしれません。14~15世紀には、山麓と山が結ばれ、高越山内は霊場としての体裁が整いつつあったとしておきましょう。

時代をさらに下って15~16世紀の高越山の様子を史料から見てみましょう
中世後期になると、和泉国上守護細川氏との関係から高越寺のことが分かるようになるようです。

高越山

⑤の細川常有が菩提寺として応仁二年(1468)に建立した瑞高寺に
高越寺井上社之事一円」(文明九年〔1477〕)、

上守護家菩提寺の永源庵に
高越別当職井参銭等」が(明応四年〔1495〕

と、上守護家からそれぞれの寄進が記されています。高越寺が上守護家の所領支配に組み込まれていたことが分かります。

高越山1

上守護家の細川元常が大檀那となり高越寺の造営にかかわった棟札があるようです。
永正11年(1514)の「蔵王権現再興棟札」上守護家の細川元常が大檀那となり、
「御庄代官常直」
「当住持人法師清誉」
「大願主勧進沙問慶善」
らが名を連なります。
「上棟本再興蔵王権現御社一字」
「右意趣者奉為 金輪型阜、天長地久、御願円満、国家安穏 庄園泰平、殊者御檀越等一家繁、子孫連続故造立之趣、如件」
裏面には次のような銘があります
「刑部太輔源朝臣元常」と「丹治朝臣常直」の著判、
「檜皮大工久千田宥円」の名
「御社造立悉皆五百六十二人供也」
この棟札には「蔵王権現御社」としるされます。これが高越山の霊場化が確実視できる初めての史料のようです。「再興」とあるので、これ以前から蔵王権現が高越山に祀られていたようです。銘には「荘園泰平」とあります。ここからは、再興には高越山麓の上守護家領である河輪田庄・高越寺庄の安穏を祈願する願いがあったようです。つまり、蔵王権現社が高越寺の中核的な施設として機能していたことがうかがえます。
高越山 奥の院扁額
高越山奥の院の蔵王権現の扁額

また、「勧進沙門慶善」の名からは、この再興事業には勧進僧が参加し、勧進活動も行われていたことが分かります。棟札の裏面に「御社造立悉皆五百六十二人供也」とあるのが勧進に応じた人数ではないのでしょうか。
 これら事業関係者は「庄園泰平」の祈りに束ねられ、組織統合のシンボルにもなっていきます。こうして高越山は、河輪田庄・高越山庄の鎮守としての性質を帯びて、地域の霊場としての機能していた可能性があります。ただし、これらは高越山の社領ではありません。上守護家の所領支配に組み込まれている荘園なのです。それは上守護家という支えがあって成り立つもので、「御檀越等一家繁昌、子孫連続」とされるべきものなのでしょう。
 裏面には「檎皮大工久千田宥門」という大工の名があります。「久千田」が地名に由来するとすれば、吉野川北岸にあった朽田庄(久千田庄とも。阿波市阿波町久千田)に居住する職人かもしれません。高越寺は山麓一帯だけでなく、古野川の南北にまたがる地域との関係を持っていた気配もします。
高越山 権現2
高越山の蔵王権現
細川常有の「若王子再興棟札」(寛正三年〔1462〕の写し(寛政二年(一七九〇〕)もあるようです。
ここからは熊野十一所権現の一つである若王子が祀られていたことが分かります。つまり、熊野行者などによる熊野信仰も同時に信仰されていたことになります。先ほど見た『私記』には、高越寺には「蔵王権現を中核として、若一王子(若王子)、伊勢、熊野」が境内末社として勧請・配置されていたと記されていました。この棟札からは、15~16世紀には、すでにそのような宗教施設が姿を見せていたようです。
16世紀の「下の房」の空間構成は、どうなっていたのでしょうか。
下之坊のある「河田」は、高越山麓の河輪田庄(河田庄)域と研究者は考えているようです。天明八年(1788)の地誌『川田邑名跡志』(以下「名跡志』)には次のように記されています。
「下之坊、地名也、嘉暦・永和ノ頃、大和国大峯中絶シ 近国ノ修験者当嶺(高越山)二登り修行ス。此時下ノ坊ヲ以テ先達トス。修験者ノ住所也 天文年中ノ書ニモ修験下ノ坊卜記ス書アリ」
意訳変換しておくと
「下之坊の地名である。嘉暦・永和ノ頃に大和(奈良)大峯への峰入りができなくなったために、、近国修験者が当嶺(高越山)に、やってきて修行するようになった。この時に下ノ坊が先達となった。つまり下の房とは修験者の住所である。天文年中の記録にも「修験下ノ坊」と記す記録がある」

ここからは次のようなことが分かります。
①大峰への登拝ができなくなった修験者たちが高越山で修行をおこなうようになったこと
②その際に、下之坊が高越山で先達を務めたこと
また同書の「良蔵院」の項には、下之坊は天正年間、土佐の長宗我部氏の侵攻の前に退去した後、近世に良蔵院として再興された記されます。さらに『名跡志』には、良蔵院以外にも「往古ヨリ当村居住」の「上之坊ノ子係ナルヘシ」という山伏寺の勝明院など、山麓の山伏寺が七か寺あったと伝えます。「下之坊」の名称からすれば、セットとして「上之坊」も中世からあり、また高越山を修行場としたと推測できますが、史料はありません。
 和泉国に残された和泉国上守護細川氏の一次史料からは、高越山の麓は以上のようなことが分かります。これは、従来言われていた「阿波忌部氏の拠点」で「忌部修験の拠点」という説を大きく揺り動かせるものです。「高越山=阿波忌部修験の拠点」説は、阿波側の後世の近世史料によって主張されてきたものなのです。

 高越寺は、山伏をどのように組織していたのでしょうか
高越山に残された大般若経巻の修理銘明徳三年〔1292)には、「高越之別当坊」「高越寺別当坊」という別当が見えます。また上守護家による永源庵への明応四年〔1495)の寄進にも「高越別当職並参銭等」とあり、別当が置かれていたことが分かりますが、詳しいことは分かりません。
 時代を下った『西川田村棟付帳』寛文13年(1671)には、弟子、山伏、下人などが登場します。ここからは次のような高越山の身分階層がうかがえます。
①住学を修める正規の僧職と弟子=寺僧
②山伏=行を専らにする者
③寺に奉仕する下人(俗人)
基本的には寺僧と山伏だったようで、中世寺院の「学と行」の編成だったことが推察できます。しかし、15世紀末には別当職は、山内の実務的統括から切り離されていたようです。大まかには寺僧が寺務や法会を管掌し、そのもとで山伏が大峰修行や山内の行場の維持管理などを行ったとしておきましょう。しかし、地方の山岳寺院でなので、寺僧と山伏に大きな違いはなかったかもしれません。
 確認しておきたいのは『名跡志』では、山麓の山伏は高越寺には属していません。下之坊の伝承にあるように、高越山を修行の場としていたとみられ、山内と山麓をつなぐ役割をもっていたと研究者は考えているようです。


以上をまとめてると次のようになります。
①高越寺が史料に登場するのは13世紀で、弘法大師大師にかかわるものである
②15世紀には、役行者や蔵王権現信仰を中心に修験道の霊場となっていく。
③山内や下の房には、修験者(山伏)の拠点でもあった。
④この時期の高越寺は和泉国上守護細川氏の所領支配に組み込まれた
⑤高越寺は、近世初頭には阿波の有力霊山として広く知られていた

「高越山=忌部修験の拠点」説を、以前に次のように紹介しました
⑥高越山周辺地域を、中世に支配したのは、忌部氏を名乗る豪族達
⑦忌部一族を名乗る20程の小集団は、忌部神社を中心に同族的結合をつよめた
⑧中世の忌部氏は、忌部神社で定期会合を開いて、「忌部の契約」を結んでいた。
⑨忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。
⑩忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達だった。

しかし、今見てきた高越寺の歴史からは⑥⑦は見えてきません。中世の高越山周辺は④で、高越寺は細川氏の庇護下にあったのです。忌部氏の気配はありません。⑧⑨についても、同時代史料からはこのような事実は見られないようです。⑩に関しては、これでいいでしょうが「忌部修験」とすることはできないことは、史料が示すとおりです。
以上から、「高越山=忌部修験の拠点」説には、冒頭で述べたような次のような批判が出されているようです。
①「超歴史的であり、史料的な裏づけからも疑問視」される
②九山幸彦氏は阿波忌部に関する伝承は、近世の創作であることを明らかにした。

最後に、研究者は高越寺が四国辺路の札所に選ばれなかった背景を次のように推測しています
近世初頭に阿波の霊山として認知されていた寺院として、高越寺以外に大龍寺・雲辺寺・焼山寺・鶴林寺を上げます。これらは高越寺以外は、全て四国遍路の札所になっています。しかし、古くからの弘法大師信仰霊場でもあった高越寺が札所に選ばれませんでした。その背景は、高越山が大師信仰の霊場というよりも修験道霊場としての側面が強かったことにあるとします。そして、「開かれた霊場・巡礼地」としての基準に合わなかったというのです。
 別の研究者は、もとは高越寺も四国辺路の「大辺路」の札所であったものが、巡礼経路の変更で外れてしまったという説もあるようです。今は四国遍路道は10番切幡寺で吉野川を遡るのをやめますが、かつては高越寺へも四国辺路の行者達は巡礼していたのかも知れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 山岳霊場阿波国高越寺の展開 修験道組織の形成と地域社会所収」
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高越山11
                                      
 阿波にはいくつかの霊山と呼ばれる山があります。
たとえば、古来祖霊があつまる所とされている神山町の焼山、阿南市の太竜寺山、阿波郡市場町の切幡山、板野郡上板町の大山などが挙げられますし、漁民の信仰をあつめた阿南市津の峯町の津の峰なども霊地です。やがてこれらの霊山の中には、海を越えてやって来た熊野派修験者が、吉野川に沿って活動を展開して、修験の霊山となったところもあります。修験の霊山に「弘法大師伝説」が、付け加えられ四国霊場に「成長」していったお寺もあります。前回は、讃岐山脈の大滝山を取り上げました。そして、大滝山は、高越山と仲が悪かったという話を紹介しました。
高越寺絵図1
 今回は、大滝山のライバルだった高越山を見ていきます。
 高越山は忌部氏とむすびついて「忌部修験」ともいえる独自の修験を生み出した山です。この山の修験道との結びつきは古く、剣山以前から盛えた修験の霊場です。これに対して大滝山は、前回紹介したように空海や聖宝の活躍をとく真言修験の山です。そして、どうやらこの両山は中世から近世にかけて、阿波の修験道を二分する勢力を持っていたようです。
 
高越山1

高越山は吉野川の流れる山川町にそびえ立つ1123メートルの高峰で、古くから「阿波富士」と呼ばれる眺めのいい山です。里の人たちが仰ぎ見る甘南備山として、古くから信仰を集めた霊山であることが一目見ると分かります。今は林道をたどれば里から1時間足らずで山の南側の駐車場にたどり着くことができます。境内から見える景色は絶景で、眼下を「四国三郎」吉野川が西から東へ悠々と流れていきます。遠く鳴門の潮路をへだてて、淡路島の山波や、その向こうの紀伊半島まで望むことができます。
 しかし、昔は下から歩いて登って来ました。

高越山4

途中の「万代池」の周辺には行場が見られます。この池から東に200メートルほど小路を行くと、「覗き岩」の行場があります。これは山腹に数百メートルの岩波があって、岩上に腹這って覗くのでこの名があるそうです。この岩場には鉄梯子が架けられていて、行者や元気な若者はこの梯子で上り下りしていたようです。

高越山3

 本道に戻ってさらに登ると、「黒門」があます。この辺りから左へ小路を入れば、「せり割り」の行場です。十余メートルの二つの大岩がせり割りを造って切立っています。参拝者達は、この割れ目を登り、二つの岩石にかけた丸木橋をわったといいます。これも行の一つだったのでしょう。 ここからは、寺に近く鐘の音が頭上に響いてきます。
高越山5

 山門の下は御影の石段、数十段、仁王の門をくぐると敷石が正面の本堂に通じています。昭和十四年一月二十八日に大火があり、立ち並んでいた本堂・拝殿・回廊・通夜堂・庫裏・大師堂が焼失。わずかに仁王門・鐘楼が災難から免れました。仁王門の階上におかれていた重要文化財「涅槃図」や、その他の寺宝は助かったそうです。

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  この本堂は昭和24(1949)年に戦後の物資の乏しい中、地元の人々の強い願で再建されました。先ず第1に感じるのは、本堂が見慣れないスタイルだということです。よく見ると、本殿に前殿を接合し,前殿に向拝を付けて建立されています。
高越寺2

じっくりと見ていると大きな唐破風は、堂々と力強く感じます。きらびやかな装飾が目をひく本堂には,金剛蔵王尊脇仏として千手観音と修験者のヒーローである役行者が祀られています。本殿入り口の扁額は木彫で,15代藩主蜂須賀茂昭の直筆といわれています。国内安定化の一貫でしょうが、江戸時代には阿波藩からの保護もありました。
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 本堂の彫刻群は美馬郡(現美馬市)脇町拝原,十世彫師三宅石舟斎の大作です。これは石舟斎最後の作品となったようです。山門は,第28世良俊上人の起請によるもので,県下五大重層門の一つとされています。この寺院への人々の信仰の強さが伝わって来ます。

高越寺1

このお寺の「修験道の伝統」は、いつ頃から始まるのでしょうか?
 寛文五年(1665)、高越寺の住僧宥尊によって書かれた「摩尼珠山高越寺私記」には、次のように記されています。

「天智天皇の御宇、役行者基を開き、山能く霊神住む。大和国吉野蔵王権現の一体、本地に分身し、体を別って千手千眼大悲観世音菩薩となる」

 ここからは、江戸初頭ころの、この寺の姿がうかがえます。役行者ー吉野蔵王権現という修験道の流れが見られます。      
 
IMG_2665

さて、この寺のことをしるした最初の記録は、密教小野流のうちの金剛王院流の祖として知られる聖賢の『高野大師御広伝」(元永元年[1118])のようです。ここには阿波国高越山寺(現在の高越寺)について、次のように記します。
大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々」

 ここからは高越寺は四国霊場ではありませんが、12世紀初頭に大師信仰の霊場として存在していたことが分かります。大師信仰のあるこの寺が、どうして四国八十八霊場にならなかったのかは、私にとっては大きな謎のひとつです。
高越寺4

次に古い史料は南北朝の14世紀後半のものです。
鎌倉時代から江戸時代にかけて、高越山の麓で高越寺の下寺的存在として活躍した良蔵院と呼ぶ山伏寺がありました。この良蔵院の所蔵した古文書が「川田良蔵院文書」として「阿波国徴古雑抄」の中に紹介されています。この文書の最も古いものが、貞治三年(1364)の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」です。「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」とは、「檀那を譲り渡す」ということで、檀那株の売買は修験道の世界で一般に行なわれていました。ここからは鎌倉時代には、高越山の麓には何人もの修験道がいて、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに連れて行っていく「熊野行者」たちがいたことが分かります。同時に、高越山周辺は修験道の聖地となり修験者達のさまざまな宗教活動が展開されていた事がうかがえます。

IMG_2657

 次に、高越寺の名前が見えるのは、戦国時代の天文二十一年(1551)の「天文約書」のようです。その全文を紹介します。
   定条々
  阿波国 念行者修験道法度之事
一、喧嘩口論可為停止之事  
一 庸賊道衆なふるへがらす之瀋
一、淵国一居住之 山伏駈出之励、於国中二特料仕義可為停止、但遠国之衆各別也
一、其音行者之内、大峰之願参御座侯所、為余人不可到之事                 
一、於念行者之内、何之衆成共、立願被服侯共、其念行者二可被上之事
一 御代参之事、大峰・伊勢・熊野・愛宕・高越何之御代参成共、念行者指置不可参之事
一、御沙汰事、依方聶買不申、御中評儀次第二可仕侯、此人数何様之儀出来候共、注進次第二飯米持二而可打寄事
右条々、従先年有来候雖為御法度、近年狼二罷成候条、得国司御意相改侯間、此度能々相守候事尤二侯。若、於相背者、御衆中罷出可為停止者也。依而如件。
    天文弐拾壱壬子年十一月七日
 会定柿原別当坊 岩倉白水寺 大西畑栗寺 河田下之坊 麻植曾川山 牛嶋願成寺 浦妙楽寺 大粟阿弥陀寺 田宮秒福寺 別宮長床 大代至願寺 大谷下之坊 河端大唐国寺 高磯地福寺 板西南勝房 板西蓮花寺矢野 千秋房 蔵本川谷寺 一之宮岡之房 合拾九人
  ここでは、阿波の念仏修験道者の法度(禁止)項目が、一堂に会した修験者達によって再確認されています。内容から当時の修験者の様子を知ることができます。ここで注目したいのは。法度6条です。ここには修験者が檀那衆に頼まれて代参する霊山としてあげられているのが「大峰・伊勢・熊野・愛宕・高越」の5つなことです。ここには石鎚や剣はありません。剣山が修験者にとって霊山として開発されるのは近世も後半になってからだったことは、以前に述べました。 
 また合意した19寺の中に、前回に大滝山の下寺的存在であったと紹介した「岩倉白水寺」が2番目に見えます。そして、大滝寺の名前は見えません。

高越山行場入口

 また高越寺には室町時代を降らないと思われる
木造の理源大師像があります。
聖宝(理源大師)NO3 吉野での山林修行と蛇退治伝説 : 瀬戸の島から
醍醐寺の理源大師像
この像は等身大の立派なお姿で、前後の二材矧ぎという古風な寄木造りです。ちなみに理源大師は、醍醐修験道の開山者で、修験者の崇拝を集めていました。こんなに立派な像は、県内には他にはありません。
 また、このころから高越寺は、東の大峯に対して自らを西山と呼びはじめています。
このような「状況証拠」から、高越寺は中世阿波国における修験道のメッカであったと研究者は考えているようです。

IMG_2659

修験道は、どういう風に高越山に根付いたのでしょうか?
高越山をとり巻く地域は、麻植郡山川町・美郷村・美馬郡木屋平村などです。これらの地は古代、忌部氏領域であったとされます。中世にそれらの地域を支配したのは、忌部氏を名乗る豪族達でした。彼らは、天日鷲命を祖先とした古代忌部氏の後裔とする誇りをもち、大嘗祭に荒妙を奉献して、自らを「御衣御殿大」と称していました。これらの忌部一族の精神的連帯の中心となったのが山川町の忌部神社です。

山﨑忌部神社1

忌部一族を名乗る20程の小集団は、この忌部神社を中心とした小豪族集団、婚姻などによって同族的結合をつよめ、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもっていました。擬制的血縁の上に地域性を加えた結びつきがあったようです。
山﨑忌部神社3 天岩戸神社の神籠石(こうごいし)

 鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いています。そのうちの一回は、必ず忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。彼らは正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。それが今日に伝わっています。 このようなことから、忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。
この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
 高越寺の明神は古来より忌部の神(天日鷲命)だったと考えられます。修験道が高越山・高越寺に浸透するということは、とりもなおさず忌部神社と、それをとり巻く忌部氏に浸透したということでしょう。
IMG_2653

 こうして「忌部修験道」とも呼ぶべき修験道の阿波的な形態が生まれます。羽黒山・英彦山・白山などと同じ成行きと言えます。修験道が背負うべき神が、阿波では忌部の神となったのです。
江戸時代に書かれたと思われる「高越大権現鎮座次第」には冒頭に次のように述べています。
吉野蔵王権現神勅に曰く。粟(阿波)国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め諸神達の集る高山なり。我も彼も衣笠山に移り、神達と共に西夷北狭を鎮め、下城を守り、天下国家の泰平を守らんと宣ひ、早雲松太夫高房に詰めて曰く。
 「汝は天日鷲命の神孫にて衣笠の祭主たり、我を迎え奉れ」と、神記にて、宣化天皇午八月八日、蔵王権現御鎮座也。供奉に三十八神一番は忌部孫早雲松太夫高房大将にて大長刀を持ち、御先を払ひ、雲上より御供す。此の時震動、雷電、大風大雨、神変不審議之御鎮座也。蔵王権現高き山へ越ゆると云ふ言葉により、高越山と名附たり、夫故、高越大権現と奉
  中候。……
とあります。「吉野蔵王権現が衣笠山(高越山)に降臨した際、天日鷲命の神孫である忌部の孫の早雲松太夫が御先を払って雲上より御供した」という表現は、先ほど述べた「修験道が忌部の諸神と融合した」ということと重なります。
 江戸期の享保年中(1716~36)に、阿波国内神名帳作成をきっかけとして、「忌部公事」と呼ぶ問題が起きます。これは『延喜式神名帳』の忌部神社の正統を決める事件でした。その際に自らが正統だと名乗り出た多くの神社の中に、高越大権現も入っていました。当時の神仏習合の有り様をよく示しています。

高越山8


参考文献 田中善隆 阿波の霊山と修験道

 

                                     

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