瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:高野大師御広伝

空海による雨乞祈願の伝承が、どのようにして形成されてきたのかを追いかけています。
その際の根本史料になるのが御遺告と大師御行状集記でした。
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このふたつの史料をもとに、『高野大師御広伝』(元永元年成立)がどのようにして作られるかを見ていくことにします。
高野大師御広伝
高野大師御広伝

高野大師御広伝では、上のように守敏との祈雨の験比べ譚から始まり、善如竜王を勧請する場面から善如竜王出現譚へと接ぎ木して、両者をうまく一つの話に「合成」することに成功しています。詳しく見ておきましょう。
aの部分は『行状集記』からの引用です。空海が守敏と祈雨の験比べを行うようになった発端から、空海の時に守敏が諸竜を水瓶に閉じ込めて妨害したところまでが述べられています。
bBの部分も『行状集記』からの引用です。この部分は『御遺告』とも重なるところで、両方のモチーフを結び付ける重要な役割を果たしています。内容としては、善如竜王を神泉苑に勧請したことを述べています。
Cは『御遺告』からの引用で、善如竜王の出現とそれを七人の弟子が見たことを述べています。
cは『行状集記』からの引用で、雨がよく降ったこととそれによって少僧都に任じられたことを記します。
※は両伝記にありません。著者独自の書き加えです。内容的には『御遺告』のDに近いものです。そして、最後のEは『御遺告』からの引用で、もし神泉苑の竜王がよそに移ったならば、公家に知らせずとも弟子達で祈願するようにという内容です。
 以上から『高野大師御広伝』の空海請雨伝承は、次のように成立したと研究者は考えています。
①『御遺告』と『行状集記』の両伝記を手元に置いて、うまく構成しながら一つの話にまとめあげた
②似た構成をとっているものに、『行状集記』の「日記」がある。全く同じと言ってよいほど似ており、これも『御遺告』と『行状集記』からの引用による合成と考えてよい。
ここでは『高野大師御広伝』の空海請雨伝承は、『御遺告』と『行状集記』からの合成で、新たな空海請雨伝承が作り出されたことを押さえておきます。
 この完成度の高い空海請雨伝承が、いつの時点で登場したのかについてはよく分かりません。
ただ同じような話が天永二年頃に成立したと言われる大江匡房の『本朝神仙伝』に載せられています。

昔於神泉苑行請雨経法。修因呪諸竜入瓶中。但久不得験。大師覚其心。請阿御達池善如竜王。金色小竜乗丈余蛇。 有両蛇腹。於是大雨。自是以神泉苑。為此竜住所。兼為行秘法之地。

意訳変換しておくと

昔、神泉苑で請雨経法が行われた。①その時に諸竜を瓶中に入れられたために、験を得ることができなかった。②そこで大師はインドの阿御達池の善如竜王を呼び出した。その姿は、金色の小竜が大蛇に乗った姿の双蛇で、善女龍王が姿を見せると大雨となった。これより神泉苑は龍の住む所とされ、雨乞祈願の秘法の地となった。

 ここには、諸竜を瓶に入れるという守敏との祈雨の験比べ譚になるモチーフ①と、金色の竜が一丈余りの蛇に乗るという、善如竜王出現譚にあるモチーフ②が見られます。このことから、この時期には『高野大師御広伝』と同じような伝承がすでに世間には語られるようになっていたことがうかがえます。
 この『本朝神仙伝』の内容について、酒向伸行氏は守敏が修因と記されていることに注目して、次のように記します。
「大江匡房は『本朝神仙伝』を記すにあたり、文壇に語り伝えられていた口伝を素材として用いている部分が多々あることから、このA伝承(空海請雨伝承)が書承ではなく、口承で貴族社会に伝えられていたため、匡房は守敏を修因と記してしまったとかんがえられる」

 以上から『高野大師御広伝』の空海請雨伝承の成立期を研究者は次のように考えています。
①守敏との祈雨の験比べ譚が永保二(1082年)から寛治三年(1089)までの間に成立した
②それに善如竜王出現譚が合成されて天永二年(1112)までの間に口承化された
ここからは、守敏との祈雨の験比べ譚は成立後間もなくして、善如竜王出現譚と合成されたことになります。どちらの話も天長元年の祈雨を舞台としているので、それぞれが別個に伝承され続けることがむしろ不自然で、その矛盾を解消するために両者の合成が早くになされたと研究者は考えています。 しかし、その口承化の広まりについてはすぐには進まなかったようです。真言宗の僧(修験者・聖)の周辺だけで拡がって行った程度だったのかもしれません。それは前回見たように『今昔物語集』には「善如竜王出現譚」のみで「守敏との祈雨の験比べ譚」は出てこないからです。
 少し時代が下って、仁平二(1153)年の『弘法大師御伝』では、空海が修円の行う栗の加持を妨げたことから験力を争うことになり、神泉苑での祈雨の場面へとつながっています。
ここでは、善如竜王が「一尺の金色の竜王」であったり、「勅使と十弟子が善如竜王の出現を見る」とあるなど、『御遺告』や『行状集記』の記事と異なっています。これは口承化がこの時期に進んだ結果と研究者は考えています。また、これまでなかった茅竜についての話が新たに加えられてもいます。そして、話の前後に修円との験比べ譚が配されます。

空海の雨乞祈願伝承の継承
 これまで見てきた空海請雨伝承の展開過程を図示したのが上図です。この図からは、一つの伝承を基軸として、そこに新たに発生した伝承が、合理的に統合されながら発展していく様子が見えて来ます。そして、その合理的統合が新しく生まれる空海伝記によって行われています。これは、この伝承の管理者が僧侶であったことからくるものと研究者は考えています。

最後に、空海請雨伝承の成立と展開が、その社会背景とどのように関わっていたのかを見ておきましょう。
①空海請雨伝承の成立は、益信が行った寛平3年(891)の祈雨祈祷の少し以前。
②その背景は真言宗の衰退期にその復興を目指した醍醐寺の聖宝やその弟子観賢の弘法大師伝説化の動きがあった。
③真言宗祖師の空海が神泉苑で祈雨を行ったとすることによって、祈雨における真言宗の優位を主張しようとした
④この成功によって、国家事業である神仙苑での真言宗の雨乞観賢へと受け継がれていく。
⑥これを受けて『御遺告』に見える善如竜王出現譚が成立する。
⑦これは空海の遺言という形で、神泉苑が祈雨の場として相応しいことを善如竜王が棲むということで説くものであった。
⑧そして善如竜王がよそへ移った場合には弟子達が祈願しなければならないとして、真言宗と神泉苑の深い関係を強調する。
以上のように、真言宗による祈雨の優位性をさらに強調し、神泉苑の結び付きをより強固なものとするねらいがあったようです。その成果があったもようで、以後神泉苑は真言宗がほぼ独占的に祈雨を行う場となっています。

神仙苑の祈雨法一覧
 それ以後は、『御遺告』の善如竜王出現譚が祈雨の場面でのこととして、より祈雨との結び付きを強めた話となっていきます。10世紀後半から11世紀前半にかけてては請雨経法の全盛期で、元呆・仁海という傑出した祈雨の験力をもつ僧も登場します。彼らの業績が、空海が請雨経法を修したことへと変化していきます。
 続いて登場するのが、『行状集記』に見える守敏との祈雨の験比べ譚です。
行状集記は応徳三年(1086)の成立は院政開始頃とされます。この頃は祈雨の面でも大きな転換期であったようで、結果的にはそれまでの読経関係の祈雨が姿を消し、真言宗による神泉苑を中心とした祈雨修法だけが残ります。この理由の一つとして、この時期の貴族層の密教的修法や験者の霊験力への期待感のたかまりがあったことを研究者は指摘します。高僧の持つ験力に強い期待が生まれたときに、それに呼応するように生まれてきたのが「守敏と空海の祈雨の験比べ譚」になります。真言宗の祖空海が他者を圧倒する験力を持っていたことを説くことにより、真言宗の修法の優位を主張していることになります。それは請雨伝承だけでありません。空海の伝記類に、空海の験力を説く新たな説話が数多く登場してくるのもこの時期のことです。そういった社会の動きを敏感に感じとって、新たな伝承を作り上げていった僧侶達がいたのです。
 こうして「守敏との祈雨の験比べ譚」+「善如竜王出現譚」が合成されて一つの話となります。
それが発展をとげながら口承化され、人々に広く知られる話として拡がっていきます。これが弘法大師伝説の始まりともいえます。同時に、真言宗による神泉苑での祈雨をゆるぎないものにしていくのです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
籔元晶   国家的祈雨の成立」
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弘法大師が「入定」後に、多くの伝記が書かれます。いったい伝記は、いくつあるのだろうかと思っていたら『弘法大師伝全集』に、93種あると記してありました。弘法大師の伝記は、代々の真言僧や蓮華谷聖の手によって何度も増補改制されてきました。さらにそれが高野聖たちによって人々に口伝えに伝えられ拡がって行きます。そして、「弘法清水」とか「再栗」や「三度柿」などの、水と救荒食物の救済者としての大師のイメージが定着していきます。 私が興味があるのは、これらの伝記類に善通寺がどのように記されているかです。そのことについて触れている論文に出会いましたので紹介しておきたいと思います。テキストは「渡遺昭五 弘法大師善通寺掲額説話の周辺 大師名筆伝説の行方NO2」です。
一円保絵図 曼荼羅寺3

曼荼羅寺と善通寺は、多度郡の吉原郷と弘田郷にそれぞれあった古代寺院です。
1089(寛治三)年の『大師御行状集記』には、曼荼羅寺や善通寺については何も書かれていません。それが同年成立の「弘法大師御伝」には次のように記されています。

「讚岐国善通寺、曼茶羅寺両寺、善通寺先祖氏寺、又曼荼羅寺大師建立

意訳変換しておくと
「讚岐国の善通寺と曼茶羅寺の両寺について、善通寺は空海の先祖である佐伯直氏の氏寺で、曼荼羅寺は大師が建立したものである

ここではじめて善通寺と曼荼羅寺が登場します。注意しておきたいのは善通寺が空海の先祖・佐伯氏の氏寺として建立されたのに対して、曼荼羅寺は空海によって創建されたのみ記されています。ここからは11世紀には、曼荼羅寺は存在していたことが分かります。これが時代を経るに従って、いろいろなことが追加されて、分量が増えていきます。

以下、大師伝記の中の善通寺に関連する記事を年代順に見ていくことにします。

弘法大師伝の善通寺 高野大師御広伝(下)・元永元年(1118年)成立
弘法大師伝記の善通寺・曼荼羅寺部分の抜粋

  (1)高野大師御広伝(下)・元永元年(1118年)成立(上の右端部分)
 
  唐より帰朝後に、仏像を大師自ら造った。また先祖菩提のために善通寺を建立し、その額を書いた。そして、善通寺と曼荼羅寺の両寺に留まり、修行を行った。そのため周辺には多くの聖地がある。この寺の山に塩峰がある。地元では、大師が七宝を埋めた山と伝えられる。これが後世に「七宝」から「塩」に転じてしまった。ここには行道(修行路)の跡が残っている。そこには草木が生えずに、海際に巨石がある。その石は落ちそうで落ちず、念願石と呼ばれている。また、人々が伝えるところによると、弘法大師の遺法が滅したときに、この石も墜ちるとも云う。

要点を挙げておくと
①善通寺と曼荼羅寺は空海が建立したこと
②塩峰=七宝山で辺路修行ルートがあったこと
③そのルート上に念願石があること
ここで気になる点を挙げておきます。
・「弘法人師御伝」(1089成立)に比べると分量が大幅に増えていること
・善通寺と曼荼羅寺の一体性を強調していること。曼荼羅寺への気配りがあったことがうかがえる
・七宝山をめぐる辺路行道ルートがあったこと。五岳山については何も触れられていないこと
・七宝山の行道ルートには海にも面していて、「念願岩」があったこと。

以前にお話しした10世紀末から11世紀の曼荼羅寺をとりまく状況を振り返っておきます。
①善通寺は10世紀以来、東寺の「諸国末寺」となっていた
②10世紀中頃に廻国聖・善芳が、退転した曼荼羅寺の復興開始。
③善芳は弘法大師信仰を中心にして勧進活動を行い、数年で軌道に乗せることに成功。
④勧進僧侶による地方寺院の復興は、阿波の大瀧寺や土佐の金剛頂寺でも行われていた。
⑤勧進僧に共通するのは、弘法大師信仰から生まれた「大師聖霊の御助成人」としての誇りと使命であった。
 ここからは弘法大師信仰が高野聖などによって地方拡散し、それが地方寺院の復興活動を支える時代が始まっていたことが分かります。その先例が廻国聖・善芳による曼荼羅寺の復興運動でした。その成果が、高野山にもたらされ伝記の中に曼荼羅寺が善通寺と併記して登場するようになったことが考えられます。同時に彼らは、観音寺から七宝山を経て我拝師山に至る中辺路行道ルートを開いたのかもしれません。

弘法大師信仰と勧進聖

曼荼羅寺の縁起について、1164(長寛二)年の善通・曼荼羅両寺所司の解には、次のように記されています。(意訳)
善通寺は、弘法大師の先祖の建立で、約五百年を経ており、弘法大師自作の薬師仏、自筆の金光明妙文、五筆額を安置する。曼茶羅寺は、大師入唐ののちに建立され、大師自作の七体の諸尊像を納める。

これによると、善通寺は佐伯氏の氏寺であり、曼茶羅寺は、空海建立とします。ふたつの寺が「善通・曼茶羅両寺」として並称され、一体視されるのは、応徳年間(1084年ごろ)以後のようです。それまでは、別々の寺でした。 善通寺は、十世紀末には東寺の末寺となっていたことは、公験が東寺に納められていることで裏付けられます。しかし、この時点では曼茶羅寺の名はまだ出てきません。善通寺は佐伯氏の氏寺だったので、そこから寄進された田畑があって、まとまった寺領があったのかもしれません。そのために寺領維持のために、早い時期に東寺の末寺となったようです。つまり、中央の支配管理を受けるようになり、東寺から派遣された僧侶達がやってくるようになります。それを追いかけるように、廻国の高野聖たちがやってきて活動を始めます。

一円保絵図 曼荼羅寺1
善通寺一円保絵図に描かれた曼荼羅寺と我拝師山


2 弘法大師行化記(1219年)
善通寺額事 (高野大師行状図画)
                善通寺額事 (高野大師行状図画)

弘法大師は先祖のために讃岐に善通寺を建立した。その山門に大師自筆の額を掲げた。その額には聖霊が宿っていた。陰陽師の安倍晴明が縁あって讃岐に下向した。暗くなったので識神に松明を持たせて進んだ。ところが善通寺あたりで松明が消えて、寺を通過してしまった。このことについて安倍晴明が疑問に思うと、識神が云うには「弘法大師の額がこの寺には掛けられています。それを四天王が守護しています。そのために四天王が安部清明様の霊力を怖れて路を変えたのでしょうと

弘法大師行化記は、空海を満濃池修復の別当に任命することを申請した讃岐国司解と、それを中央政府が許可した太政官符の写しを載せている伝記です。そして、もうひとつ新しいエピソードを載せます。それがこの「善通寺額事」です。そこに登場するのは空海の筆による額と安倍晴明です。

ここに記された「善通寺額事」について見ていくことにします。
弘法大師の筆による「額」は四天王が守護したりして、額に精霊が宿っているという奇瑞が、大師伝記の名筆説話伝説に述べられています。それが「五筆勅号」「虚空書字」「大内書額」のエピソードです。
中でも「大内書額」は掲額説話として、最も有名なモノです。俗に「(弘法大師)筆」といわれるもので、次のような有名な説話です。

勅命によって応天門に掲額する字を書き・・・額うち付けて後見たまひければ、応の字の上の円点かき落されける程に、筆をなげあげて点をうたれけり         「大師行状記」巻五)

その他にも宮中の門に関わる説話としては「皇嘉門額」などという似たような伝承もあります。伝記に採用されなくとも、之に類する話は全国にあったことがうかがえます。善通寺掲額説話もその一つでしょう。冷静に考えてみると、掲額は門に掲げられます。そのため百年も経てば、風雨にさらされてぼろぼろになるのが普通です。平安前期の大師真筆が風雨にさらされて中世まで何百年もそのまま残っている方が不思議です。また、弘法大師が書いたものでなくても掲げられた額が、筆ぶりが達者であれば、大師筆と化してしまったものも、少なくかったはずです。弘法伝説の拡がりを考えれば、高野聖たちはそれらを「大師真筆」と語るのは当然のことだったでしょう。この動きに、中近世の書道家家元制度の喧々たる連中たちは、「地元の誇り・光栄」として乗っかっていきます。
 善通寺は大師生誕の地とされたので大師にまつわる伝承には事欠きません。
産湯の水や幼年時代の砂遊び(童雅奇異)などのストーリが創作可能でした。それが伝記には取り上げられていきます。その他にも多くの伝承が語り継がれていたはずです。善通寺のエピソードを伝記作家(僧)が求める中で空海の名筆にちなんだ掲額説話が、後に加えられていくのは自然のなりゆきです。ただ、善通寺掲額説話は筆伝説(大内書額)とちがって、中世期になって登場する話です。それはこの話が『高野大師行状図画』に語られながら、もう一つの中世期の大師伝記代表作品である『弘法大師行状記』には載せられていないことからもうかがえます。93もある大師伝記の中で、枝葉を生やし数を増してきた多くの奇瑞譚の末端が善通寺掲額説話であると研究者は指摘します。その登場過程は次のような流れが考えられます。
①生誕の地の善通寺で「弘法大師名筆」に影響されて語られ始めた「善通寺額事」
②それを流布し、高野山に伝えた高野聖たち
③高野聖たちから聞き取ったエピソードを伝記の中に載せた伝記作家(僧)
善通寺は多度郡司であった佐伯直氏の氏寺として建立された地方小寺院でした。
氏寺であるがために、佐伯直氏一族が平安京に本貫を移し、中央貴族化したり、高野山の管理者になって去って行くとパトロンを失い退転していきます。それは平安時代中期以後の古代瓦が出てこないことからもうかがえます。中世を前に善通寺は、衰退していたのです。そのような中で弘法大師伝説が流布され、弘法大師信仰が広がり始めます。そして「弘法大師生誕の地」と中央貴族の信仰を集めるようになります。大師が有名化するとともに信仰が拡がり参詣者も増えるのに連れて、大師にまつわる伝説も数が増えていきます。大師が善通寺を建立したという伝承など生まれてくるのは、自然な流れです。これが大師伝説を語る時衆系念仏聖たちの流れを汲む中世高野聖によって採録され、そのネットワークを通じて、高野山の真言僧などにもたらされます。
 善通寺掲額説話は先ほども見たように、初期の『弘法大師伝』には出てきません。また93あるというわれる大師説話の中で、重要な地位を占めていません。そして今は、あまり語られないエピソードになっています。私も知りませんでした。それはどうしてなのかは、別の機会に考えるとして、先を急ぎます。
3 弘法大師略欽抄 1234年
 
讃岐の善通寺と曼荼羅寺の両寺は、弘法大師空海の先祖菩提の氏寺である。また曼荼羅寺は大師が建立したもので、両方の寺にその住居跡がある。

ここでも善通寺と曼荼羅寺の一体性が語られます。そして、曼荼羅寺をフォローするかのように、曼荼羅寺にも弘法大師の住居跡があると補足します。そこには、下表のように12世紀になると曼荼羅寺が東寺の荘園となり、善通寺と一体化して経営されていたことが背景にあるようです。

曼荼羅寺の古代変遷

4弘法大師伝要文抄 1251年

善通寺と曼荼羅寺の白檀の薬師如来像は、弘法大師が唐からの帰国の際に嵐に出会って遭難しそうになった際に、その嵐が収まることを祈り、一難を避けた際の成就御礼として、自ら造ったものである。

ここに初めて、嵐退散のために空海が手造りした白檀の薬師如来像が登場します。これが今の私にはよく分かりません。なお、現在の善通寺金堂の本尊は丈六の薬師如来坐像で、江戸時代前期のものです。 

5 高野大師住処記 1303年

   善通寺は讃岐国にあり、空海の先祖の氏寺である。曼荼羅寺も大師が建立した寺である。両寺に大師が修行した住居が残っている。

6 弘法大師行状要集 1374年
伝記によると、善通寺と曼荼羅寺の白檀の薬師如来像は、大師が唐からの帰国の際に大嵐に際に風波の収まることを祈願して、自ら造ったものである。言い伝えによると、伝教大師は入唐の際に、風波の禍を避けるために鎮西で薬師如来を造って奉納したと伝わる。弘法大師と伝教大師の両大師が帰国後に、無事帰国を感謝して薬師如来を造った。その意を察すべし。

7高野大師行化雑集(1630年?) 
 善通寺・曼荼羅寺の白檀の薬師如来は、入唐の際の嵐の際に、無事を祈って大師自らが造ったものである。讃岐多度郡の吉原中郷に善通寺を建立する。また中郷は大師が御桑梓の地でもある。また大師は吉原郷に曼荼羅寺を建立した。この寺の南には五岳山がある。第一峰は高識山、第二峰が五筆山、第三峰が我拝師山で、この山の麓に寺がある。寺号は出釈迦寺である。善通寺と曼荼羅寺、并に中郷・吉原は一続きのエリアである。第四峰が火上山、第五峰が獅子山で、この五山の浦を屏風ヶ浦と称する。 
以上を見た上で気づくことを挙げておきます。
A (1)高野大師御広伝(元永元(1118年成立)では、弘法大師が帰朝後に「手ヅカラ数(多)ノ仏像ヲ造った」とある記事は、その約百年後の(4)弘法大師伝要文抄(1251年)では、「善通曼荼羅両寺の薬師如来像、唐ヲ欲スルノ時、風波(安全)祈ル為ニ、手ヅカラ斤斧ヲ操リ彫った」となり、分量が増えています。
B (6)の弘法大師行状要集(1374年)では、伝教大師が登場して真言天台両密教の宗祖が並んで渡海安全を祈ったことに変化します。
C 七宝山が辺路修行の場であり、念願石の伝説が語られていたのが、(7)高野大師行化雑集(1630年)では、七宝山は消えて、替わって五岳山が聖地とされるようになります。これには、五岳山を取り巻く状況の変化があったことは以前にお話ししました。

曼荼羅寺
幕末の曼荼羅寺(讃岐国名勝図会)
 こうしてみると、もともとは平凡な説話だったものが、誇張化し奇瑞化されていく過程が見えてきます。善通寺と曼荼羅寺の両方に「大師御住房アリ」と記されるようになるのも、これも善通寺が大師の生誕地であって、生誕地ならばその帰るべき住居があったのは当然という考えから、後世に追補されたものしょう。
弘法大師伝記の善通寺記述の分類
弘法大師伝記に登場する善通寺関連記事のモチーフ分類 下段番号は登場する伝記 
以上見てきたように、善通寺の関連説話で一番古いのが元永元年(1118)年成立の(1)高野大師御広伝(下)です。しかし、これは12世紀初頭の成立なので、大師伝記中の説話の中では、新しい部類のものにになります。そして、近世以降のものは、それまでの伝記の写しで内容が重なっています。逆に言うと新しいことは付け加えられていません。例えば12などは『高野大師行状図画』の「善通寺額事」とほぼ同じ内容です。以上のように大師伝記伝説の中に出てくる善通寺関連説話は、12世紀以後に付け加えられた「新しい弘法大師エピソード」であることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
渡遺昭五 弘法大師善通寺掲額説話の周辺 大師名筆伝説の行方NO2
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弘法大師については、実像と死後に作られた伝説とがあり、これが渾然一体となって大きな渦(宇宙)を作り出しているようです。ここでは、それをとりあえず次のふたつに分けておきます。
太子伝  史料等で明確に出来る年表化が可能な事項
大師伝説  大師死後に生み出された民間伝承・信仰
大師伝説が大師伝の中にあらわれたのが、いつ頃のことなのでしょうか
大師没後255年の寛治三年(1089)、東寺の経範法務の『弘法大師御行状集記』が一番古いようです。この本は『今昔物語集』と同じじ時代のもので、霊異説話集の影響を受けたせいか、大師行状の中の伝説的部分に強い関心を示す大師伝と言われます。
その序には、次のように記されています。(意訳)
大師が人定したのが承和二年乙卯で。現在は寛治三年己巳で、その間に255年の歳月が過ぎた。入城直後の行状には、昼夜朝暮(一日中)いろいろな不思議なことを聞かされたが、時代が離れるに従って、伝え聞くことはだんだん少なくなり、1/100にも及ばなくなった。これはどうしたことだろうか。これより以後、末代のために、伝え聞いたことは、すべて記録に残すことにする。後々に新たな事が分かれば追加註していく。

このような趣意で、できるだけ多くの大師に関する伝聞を記録しようとしています。そのために、大師の奇蹟霊異も多く集められ収録されているようです。注目したいのはこの時点で、すでに多数の伝説が語り伝えられていて、記録されていることです。『弘法大師御行状集記』に収録されている弘法大師伝説を挙げて見ます。
1、板尾山の柴手水の山来。
2、土佐の室戸に毒龍異類を伏去すること。
3、行基菩薩出家前の妻と称する播磨の老姫、大師に鉄鉢を授くること。
4、唐土にて三鈷を上すること。
5、豊前香春(かすい)山に木を生ぜじめること。
6、東大寺の大蜂を封ずること。
7、わが国各所の名山勝地に唐より伝来の如意宝珠をうづむること。
8、神泉苑祈雨の龍のこと。
9、祈雨に仏合利を灌浴すること。
10観行にしたがって其の相を現ずること。
11五筆和尚のこと。                                         5
12伊豆柱谷山寺にて虚空に大般若経魔事品を吉すること。
13応天門の額のこと
14河内龍泉寺の泉を出すこと。
15大師あまねく東国を修行すること。
16陸奥の霊山寺を結界して魔魅を狩り籠めること。
17生栗を加持し蒸茄栗となし供御して献ずること。
18日本国中の名所をみな順礼し、その御房あげて計うべからざること。
19高野山に御入定のこと。
20延喜年中(901~)、観賢僧正、御人定の巌室に大師を拝することの
以上の項目を見てみると、のちの大師伝が伝説としてかならずあげるものばかりです。
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『弘法大師御伝』(11世紀末)と『高野大師御広伝』(12世紀)になると、弘法大師伝説はさらに増えます。ふたつの弘法大師伝に追加された項目を挙げると次のようになります。
1、唐にて大師の流水に書する文字、龍となること
2 大師筆善通寺の額の精霊と陰陽師晴明の識神のこと。
3、大師筆皇城皇嘉門の額の精霊のこと。
4、土佐国の朽本の梯(かけはし)に三帰をさずくること
5、石巌を加持して油を出すこと。
6、石女児を求むれば唾を加持して与えるに児を生むこと。
7、水神福を乞えば履を脱いでこれを済うこと。
8、和泉の国人鳥郡の寡女の死児を蘇生せしむること。
9、摂津住古浦の憤のこと。
10行基菩薩の弟子の家女に「天地合」の三字を柱に書き与うるに、その柱薬となること。
11河内高貴寺の柴手水に椿の本寄生すること。
12天王寺西門に日想観のこと。
13高雄寺法華会の曲来と猿の因縁。
14讃岐普通寺・曼荼羅寺の塩峰と念願石のこと。
15阿波高越山寺の率都婆のこと。
上の大師伝説は、伝記の本文から離して「験徳掲馬」の一条を立てて別立てにしています。そしては次のようなことが序文に書かれています。
今、大師御行状を現したが 神異を施し、効験を明らかにすために、付箋を多く記した。世俗では多くの弘法大師伝が語られるようになり、それが多すぎて、詳しく年紀をしるすことができない。書くことができないものは、左側に追加して記すことにした。

年紀(年表)に、民間に伝わる大師伝説を入れていこうとすると、無理が起きてきたようです。弘法大師伝説が多すぎて、年紀の中に入りきれなくて、はみ出さざるを得なかったのです。世に伝わる大師伝説を全て収録しようとすると、大師伝の中に伝説がどんどん流入してきます。その結果、「或人伝云」「或日」「世俗説也」「世俗粗伝」などの註記を増やす以外に道がなくなったようです。

 私は最初は、弘法大師伝説は歴代編者の「捏造」と単純に考えていました。
しかし、どうもそうではないようです。世の中に伝わる弘法大師伝説が時代とともに増え続けていたのです。つまり、生み出され続けたのです。編者は世俗の説(弘法大師伝説)にひきずられる形で書き足していたようです。
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深賢の『弘法大師行化記』二巻は、奥書に編集方針が次のように記されています。
この書の上巻裏書には、やや詳しく大師の伝説をのせています。しかし、ここでは「世俗説也」「彼土俗所語伝也」の註があります。伝記と伝説を区別すべきものであるという編集姿勢が見えます。そして、この伝が書かれた鎌倉初期までに、大師伝中の大師伝説は固定したようです。これから新たに伝に加えられるものは出てきません。

 しかし、鎌倉時代末以後に書かれた大師伝のスタイルは大きな変化を見せるようになります。
このころの大師伝は伝記と伝説のあいだの区別がまったくうしなわれてしまうのです。そして、伝記と云うよりも奇瑞霊験に重点を置き説話化していきます。
 これは鎌倉中末期という時代に『法然上人行状絵図』『一遍上人絵伝』などの高僧絵伝が多数つくられたことと関係するようです。これとおなじ時期に、弘法大師初めての絵図である『高野大師行状画図』十巻が作られます。これは他の高僧絵伝の説話化とおなじで絵入物語です。
「高野大師行状画図」の画像検索結果

 正中一年(1325)の慈尊院栄海の『真言伝』に見える弘法大師伝などは、まさにこの行状画図路線をいくものです。
こうして伝説は伝記の中に織り込まれて説話化、物語化するようになります。この傾向が進むと次第に大師伝説は、「歴史」として扱われるようになります。そうなると編者の次の課題は、大師の奇瑞霊異の伝説がいつのことであったのかに移っていきます。伝説に年紀日付を付けて、年表化する作業が始まります。こうなると伝説と歴史事実との境がなくなります。「伝説の歴史化」が始まります。
その研究成果が結実したものが報恩院智燈の『弘法大師遊方記』四巻(天和四年(1684)になるようです。
その成果を見てみましょう
①大滝獄捨身が延暦十一年(791)、大師19歳とされ、
②播州に行基の妻より鉢を受くる奇伝と伊豆桂谷山寺の降魔は延暦12年、大師20歳
③横尾山に智慧水を湧かし、高貴寺の泉の檜木に椿を寄生せしめる伝説が大同二年(807)
こうして「遊方記」では、編者の智燎の手に負えない伝説は、みな捨てられてしまいます。その上、伝悦をそのまま歴史事実とする無理は寂本の『弘法大師伝止沸編』一巻(貞享三年(1685)によつて指摘せられます。そして、高野開創の逢狩場神や逢丹生神の物語なども、紀年を附すべき事実でないことがあきらかにされていくのです。
 これ以後、大師伝説は大師伝の編者にとっては、あつかいに苦慮する部門になっていきます。
これはそれまでの編者が、伝記と伝説のちがいや立場を認識することなしに、「伝記の伝説化」や「伝説の伝記化」を行ってきた結果とも云えます。これに対して、この区別を認識して不審は不審、不明は不明のままに、伝えられてきた記録をもらさず集録したものが得仁上綱の『続弘法大師年譜』巻六です。できるだけ多く採録して、後の世代に託すとする態度には好感が持てます。多くの集録された史料の中から伝説の変化がうかがえます。
 以上をまとめておくと
①初期の弘法大師伝では、伝記と伝説は分けて考えられていた
②その間にも民間における弘法大師伝説は、再生産され続けた
③増え続ける弘法大師伝説をどのように伝記に記すのかが編者の課題となった。
④宗法祖信仰が高まるにつれて伝記は説話化し、伝記と伝説の境目はなくなっていった
⑤弘法大師伝説も年紀が付けられ年表化されるようになった。
しかし、これは編者の捏造とおいよりも、弘法大師伝説の拡大と深まりの結果である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重 弘法大師伝説の精神史的意義 寺社縁起と伝承文化所収

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