瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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四国霊場弥谷寺における中世の念仏聖たちの活動を以前に見ましたが、その中で高野聖たちの果たした役割がよく分からないとの指摘を受けました。そこで、五来重「高野聖」の読書メモ的な要約を載せておきたいと思います。テキストは、五来重『増補 高野聖』と「愛媛県史 四国遍路の普及」です。
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弘法大師信仰を地方に広げていくのに活躍したのが高野聖(こうやひじり)たちです。彼らの果たした役割を、明らかにしたのが五来重の「高野聖」です。この本の中で聖の起源を次のように記します。

「原始宗教者の『日知り』から名づけられたもの」で、『ひじり』は原始的な宗教者一般の名称であった

 聖の中は、呪力を身につけるための山林修行と、身の汚れをはらうための苦行を行います。これが聖の山林への隠遁性と苦修練行の苦行性につながります。
 原始宗教では、死後の霊魂は苦難にみちた永遠の旅路を続けると考えられていたようです。これを生前に果たしておこうという考え、彼らは巡礼を行います。そのために、聖の特性として回遊(廻国)性が加わります。
 こうして隠遁と苦行と遊行によってえられた呪験力は、予言・治病・鎮魂などの呪術に用いられるようになります。これは民衆からすれば、聖は呪術性のある特別な存在をおもわれるようになります。
その他に、聖には次のような特性があると指摘します。
①妻帯や生産などの世俗生活を営む世俗性
②集団をなして作善をする集団性
③寺や仏像をつくるための勧進をする勧進性
④勧進の手段として行う説経や祭文などの語り物と、絵解きと踊り念仏や念仏狂言などの唱導を行う唱導性
 こうして、聖たちは、隠遁性・苦行性・遊行性・呪術性・世俗性・集団性・勧進性・唱導性をもつ者として歴史に現れてくるようになります。高野聖もこのなかのひとつの集団になるようです。
 聖は、古代から存在していたことを、谷口廣之氏は次のように述べています
「四国は、霊山信仰や補陀落信仰などの重層する信仰の地であり、遊行する聖たちの頭陀行の地であった。四国遍路成立以前に四国の地は彼らによって踏み固められていったのであった。しかしそれぞれの信仰の要素は多様であって、まだ弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけではない。」

 「現在では四国霊場は空海弘法大師によって開かれた」というのが当たり前に云われています。しかし、歴史家たちはそうは考えていないようです。空海以前から聖(修験者・行者)たちは霊山で修行を行っていて、その集団の中に若き日の空海も身を投じたという見方をします。また、空海以後も四国の地を遊行した聖たちは、蔵王信仰・熊野信仰・観音信仰・阿弥陀信仰・時衆信仰などそれぞれの信仰に基づいた修行をしていたようで、弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけでありませんでした。
阿波の板碑
高野

聖たちの中で、高野聖が登場するのは、平安中期以降のことだとされます。

もともと高野山では、信仰心のある隠遁者が集まり、出家せずに聖として半僧半俗の生活をしていた者がいたようです。そのような中で、正暦5年(994年)に高野山は大火に見舞われます。その復興を図るために僧定誉(じょうよ)が、聖を勧進集団に組織したのが高野聖の始まりとされるようです。
 その後は、次のような集団が、高野聖として活発な活動を展開します。
①教懐(きょうかい)・覚鑁(かくばん)などの真言念仏集団による小田原聖・往生院谷聖
②中世になると蓮花谷聖、五室聖(ごむろのひじり)
③禅的信仰を加味した萱堂(かやどう)聖
④時宗聖集団を形成した千手院谷聖の諸集団
 高野聖の主な活動は、勧進でした。
 古代寺院は、律令国家の保護のもとに、広大な寺領と荘園をもち、これが経済基盤となっていました。しかし、平安中期になって律令体制が崩壊すると、荘園からの収入が思うように得られなくなります。寺院経営には、伽藍や法会の維持、僧供料など多くの資金が必要です。それが得れなくなった多くの古代寺院は退転していきました。生き残っていくためには、新たな収入源を確保する必要に迫られます。その一つの方法が、聖の勧進による貴賤の喜捨(お寺や僧侶にあげる金品)と奉加物の確保です。こうして全国に散らばった聖は、布教とともに勧進にかかわりるようになります。
 例えば讃岐の霊場弥谷寺に先ず根付いたのが阿弥陀信仰であり、その後の伽藍配置には時衆念仏信仰の影響が見られることは、以前にお話ししました。これも高野聖の一流派である②の五室聖や④の千手谷聖の活動が背景にあったことがうかがえます。彼らは里の郷村への阿弥陀念仏信仰を流布しながら、先祖供養のために「イヤダニ詣り」を勧めたのです。それが現在の弥谷寺に、磨崖五輪塔や地蔵形墓標として残ります。同時に、信者を高野山の勧進活動へと導いていきます。高野山には、高野聖が全国から勧進して集まった資金が流れ込むことになります。
西行は高野聖でもあった : 瀬戸の島から
関東・平泉に勧進のために下る西行 西行も高野聖であった
 高野聖は、「高野山が日本の先祖供養の中心地」であることを、説話説教によって信者に広げます。
そして高野山への納骨参詣を誘引します。各地を回国しては野辺の白骨や、委託された遺骨を笈(おい)にいれて高野山に運ぶようになります。さらに納骨と供養のために高野詣をする人や、霊場の景観とその霊気をあじわう人のために、宿坊を提供するようになります。このように高野聖は、高野山での役割は、宗教よりも生活を担うことで、信仰をすすめて金品を集める勧化(かんげ)や唱導、宿坊、納骨等にを担当します。こうして、高野聖は、高野山の台所を支える階級となっていきます。別の見方をすると、高野山という仏教教団の上部構造は学問僧たちでした。しかし、それを支えた下部構造は、学問僧に奉仕する働き蜂のような役割を果たした高野聖たちであったと云えそうです。

 高野山奥の院への杉木立の参道に建ち並ぶ戦国武将や大名達の墓は、ある意味では高野聖の活動の証と云えるのかも知れません。高野山の堂塔・院坊の再興と修復、仏像の造立と法会の維持、あるいは山僧の資糧などは、高野聖の勧進によって支えられていたのです。
君は勧進上人を知っているか?|記事|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−|Historist(ヒストリスト)
勧進や高野山詣りを担当する高野聖の活動は、庶民との密接なかかわりによって成り立つものでした。そのために彼らは、足まめに担当諸国を廻国し、人集めのために唱導や芸能も行いました。次第に庶民に迎合して、世俗化する傾向が生まれるのも自然の成り行きです。高野聖の世俗化した姿は「非事吏(ひじり)」などと書かれて卑しめられたり、宿借聖とか夜道怪(やどうかい)などと呼ばれて、「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」とか「人のおかた(妻女)とる高野聖」と後ろ指を指されていたことが分かります。高野聖は、人々から俗悪な下僧と卑しられるようになっていったのです。
高野聖とは - コトバンク
高野聖
 やがて呉服聖といわれるような商行為や隠密まではたらくようになり、本来の姿を大きく逸脱していくようになります。高野聖のこうした世俗性が俗悪化につながり、中世末期には世間の指弾を受けるようになり、堕落した高野聖は消滅していきます。

やまだくんのせかい: 江戸門付
聖たちのその後

高野山内部での「真言原理主義運動」が高野聖を追い出した
真言密教として出発した高野山でしたが、中世には浄土往生と念仏信仰のメッカとなっていました。鎌倉時代の高野山は、念仏聖が群がり集まり、念仏信仰の中心拠点となっていて、それを高野聖たちが担って全国に拡散したのです。ところが室町時代になると、「真言復帰の原理主義」運動が起き、その巻き返しが着々と進んでいきます。室町時代半ばの15世紀末ごろからは、自発的に高野聖の中には「真言帰人」を行う者も現れるようになります。そして江戸時代になると慶長11年(1606年)年に将軍の命として、全ての高野聖は時宗を改めて真言宗に帰人し、四度加行(しどけぎょう)(初歩的な僧侶の修行)と最略灌頂(簡素な真言宗の入信儀式)を受けるよう命じられます。これが高野聖の歴史に終止符をうつことになります。
画像をクリックすると、拡大する。 第一巻 52 【前へ : 目次 : 次へ】 願人 - 【願人坊主  がんにんぼうず】は、江戸時代に存在した大道芸人の一種。穢多・非人に連なる賎民であるが、形式上は寺社奉行の管轄下にあったので、町奉行は扱いにくかった  ...
願人

高野聖の弘法大師信仰流布に果たした役割を研究はどのように捉えているのかを見ておきましょう。
 五来重氏は、高野聖の役割について次のように述べています。

 高野聖は、奈良時代以来、庶民信仰を管理した民間宗教者としての聖を追求するなかで姿をあらわしたものであった。これらの聖は念仏もすれば真言もとなえ、法華経を読み大般若経を転読し、神祗を崇拝し苦行もするという、宗教宗派にこだわらないおおらかな宗教者であった。実に弘法大師信仰に宗派がないということは、このような精神風土の上に成立したものであることがわかる。それは弘法 大師の偉大さとして説かれるけれども、弘法大師を偉大ならしめるのは庶民の精神構造であった。これを知らなければ高野山がなぜ宗派を越えた日本総菩提所になったのか、また弘法大師の霊験が各宗の祖師を越えて高く信仰されるのか、という疑問を解くことはできない。
   
ここには高野聖が「宗教宗派にこだわらないおおらかな宗教者」で、その性格は「庶民の精神構造」に起因するとします。だから「弘法大師の霊験が各宗の祖師を越えて信仰」され、弘法大師一尊化への道が開かれると考えているようです。
日本遊行宗教論(真野俊和 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 また真野俊和氏は、次のように述べます。
さまざまな形態の弘法大師信仰を各地にもち伝えたひとつの大きな勢力に、12世紀頃からあらわれて中世末頃まではなばなしい活躍をした高野聖がある。中世の高野聖たちはまた、高野山そのものが現世の浄土であり、人は死後そこに骨を納めることによって仏となるという信仰をもって民衆の心の内に入りこみ、高野山納骨という習俗を全国にひろめた。弘法大師誕生の地である四国はこんな高野聖にとっては最も活躍しやすい場でもあったろう。四国霊場の遍照一尊化という風潮も、以上の歴史的文脈のなかでとらえねばならない。そしてまた中世期高野聖の活動による大師信仰の普及をとおして、四国遍路の宗教思想は形づくられ、また全国に普及していったはずだ。なぜなら弥勒下生思想のもとでの不死・死滅の大師、復活する大師、そして霊能高く偉大な奇跡を行いうる存在としての大師のイメージは、現実の「同行二人」の信仰のもとに彼らとともに巡歴して苦難を分がちあい、かつさまざまな霊験を遍路たちにもたらす大師像と、その輪郭はあまりにもくっきりと重なりあってくるからである。ここに現れる、影のごとくにして遍路の背後にともなう大師像が、また諸国を遍歴する大師の姿が歴史的にいつ頃から形成されてきたかをさし示すことは難しいが、四国霊場に関する限りでは軌を一にして出現した観念であるにちがいない。

ここでは研究者は、次の2点を指摘します。
①高野聖の活動を通して四国霊場の弘法大師一尊化という風潮が形成されたこと、
②中世高野聖によって大師信仰が普及し、それを通して四国遍路の宗教思想が形づくられて全国に普及したこと
伝承の碑―遍路という宗教 (URL選書) | 谷口 広之 |本 | 通販 - Amazon.co.jp

 谷口廣之氏は、次のように述べています。
現在でも八十八ヶ所を巡拝した遍路たちは御礼参りと称して高野山に参詣するが、高野聖の末裔たちが村人の先達となって、四国遍路の後高野山参詣を勧めたのであろう。もちろん四国を遊行した聖は高野聖だけでなく、六十六部といった法華経行者や修験の徒などその種類は多い。しかし遍照一尊化への四国霊場の統一は彼らの活躍を抜きに考えられないだろう。

ここでは、次のことが指摘されています。
①高野聖の末裔たちが村人の先達となって、四国遍路の後高野山参詣を勧めたこと
②弘法大師信仰と遍照一尊化一色へ四国霊場を染め上げていったのは、高野聖の活動なしには考えられないこと
 以上を整理すると、次のようになります。
①高野聖の宗教宗派にこだわらない布教活動が、庶民の中に弘法大師信仰を普及させるうえで大きな役割を果たしたこと
③高野聖の地道な活動を通して、弘法大師信仰は地方の隅々にまで浸透していき、四国霊場の弘法大師一尊化の風潮が強められていったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献
       五来重『増補 高野聖』
「愛媛県史 四国遍路の普及」


DSC03173

絵巻は四天王寺の沖の海波を、まるで縮緬のしわを一本一本描くように書いています。浪速江の向こうに見えるのが淡路島なのでしょうか。そして、 一遍絵図巻二の緑に染められた高野山の詞書が始まります。
天王寺より高野山にまいり給えり
この山はみね五智を表し、やま八葉にわかれて・・
と読めます。天王寺から高野山へ向かったようです。
どうして、高野山なのでしょうか。
詞書には、次のようにその理由を記します。

一遍絵図 高野山詞書

意訳しておくと
 弘法大師は唐より帰朝した後、狩人の教えに従い三鈷の霊験を古松の枝に訪ね、五輪の鉢を苔むした洞に留めた。そして願力で、己の身を留めた。これは天竺国の釈迦のごとく、わが国においては弘法大師が龍華としてこの世に下りてくることであった。
 また大師は六字名号(南無阿弥陀仏)の印板を残し、汚れた世間のなかで迷い苦しむ衆生のための本尊とされた。そこで、浄土の縁を結ぶために、遙かなる山を分け入り参詣に訪れた。
ここには、前半に高野山が弘法大師の開いた聖山であることが語られ、後半に、その大師との結縁のために訪れたことが記されています。
「弘法大師との結縁」という言葉は、以前に「菅生の岩屋(岩屋寺)」での修行目的の際にも語られたように思います。旅立つ前に、 一遍が菅生の岩屋で行ったことは、修行を繰り返すことで、強靭な体力と「ひじり」としての霊性を得て、「やいばの験者」に己を高めようとすることでした。それは、土佐の女人仙人や弘法大師がかつて行ったことで、大師はその良き先例として捉えられています。一遍はこの二人に「結縁」することで「ひじり」としての神秘な霊性に磨きをかけ、遊行に耐え得る強靱な体力と生命力を得ました。
 岩屋寺の行場には、全国から修験者たちや聖が集まっていたようです。その中には、高野山の念仏聖などもいたでしょう。また、熊野行者もいたはずです。彼らからの情報を得て、高野山・熊野に詣でるというプランが 一遍には伊予を旅立つときにはあったのではないでしょうか。

高野山を巡る | 高野山真言宗 総本山金剛峯寺

  以前にもお話ししたように中世の高野山は、浄土信仰の中心地でもありました。それを広めたのが高野聖たちです。彼らの果たした役割を挙げると
①高野山を弘法大師が入定する日本の総菩提所であると全国に広めた
②各地で浄土信仰と念仏を勧めた。
③このとき弘法大師の六字名号(南無遍照金剛)を賦算した
①②については、高野山をはじめ、善光寺・四天王寺・熊野は、古代から葬送の霊山だったようです。高野山は融通念仏聖や勧進聖が集まり、全国各地の霊山を廻る拠点でもありました。その僧侶集団の一群の中に、若き日の 一遍もいたということになります。そういう意味では、一遍も念仏聖の一人であったと言えるのかもしれません。

③については、最初の遊行地である信州善光寺は、生身の阿弥陀仏が本尊でした。そして本尊の三仏の分身といわれる宝印三判を捺した御印文を賦算して、極楽往生の保証としていたことは以前にお話ししました。一遍も、これらにならい賦算を行ったと研究者は考えているようです。

  それでは、この詞書をもとに絵師がどのように絵画化したかを見ていくことにします。
『聖絵』巻二第四段の高野山です。
一遍絵図 高野山伽藍図

  山上の金堂付近の主な建物が、忠実に描いていると研究者は考えているようです。
①左側に、七間五面の入母屋造りで朱塗りの建物が金堂で、正面に一間の向拝が付けられています
②金堂の後の五間四面の建物が潅頂堂、
これも檜皮葺の入母屋造で丹塗の柱や勾欄(こうらん)が映えて美しさを増しています。
③その前の方三間の宝形造りの堂が弘法大師をまつる御影堂
 その前に、架台で囲まれた松が詞書に「狩人の教えに従い④「三鈷の霊験を古松の枝に訪ね」と書かれていた三鈷松のようです。
⑤三鈷松の右の二つの建物は、薬師堂と「?」です。両方とも格子のついた檜皮葺の立派な建物です。
⑥その右が鐘楼
⑦堂舎手前では、桜が幹を左にくねらせ木棒が下から支えています。

ここで気になるのがまたしても「桜」です。
伊予松山を出て、ここまでの行程と桜の関係を見ておきましょう。
①2月8日に松山を発ったときには周囲は枯れ野原でした。
②伊予桜井(今治)を出発する時には、桜が満開です。
③大阪浪速の四天王寺の桜も満開でした
④高野山の山桜がまだ見えます。
つまり、②③④と桜が画面を飾ります。
   一遍は高野山に続き六月初旬に熊野を訪れたと詞書には書かれています。そのため、高野山参詣は5月頃とされます。高野山が山の中で桜の開花が遅いとしても、5月まで山桜の花が残ることは考えられません。高野山の桜は、季節を表すために描かれたのではなく、やはり宗教的・思想的な意味をもった象徴的なものと研究者は考えているようです。
  先の金堂に続く部分です。
DSC03176

金堂の後ろには、高野山のシンボルである大塔が建ちます。
この塔を修理した平清盛が夢のお告げで安芸守に出世したと伝えられます。金銅の相輪・露盤・風鐸などが輝く美しい多宝塔です。多宝塔は真言密教のシンボルタワーとして普及し、四国霊場のお寺さんも競うように、この塔を建てるようになります。
塔の手前前方には、鐘楼がもうひとつ見えます。

一遍絵図 高野山伽藍模写

江戸時代に書かれた模写になります。
その左側は、山また山の深山奥山のたたずまいです。
弘法大師の霊地であることを示しているのでしょう。
そして、この奥に奥の院は描かれています。
DSC03177高野山奥の院

奥院まで続く参道は、縦の構図で描かれています。
参道の両脇に立ち並ぶのは石造の長い卒塔婆のようです。画面手前の小川に橋が架けられています。この川があの世とこの世の結界になるようです。今の「中橋」になるようです。 
世界遺産高野山・奥の院(ガイド案内)めぐり – 京都さくら観光

中橋を渡り参道を登ると広場に抜け、入母屋造りの礼堂に着きますす。
一遍絵図 高野山奥の院2

その奥の柵の向こうに、方三間の方形作りの建物があります。これが弘法大師の生き仏を祀る廟所のようです。周りには石垣や玉垣がめぐらされ、右隅には朱塗りの鎮守の祠が建ちます。廟所の周りにいるのは烏たちです。カラスは死霊の地を象徴する鳥です。

 この絵からは高野山の弘法大師伝説の定着ぶりが確認できます。
しかし、 一遍たちの姿はどこにあるのでしょうか。礼堂の右側の二人の人物でしょうか。高野山は女人禁制なので、超一たちは上がってこれなかったはずです。 一遍だけが参籠したのでしょうか。しかし、高野山の場面のどこを探しても、これが 一遍だと確信を持って指させる人物はいないように思えます。
 
 一遍の死後、高野聖たちの時衆化が急速に進みます。
そして高野聖はすべて、時宗の聖になったとまで云われるようになります。その背景に何があったのかを最後に見ておくことにします。平安時代中期に阿弥陀仏信者たちが、高野山の小田原谷に住んだのが高野聖の祖といわれています。当時は末法思想を背景に、南無阿弥陀仏と唱えることによって西方浄土から阿弥陀が迎えに来て浄土へといざなってくれるとされた時代です。そのような中で、鎌倉初期にやって来た明遍が蓮花谷聖を組織し、高野山と極楽浄土との結びつきを説いて廻るようになります。
 次いで五室(ごむろ)聖、萱堂(かやどう)聖という聖集団が現れ、高野山における聖の勢力はますます大きくなっていきます。こうして、念仏が高野山本来の真言密教を圧倒する勢いになっていったようです。さらに高野山が北条政子を通して鎌倉幕府と密接な繋がりを持つようになると、武家社会の新しい仏教、禅宗も入ってきます。高野山は、寛容に他宗を受け入れたようで、宗派を超えた霊場となっていきます。
  一遍がやってきたのは、この時期のことになります。
一遍の高野山参籠がどのような影響を与えたのかはよく分かりません。しかし、千手院谷で称名念仏を始め念仏化をさらに進めたとされているようです。一遍後も、その教えを受け継ぐ千手院聖(時宗聖)は、その勢力を拡大し、聖集団の時宗化が進みます。こうして、高野聖の時宗化が完成します。

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 そうなると高野聖は、かつての道心と苦行と隠棲をすてるようになります。そして遊行と勧進を中心に賦算と踊念仏で諸国を廻り、高野山の信者を獲得するという方法に活動方針を転換します。
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なぜ高野山の聖集団が時宗化したのでしょうか。
 時宗聖の勧進形態が当時の世の中にマッチしたからと研究者は考えているようです。そのために、他の高野聖が、時宗の勧進方式を採用し、結果として時宗の聖となったというのです。

しかし、これはマイナス面も現れてくるようになります。
念仏踊りが庶民の要求に応えて、娯楽的・芸能的色彩が強くなると俗悪化していきます。高野聖の中にも、信仰を隠れ蓑にして不正な商売をしたり、女性との噂を起こすものも現れ、
「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」

などと世間で言われるようになる始末です。
さらに戦国時代の動乱の中で、今までのようような勧進活動が出来なくなった高野聖の生活は困窮します。そのため商聖化して呉服聖とよばれたり、貼り薬や薬などを売る聖も現れます。

このような中で、高野山では真言密教の「原理主義」運動が起こり、聖の念仏や鉦の音に対して異論を唱えるようになります。その結果、総本山金剛峯寺は高声念仏、踊念仏、鉦叩きなどを禁止します。こうして高野聖は拠点としての高野山から追放される事態になります。

高野聖の廃絶のきっかけとなったのが、信長の高野攻めだとされます。
摂津伊丹城主荒木村重は、織田信長に背き有岡城(伊丹市)に立て篭もり、一族や家来を置き去りにしたまま逃亡しました。信長は裏切り者村重に対する報復に過酷な刑罰で臨みます。女房衆を尼崎にて処刑、召使の女や子供、若衆など500人余を4軒の家に閉じ込めて火をつけ、さらに村重の一族など30余名を洛中引きまわしの後、六条河原で斬首しました。
この時、村重の家臣5名が高野山に逃れ、これを追ってきた信長勢30余人を高野山は皆殺しにしました。これに激怒した信長は畿内近国を勧進していた高野聖千数百人を捕え処刑し、織田信孝を総大将として高野山攻撃を開始します。しかし、その最中に信長は本能寺で明智光秀に討たれ、織田勢は撤退を余儀なくされました。
 江戸期、徳川幕府の命令による真言帰入令で、高野山創建時の空海の教え、真言密教にもどることや聖の定住化が図られ、やがて時宗高野聖は姿を消していきます。
 以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
五来重 高野聖
 一遍上人絵伝 日本の絵巻20 中央公論社

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