瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:高野山の善女龍王図


  江戸時代の讃岐では、次の4つの系統の雨乞信仰が行われていたようです。
①善通寺など真言系寺院での善女龍王信仰
②村々を越えた念仏踊り系の滝宮念仏踊り
③山伏たちによる龍が住むという山や川渕での龍神信仰
④各村々での風流踊(盆踊り)が雨乞い踊りとして踊られる風流踊り系の雨乞い
今回は①の善女龍王の三野郡における拡大過程について見ていきたいと思います。テキストは、 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」です。
2善女龍王 高野山
高野山の善女龍王図

善女(如)龍王については、以前に次のようにまとめておきました。
①空海が神泉苑で、善女龍王に祈雨し雨を降らせたという伝承がつくられた
②その結果、国家的な雨乞いは真言密教が独占し、場所は神泉苑、祈りの対象は善如(女)龍王とされるようになった
③善如龍王の姿は、もともとは小さな蛇とされていた
④それが12世紀半ばになると、高野山では唐風官人の男神として描かれるようになった
⑤醍醐寺が祈雨行事に参入するようになって、新たな祈雨神として清滝権現を創造した。
⑥醍醐寺は、清滝権現を善女龍王と二龍同体として売り出した。
⑦さらに、醍醐寺はふたつの龍王に「変成男子」の竜女も加えて同体視し流布させた
⑧その結果、それまでは男性とされたいた善如(女)龍王も清滝権現も女性化し、女性として描かれるようになった。

善女龍王
女性化した善女龍王

 善如龍王が善女龍王になったのは、醍醐寺の布教戦略があったようです。しかし、高野山では、その後も唐風官人の男神の「善女(如)龍王」が描かれています。こうして、国家による祈雨祈願は真言僧侶が善女龍王に対しておこなうという作法が出来上がります。これを受けて江戸時代になると、各藩主は真言寺院に祈雨祈願を命じることが多くなります。祈祷の際には、善女龍王に祈願するのでその姿を描いた絵図が必要になります。絵図を掲げて、その前で護摩が焚かれたのでしょう。そのため善女龍王信仰を行っていた寺には、その絵図や像が残されていることになります。
善女龍王 本山寺
本山寺の善女龍王像
国宝本堂を持つ本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像が伝わっています。  見て分かるのは女神ではなく男神です。先ほどお話したように、善女龍王の姿は歴史の中で次のように変遷します。
①小蛇
②唐服官人の男神          (高野山系)
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系)
  ②の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ここにあるのは木像で3Dなのです。木像善女龍王像は、全国でも非常に珍しいもののようです。
5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善女龍王像
 本山寺の善女龍王像を見ておきましょう。
①腰をひねり、唐服の両袖をひるがえして動きがある
②悟空のように飛雲(きんとんうん)に、乗っている。
③向かって左に、龍の尻尾が見える。
  この彫像は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元年1145)が描いたとされる善女龍王とよく似ているように見えます。
  研究者はこの善女龍王像を次のように評価しています。
 像容は、桧の寄木造であり眼は玉眼がん入である。光背は三方火焔付き輪光で、台座は、須弥座の上に岩座及び雲座を重ねてある。顔は青く長いひげをつけ、爪の長い左手には宝珠を持つ。服装の表面は全面に装飾があり、緑青・金泥で描かれた文様などによく彩色が残っている。
上に乗る本像の形姿は動勢が巧みに表現され、また載金、金泥盛上手法などを交えた入念な彩色などに小像ながら当代の彫像としては佳品として評価できる。像高47.5センチで製作年代については南北朝時代と思われる。
  研究者は14世紀の南北朝時代のものとします。そこまで遡れるのでしょうか。
善女龍王安置 本山寺鎮守堂
本山寺鎮守社
この善女龍王像が安置されていたのが鎮守堂です。
昭和の解体修理で、棟木・肘木から「天文十二年」 「天文十六年」の墨書がでてきました。ここからは、鎮守社が1543(天文十二年)年着手、1547(天文十六年)年の建立であることが明らかになりました。解体前は江戸時代のものとされていたのですが、室町時代末期の当初材を残す中世以来の伝統様式を踏まえた建築物なのです。その後、大修理が1714(正徳四年)年に実施きれたようです。
 香川県内の国・県指定の木造建造物は46棟あるそうですが、この守堂は9番目に古いことになります。善女龍王像は、この建物にずっと安置されてきたようです。
 とすると、善通寺で善女龍王が勧進されて雨乞祈願が行われるのは17世紀後半のことですから、それ以前に本山寺では善女龍王信仰がてあったことになります。私は善女龍王信仰の流れとして、高野山から善通寺に真言僧侶によって持ち込まれ、善通寺を拠点に三豊の本山寺や威徳院に広がったと考えていたのですが、そうではないことになります。善通寺以前に、本山寺には南北朝時代に善女龍王が勧進されていたのです。
善女龍王 威徳院
威徳院(三豊市高瀬町下勝間)にも、紙本著色善女龍王画幅が伝来しています。
これも男神の善女龍王です。威徳院と本山寺は、何人もの住職が兼帯したり転住・隠居して、深いつながりがありました。  室町時代末期には、本山寺では善女龍王に雨を祈る修法が行われていたことは見てきましたが、それが住職の兼帯などを通じて、威徳院へと広がったことが推察できます。
 文化十三(1816)年成立の「讃州三野郡上勝間村山王権現社並所々構社遷宮社職書上帳」には、下勝間村の威徳院の上の三野氏の居城跡とされる城山には、石製の善女龍三社が祀られていて、

「雨乞之節仮屋相営祈雨法執行仕候」

と記されています。祈雨祈願の際には、ここに仮屋が建てられて雨乞いが行われていたことが分かります。勝間地区には威徳院によって善女龍王社が勧請され、その周囲にも信仰が広まっていたようです。
   岩瀬池に善女龍王伝説が付け加えられたりするのも、威徳院周辺に善女龍王信仰の広がりを物語るものなのでしょう。
威徳院の末寺である地蔵寺には、善女龍王の勧進記録があります。そこには、次のように記されています。
善女龍王勧進記 地蔵院
善女龍王勧請記 (文化7(1810年 地蔵寺)
善女龍王勧請記                                       
当国上勝間村地蔵寺主智秀阿遮梨耶一日与村民相議而日、財田郷上之村善女龍王者中之村伊舎那院之所司而当国中之擁護神也、霊験異他而古今祈雨効験掲焉、如響應音焉、幸八山頂有龍神勧請の古跡願於此所建小社勧請、潤道龍王以為此村鎮護恒致渇仰永蒙炎早消除五穀成就之利益実、諸人歓喜一同来告如是、予日善哉此事也遂不日如誓焉、記以胎之後世云維文化七年庚午林鐘十八日
中之村伊舎那院  現住法印宥伝欽記
上勝間村地蔵寺現住 智秀
同庄屋 安藤彦四郎
同組頭 弥兵衛
                        願主         惣氏子中
        別当         地蔵寺
意訳変換しておくと
①上勝間村の地蔵寺住職の智秀が村民と相談し、②財田郷上之村の善女龍王を勧進した。善女龍王は、財田中之村にある③伊舎那院の管理するものであるが、霊験があらたかで、特に④祈雨祈願にすぐれた力があることが知られている。すでに⑤龍神が勧進されていた八つ山山頂に小社を建てて勧請した。⑥潤(渓)道龍王(善女龍王)は、渇水や熱射からこの村を鎮護し、五穀成就の利益と人々に歓喜をもたらすであろう。

ここからは、次のようなことが分かります。
①地蔵寺住職が文化七年(1810)に②財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したこと。
③これは伊舎那院管理下のもので、④祈雨祈願に効力があること
⑤それ以前に上勝間では八つ山に竜神の小社が建立されていたこと
⑥その上に⑥渓道龍王を勧進してパワーアップを図ったこと
 威徳院に関係する寺院や末寺では、本寺に習って善女龍王の勧進が進められていたようです。同時に、財田の伊舎那院管理下の渓道龍王が祈雨祈願に効力があると近隣の村ではされていたことがうかがえます。

渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王

 この「勧請記」には、八ツ山は龍神勧請之古跡だったと記されています。
善女龍王 般若心経 地蔵院
 この勧進に先立つ40年前の地蔵寺「摩訂般若波羅蜜多心経」(明和八(1771)年は、般若心経一字一字に「雨」冠をつけ、善女龍王諸大龍王に雨と五穀豊穣を祈った願文です。この願文からは、澗(渓)道龍王の勧請以前に、八ツ山には龍神が勧請されていたことがうかがえます。

善女龍王 地蔵院
地蔵寺には像高19㎝の小さな木造「善女龍王像」が伝来しています。これも男神の善女龍王像で、飛雲の台座に立つ像です。両手先・右足先・尾が欠損しています。顎髭をたくわえ、やや笑みを浮かべた柔和な面相をしています。像は唐服をまとい、その両腕の肘あたりに広がるフリル様の表現が本山寺のものと似ているような気もします。ところがこの善女龍王像の特徴は、左腰に刀を差しているのです。これは初めて見ましょう。この像が文化年間に財田から勧請された時に造られ、八ツ山の社に安置されていたものかもしれません。

  本山寺・威徳院・地蔵院に伝わる善女龍王についてまとめておきます。
1 本山寺の善女龍王は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元1145)によく似て、高野山の影響を受けた早い時期のものである。
2 本山寺周辺では室町時代末期には、善女龍王信仰が村われていた
3 威徳院には、紙本著色善女龍王画幅がある。
4 威徳院と本山寺は、住職が転住(隠居)または兼帯し、深い関係にあった。そのため本山寺から善女龍王信仰は伝わってきたと考えられる。
5 威徳院周辺には善女龍王を祀った祠もあり、19世紀初頭には高瀬地区で善女龍王信仰が広がっていた
6 威徳院の末寺(隠居寺)である地蔵院は、善女龍王を勧進した記録があり、小さな木像も伝わる。
7 この木像は、佩刀している善女龍王像で全国的にも例がない。高瀬地方での「地方的変容」を遂げた像でる。
以上からは、三野郡の善女龍王信仰は南北朝時代に本山寺で始まり、それが本末関係を通じて威徳院や地蔵院に広がっていたことが考えられる。ここからは善女龍王の招来ルートは、善通寺を通すことなく高野山から本山寺に直接的に伝来したことがうかがえます。その間には、独自のルートがあり、高野聖などの廻国聖の動きが考えられます。
5善通寺22

 善女龍王信仰は土着的な雨乞祈願にも影響を与え、「善女龍王」の幟を立てて、風流踊りを雨乞いとして踊る村も出てきます。
それが大水上神社(二宮神社)に奉納されていた雨乞い踊りの「エシマ踊り」です。これは那珂郡佐文へ麻地区を経由して伝わります。佐文に伝わる綾子踊りに、善女龍王の幟が立てられるのは、このような経緯があるようです。
イメージ 11
綾子踊りに立てられる善女龍王の幟(まんのう町佐文賀茂神社)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」

2善女龍王4
もともとの善女(如)龍王(唐服姿の男性像)
 雨乞の竜として最も有名なのは、善如竜王です。無形文化財の讃岐の綾子踊り奉納の際にも「善女龍王」の幟を持った参加したことが何度かあります。しかし、その頃は「善女龍王」がいったい何者で、どんな姿をしているのかも知りませんでした。
 善通寺の境内を歩いていて善女龍王を祀る祠と池がある事に気付いてから、これが空海の祈雨祈願と密接に関係する神であることを知りました。そのことに付いては、以前にお話ししました。

2善女龍王 神泉苑2g
京都の神泉苑
善如竜王は、空海が天長元年(824)に京都の神泉苑で祈雨を行った際に現れ、雨を降らせたとされ「空海請雨伝承」として伝わっています。
神泉苑-京都市 中京区にある平安遷都と同時期に造営された禁苑が起源 ...

 この話については、どうも後の「創作」と考える研究者の方が多いようです。その「創作話」が空海伝説とともに発展していきます。
 この話の中に登場する善如竜王が果たした役割としては、次の二点があります。
①善如竜王が棲む神泉苑が祈雨を行うのに最もふさわしい場所である
②空海が勧請した竜であることから、真言宗が神泉苑での祈雨に最も深く関わるべきである
 この話を聞くと、以上のふたつが自然に納得できるのです。そういう意味でも善如竜王は空海請雨伝承において、重要な役割を果たしています。

2善女龍王2

 それでは、善女龍王とはどんな姿をしているのでしょうか?
分からなけば辞書をひけという教えに従って、密教学会編『密教大辞典』(法蔵館、1983年)で「善如竜王」を調べてみると、次のようにあります。
[形像]御遺告には、彼現形業宛如金色、長八寸許蛇、此金色蛇居在長九尺許蛇之頂也と説けども、世に善如竜王として流布せるものは女形にして、金色の小蛇を戴き宝珠を持てり。

とあり、『御遺告』には蛇の姿で表されているが、世に流布しているものは女形であると記されています。グーグルで「善女龍王」を画像検索すると、女性の姿で描かれているのが殆どです。ところが男性形のものも少数出てきます。

2善女龍王 神泉苑g
空海の神泉祈祷で現れた善女龍王(蛇の姿)

 例えば、高野山に残されている平安時代後期作の善如竜王の図は、唐風の礼服姿の男神像です。ここからは善如竜王は次の3つの姿があるようです
①へび
②男性の唐風官人
③女性の龍女
いったい、どうして3つに描き分けられるのでしょうか。権現のように姿を変えるのでしょうか。そこがよく分かっていませんでした。今回は、そこを探ってみます。

 空海の伝記類の中で初めて善如竜王が登場するのは『御遺告』のようです。
 (前略)従爾以降。帝経四朝 奉為国家 建壇修法五十一箇度。亦神泉薗池辺。御願修法祈雨霊験其明。上従殿上下至四元 此池有竜王善如 元是無熱達池竜王類。有慈為人不至害心 以何知之。御修法之比託人示之。即敬真言奥旨従池中 現形之時悉地成就。彼現形業宛如金色 長八寸許蛇。此金色蛇居二在長九尺許蛇之頂也。(後略)

 ここには次の事が記されています。
①祈雨祈願場所として神泉薗が聖地であること
②そこに住む善女龍王の姿は「八寸ばかりの金色の蛇で九尺ばかりの蛇の頭の上に乗っている」
ここで押さえておきたいのは、善女龍王に人間の姿ではなく蛇で、男神・女神という表現もないことです。つまり蛇なのです。
 この『御遺告』の記述が、その後の空海の伝記類にも受け継がれていきます。平安時代から江戸時代にかけて成立した数多くの伝記類のほとんどは、善如竜王の姿を『御遺告』の記述のままに受け継ぎます。『御遺告』が空海の遺言として信じられてきた所以でしょう。ここでは、伝記類には善如竜王は、蛇の姿として描かれていることを押さえておきます。
12世紀半ば頃に、善如龍王を男性として描いた絵図が現れます。


2善女龍王 高野山
高野山の善女龍王図 

これは高野山にある絵図で『弘法大師と密教美術』には、次のように解説されています。
冠をいただき唐服を着けた王族風の男性が、湧き上がる雲に乗る姿を描く。左手には火焔宝珠を載せた皿を持つ。その裾を見るとわずかに龍尾がのぞいており、空海と縁の深い善女竜王であると判明する。善女竜王図は、天長元年(824)空海が神泉苑において雨乞いの修法(ずほう)を行った際に愛宕山に現れたと伝わる。『高野山文書』の古い裏書によれば、本図は久安元年(1145)に三井寺の画僧定智によって描かれたことがわかる。
 
ここからは、12世紀の半ば頃には、高野山では善女龍王を男神として描くようになっていたことが分かります。これは、雨を降らせる龍神(蛇)が権化し、人間に似た神として描かれるという変身・進化で真言密教の修験道僧侶の特異とするところです。この絵を掲げながら祈雨が行われたのかもしれません。
 この高野山の善女龍王の模写版が醍醐寺に2つあるようです。

2善女龍王 醍醐寺2
 
これが建仁元年(1201)の模写版です。
2善女龍王 醍醐寺22

上のもうひとつは、さらに模写し着色したものです。
50年前に絵仏師定智が描いた高野山の「善女竜王図」と細かい所まで一致します。ここからは、次のような事が分かります。
①それまで蛇とされていた善女龍王が12世紀中頃には、唐の官僚姿で描かれるようになった。
②醍醐寺は、高野山のものを模写したものを、無色版と着色版の2つ持っていた
どうやら醍醐寺でも祈雨祈願が行われるようになっていたようです。 
2 清滝権現
善如竜王と密接な関係にあるのが、醍醐寺の清滝権現です。
『密教大辞典』の「清滝権現」には、次のようにあります。
 娑掲羅竜王の第三女善如竜王なり。密教に如意輪観音の化身として尊崇す。印度無熱池に住し密教の守護神たり。唐長安城青竜寺に勧請して鎮守とす、故に青竜と号せり。弘法大師帰朝の際これを洛西髙尾山麓に勧請す。海波を凌ぎて来朝せることを顕して水扁を加え清滝と改む。山麓の川を清滝川と名け地名を清滝と称するはこれに由る。(中略)
 其後聖宝尊師高雄より醍醐山に移す。故に小野醍醐の法流を汲む寺院には多く清滝権現を祀る。又醍醐山にては西谷に鎖座せしが、三宝院勝覚寛治二年山上山下に分祀す。(後略)

 最初に「娑掲羅竜王の第三女善如竜王なり」とあり、清滝権現は娑掲羅竜王の第三女であって、善如竜王と同体であるとされます。善如竜王と清滝権現は、「二竜同体」ということになるようです。長安の青竜寺の守護神であった青龍を空海が連れ帰り、高尾山に清滝と改名し勧進します。その後、醍醐山に移されたとあります。
ここで確認したいのは「善如龍王=清滝権現」ということです
 清滝権現の図像には四種類あり、その一つに先ほど見た高野山にある定智本善如竜王像、つまり唐風の礼服姿の男神像が示されます。つまり、善如竜王と清滝権現は図像の上でも同じ姿をとる「二竜同体」のようです。両者の関係は非常に密接であるとされていたことが分かります。
 しかし、このふたつの龍神の成立当初の伝承には、両者の関係は全く説かれていません。
 善如竜王の登場は、『御遺告』からです。その記事の中に清滝権現に関係するようなことは、一切書かれていません。
 
下醍醐の清瀧宮 - 京都市、醍醐寺 清滝宮の写真 - トリップアドバイザー
上醍醐 清滝宮
 
清滝権現は、『醍醐雑事記』によると寛治三年(1089)に勝覚によって上醍醐の地に清滝宮が建立されたとあります。11世紀末の登場です。『醍醐雑事記』の清滝権現に関係する記事の中にも、善如竜王との関係は一切記されていません。
 このように、二竜の成立当初の伝承では、両者の関係は全く見られず、無関係の関係だったようです。それぞれ別個の竜として存在していたようです。それが、いつの間にか『密教大辞典』の記事のように、「二竜同体」となったようです。
 
善女龍王 変化

なぜ善女龍王と清滝権現は一体化したのでしょうか
 善如竜王と清滝権現の同体視は、祈雨を通して行われたと研究者は考えているようです。雨乞祈雨を接点として両者が次第に接近し一体化したというのです。そこには、醍醐寺の祈雨戦略があったようです。
  醍醐寺が祈雨に関して「新規参入」を果たそうとします。しかし、当時の国家的な祈雨の舞台は空海が祈雨し、善女龍王が住む神泉苑が聖地でした。やすやすと醍醐寺が入り込む余地はありません。そこで醍醐寺は、次のような祈雨戦略活動を展開します。
①神泉苑から醍醐寺の清滝宮への祈雨場所の移動 
②善女龍王に変わる祈雨神の創造
この戦略を、どのように実行していったのかを見てみましょう。
醍醐寺で行われた祈雨を表にしたの下の図です。
2善女龍王 醍醐寺の祈雨g
これによると、醍醐寺での祈雨が初めて行われるのは寛治三年(1089)のことです。それまでは、空海が祈雨を行った聖地・神泉苑で行われていました。ところが院政期以降に、醍醐寺での祈雨の記事が見られるようになります。これは何を意味するのでしょうか?
  研究者は、醍醐寺が祈雨に「参入」しようとしているのではないかと指摘します。
醍醐寺での祈雨は、初め釈迦堂において行われています。それが大治5年(1130年)に、清滝権現を祀る清滝宮で行われるようになります。そして、それが主流となって定着していきます。
 その当時は、神泉苑が祈雨の聖地とされていましたから、そこへ醍醐寺が参入することは難しかったはずです。そういう中で、醍醐寺が独自性を主張していくためには、善女龍王に変わる新たなアイテムが必要でした。そこで新たに作り出された雨乞神が清滝権現だったのではないかというのです。しかし、まったく馴染みのない神では人々は頼りにせず不安がります。そこで、真言密教お得意の「権化」の手法が使われます。つまり、清滝権現は善女龍王の権化で、もともとは一体であるという手法です。こうして清滝権現は醍醐寺の新たな祈雨の神として、成長をしていくことになります。その成長を促すためには「清滝権現=善如竜王」の二龍同体説が醍醐寺にとっては必要だったと研究者は考えているようです。
 この二龍同体説の醍醐寺が創造したという裏付け史料は、例えば『醍醐寺縁起』の中の清滝権現に関わる部分を研究者は指摘します。
『縁起』では、清滝権現を醍醐寺の本尊である准肌如意輪の化身とします。そして、醍醐寺を開いた聖宝の前に現れた最も重要な神として位置づけらます。しかし、この『縁起』の内容をそのまま史実として受け入れることはできないようです。その理由の一つとして、空海の帰朝の際に、青龍が唐の青竜寺からやって来たという伝承があります。しかし、これは空海の多くの伝記類には見られないものです。醍醐寺においてのみ唱えられた伝承のようです。空海が伝記の中でもっとも強く結びついている竜は善如竜王です。清滝権現の名前は、伝記にはありません。
 清滝権現を紹介する際に、よくこの『縁起』の内容が語られますが、これは後世に付け加えられた話と研究者は考えているようです。
2善女龍王男性山
善如竜王
 そして、もうひとつ重要なことは、この時点では清滝権現と善如竜王の両龍神たちは男神だったようです。先ほど見た醍醐にに残る善女龍王絵図を思い出して欲しいのですが、これは高野山のものを模写した男神姿でした。つまり、この時点では醍醐寺では、唐風の官僚姿の善女龍王を祀っていたのです。そして善龍王と表記されていたのです。
2「善」から「善女」へ
書物に登場してくる善女龍王の表記を見てみると下表のようになります。
2善女龍王の表記1
この表を見ると、平安時代末期までは、「善女」ではなく「善如」と表記されていたことが分かります。12世紀半ばの『弘法大師御伝』以後に、「善女」の表記が主流となっています。「善如」から「善女」へ変化したようです。最初は「善如」と呼ばれていたのです。
 どうして、「善如」から「善女」へ変わったのでしょうか
 その理由は、清滝権現がサーガラ竜王の三女とされることからきているようです。彼女は「竜女」とも呼ばれ『法華経』の「提婆達多品十二」に登場する竜女成仏譚で有名な竜女です。それまでの仏教界では、女性は五障の身であるために成仏できないとされてきました。そころが竜女は「変成男子=男子に変身」することによって成仏を遂げます。仏教に心を寄せた女性たちにとっては、この『法華経』の竜女成仏譚は、救いの道を示す大きな意味を持つ存在だったようです。平安時代末期の『梁塵秘抄』には。
  竜女も仏になりにけり、などかわれらもならざらん
と詠まれています。それほど竜女成仏譚が広く一般に広がっていたことが分かります。そのような中で、醍醐寺の密教僧侶たちは、竜女も善如竜王と清滝権現と権化関係の中に入れて同一視する布教戦略をとるようになったと研究者は考えます。
  善女龍王=清滝権現=竜女です。
そして最後に、権化した竜女は女性です。そうなると、三位一体同心説の元では、清滝権現も、善女龍王も女性であるということに自然となっていきます。それを醍醐寺は広めるようになっていきます。
以上をまとめておくと
①空海が神泉苑で善女龍王に祈雨し雨を降らせたという伝承がつくられた
②その結果、国家的な雨乞いは、真言密教が独占し、場所は神泉苑、祈りの対象は善如(女)龍王とされるようになった
③善如龍王は、もともとは小さな蛇とされていた
④それが12世紀半ばになると、唐風官人の男神として描かれるようになった
⑤さらに醍醐寺が祈雨行事に参入するようになって、祈雨場所を醍醐寺でも行うと同時に、新たな祈雨神として、清滝権現を創造した。
⑦醍醐寺は、清滝権現を善女龍王と二龍同体として売り出した。
⑧さらに、醍醐寺はふたつの龍王に「変成男子」の竜女も加えて同体視し、流布させた
⑥その結果、竜女が女性であるので、それまでは男性とされたいた善女龍王も清滝権現も女性化し、女性として描かれるようになった。

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