瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:高野山奥の院

空海火葬説
            空海=火葬説
前回は史料からは、空海やその師の恵果が火葬されていることが読み取れることを見てきました。今回は空海が、どこに埋葬されたかについて見ていくことにします。

   空海には今なお生き続けているという入定留身信仰があります。
入定とは禅定(瞑想)に入ることで、空海は入滅(逝去)したのではなく入定しているというのが真言教団の立場です。例えば、次のようなエピソードが語られてきました。

 内閣総理大臣を務めた近衛文麿が、空海の廟所である高野山奥之院に参拝した時のこと。近代真言宗の高僧と呼ばれた金山穆韶師に案内され、「空海は永久に入定したまま、今もなお衆生済度のために尽力している」との説明を受けたのですが、近衛は一笑に付しました。その夕べ、金山師が近衛を訪ね、さらに入定の由縁をじゅんじゅんと説いたところ、近衛は従者にこう話したそうです。「ともかくよくわからないが、老師の努力と信念には感心した」。(「沙門空海」 渡辺照宏・宮坂宥勝著)

これが宗門および大師信者の弘法大師に対する信仰を代弁したものと云えそうです。
  そのため戦前の歴史学者・喜旧貞吉の「空海=火葬説」に対して、真言宗内から多くの反論が出されました。以後、これに正面から答えようという動きはなくタブーとされていた観があります。それが21世紀になってやっと「真言宗内には入定信仰が定着しているが、空海がどのような最期を迎えたかをはっきりさせておくことは、空海の末徒として必要」と考える書物が出されます。それが「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房」です。これをテキストにして、今回は空海がどこに埋葬されたのかを見ていくことにします。

「―遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた高野山奥の院
一遍絵図の高野山奥の院
空海の廟所については、一般的に次のように云われています。
弘法大師御廟は奥之院の最も奥に位置する三間四面、檜皮葺、宝形造の建物で、一般には御廟と呼ばれている。御手印縁起付載絵図には「奥院入定廟所」と記され、廟堂(宇治関白高野山御参詣記)、高野廟堂(白河上皇高野御幸記)、高野霊廟(鳥羽上皇高野御幸記)とも記される。
空海は承和元年(834年)9月に自ら廟所を定めたといわれ、翌年3月21日寅の刻に没した。七七日(四十九日)を経て、弟子(実恵、眞雅、真如親王、眞濟、眞紹、眞然)によって定窟に奉安され、その上に五輪卒塔婆を建てて種々の梵本陀羅尼を入れ、その上に宝塔を建てて仏舎利を安置した。廟の造営にはもっぱら眞然大徳が当たった。

弘法大師空海-生涯と奥の院の秘密 | やすらか庵
                弘法大師御廟
それでは「奥の院」の廟所の存在が確認できるのは、いつからなのでしょうか。 
言い換えると、いつまで奥の院は遡ることができるかを見ておきましょう。確認できる確実な史料として、研究者が挙げるのが天永4年(1113)5月3日の日付をもつ比丘尼法薬の埋経です。この埋経は1964年の秋・開創1150年の年に、御廟周辺整備の時に出土したものです。そにには次のような語句が出てきます。
斯の経巻をもって高野の霊窟に埋め、云々
② 弥勒慈尊出性の時を期せんが為に、殊に弘法大師入定の地を占す、まくのみ。
③ 仰ぎ願わくは、慈尊兼ねて斯の願を憐憫し、伏して請うらくは、大師常に斯の経を護持し、必ず其れ三会の座席に接せんことを。
ここには「高野の霊窟」「弥勒慈惇出世の時」「弘法大師入定の地」「三会の座席」などの言葉が出てきます。これらは入定留身する大師や奥の院の御廟を意識していることが分かります。出土地が御廟のすぐ横ということからも、平安末の天永4年(1113)には、御廟が現在地にあったことが裏付けられます。
次に奥の院の存在を示すのが「御入定所」と記した「高野山図」です。   211P

高野山図 平安時代
              高野山図
高野山図2
          高野山図 江戸時代の複写

「高野山図」が、いつ成立したものなかのか押さえておきます。
①奥の院入定所が描かれているので、弘法大師御入定説成立以前ではない。
②奥の院御廟の左の丹生・高野両社は、天暦6年(952)6月に奥院廟塔が類焼
③翌7月に執行職に就いた雅真が、翌天暦7年(953)夏に奥院御廟を再興したもの(「検校帳」)
④同時に、それまで御廟橋の近くにあつた丹生・高野両社を御廟の左に移築した(『高野春秋』)ものなので、それ以後のもの
⑤絵図の下石の垣荘は、天慶9年(946)に石垣荘上下二荘に分割して以来のこと(正智院文書)
⑥東搭は天治元年(1124)10月、鳥羽上皇の高野参詣の際に完成したものなので、東搭が描かれているので、絵図の成立をそれ以前に比定することはできない。
以上からは比丘尼法薬の埋経からは、12世紀はじめには御廟はいまの奥の院に存在していたことが裏付けられます。しかし、それ以前に御廟がどこにあったかは分かりません。確かな史料がないのです。
そこで研究者が注目するのは「高野山七廟説」です。

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『紀伊続風土記』の「高野山之部」巻之十の「奥院之五 附録」には、次のように記されています。

①慶安三年(1650)頃初て七廟の名を載て、奥の院(廟所)・高野山とも、是は日本国中の大師の廟門七ヶ所あることにて、当山に七廟ある説にあらず。(中略)

②寛文の頃(1661~73)、或記に初て当山七廟の名を載て、奥の院(今の助所)・高野山)姑耶也)・遍照岡・正塔岡・大塔・御影堂・弥勒石といふ此説ありてより、好事のもの雷同して終に巷談口碑せり。             (『紀伊続風土記』四 189P)

①からは、近世になるまで七廟はなかったこと、②からは17世紀後半になって「七廟」という表現が用いられ始めたことが分かります。ここでは「七廟」というのは、近世以後の表現であることを押さえておきます。
そして「紀伊続風土記」の「高野山之部」の著者道猷も、いまの奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと次のように記します。
是らに因り猶大師の墓所を考ふるに、今山上にて七廟の説を伝ふ。其実は大師の葬処造にかくと定めかたし。或いはここならんといひし所七ケ所ありし中、今の奥院の処と定まりしとなん。然れともし廟の説によりて考ふれば、南谷宝積院の地こそ葬庭ならんかといふ。因りて書して後の考に備ふ。
意訳変換しておくと
①今日、高野山には七廟説が伝わっていて、大師の墓所はここで間違いないと言えるところはない。
②ここだあそこだと言ってきた七廟説のなかで、今の奥の院に落ち着いてきた。
③しかしながらいま一度、七つの候補地を検討すると、大師の廟所としては、市谷の宝積院の地が最も相応しいといえる。
④後世のために、あえて記しておく。        (『続真言宗全書』三六  23P)

とあって、最も有力な候補地として③の「南谷の宝積院の地」としています。さらに、割注でその根拠を次のように挙げています。(要約簡条書)
①今の高野山は、弘法大師の時代にくらべると、百倍も開かれているといえよう。
②奥の院の地は、今日でも中心部からは遠く、幽奥僻遠の地といった感じを強くうける。
③大師在世の時代にあっては、このように幽奥僻遠の地を選ぶ理由などなかったはずである。
④南谷宝積院の地は、大師が生活していた寺の向いで、遍照岡と呼ばれていた。
⑤また宝積院は、ふるくは阿逸多院といい、阿逸多坊とも呼ばれた。
⑥遍照は大師の号であり、阿逸多は弥勒菩薩の梵語である。
⑦この寺名は、大師が入定されたことに由来するとすれば、ここが大師の墓所であったと考えるのが自然である。
⑧宝積院を再建したときの記録には、次のように記されている。
境内を掘つたところ、奇怪な響きがした。寺主は不思議に想つて、さらに深く掘ったところ、五、六尺のところから一つの石函が出てきた。その一辺は一丈ばかりであった。恐れをなして、もとのように埋めてしまった、という。
⑨この記録は、この地が大師の墓所であったことの根拠といえるのではないか。
⑩ただし、今の奥の院が古くから大師の廟堂とされているので、このことは異聞としておく。

以上から道猷は「空海奥の院入所説」に対して、次の3つの根拠を挙げて疑義を表明します。
A ①②③で、開創当時の高野山を考えたとき、奥の院は伽藍建立の地である壇上から遠いこと
B ④⑤⑥⑦で、南谷宝積院の地は遍照岡ともいい、古くはは阿逸多院・阿逸多坊ともいい、大師および弥勒苦薩との関係ががえること。
C ⑧には宝積院を再営したときの記録に、境内から石函が掘り出されたこと

弘法大師が入定した約1300年前の高野山を取り巻く地形を「地形復元」してみると、山上は原生林におおわれていたことが想像できます。奥の院は最初に開かれた壇上伽藍から4㎞東の原始林の中です。そこにいろいろなものを運ぶとなると、多くの困難を伴ったことが想像できます。

高野山建設2
高野山開山 (高野空海行状図画) 原始林を切り開いての建築作業で宝剣出土

しかも、当時の高野山は伽藍の堂搭も、まだほとんどは姿を見せていない「開拓地」状態です。
その際に、参考になるのが高野山第2世の真然が、どこに、どのように葬られたかです。

真然大徳廟

  真然の入滅については「高野春秋編年曹録』巻第3 寛平3年(891)の条に次のように記します。

秋九月十一日。長者真然僧正、愛染王の三摩地に住し、病無く奄然として中院において遷化す。門人、院の東方の原野に賓斂す(中略) 寿八十九   (『大日本仏教全書」131 36P)

意訳変換しておくと

秋9月11日、真然は中院(現・龍光院)の愛染王の三摩地にて、病にかかることもなく忽然と亡くなった。弟子たちは中院の東方の原野に埋葬した。齢89歳であった

ここには「院の東方の原野に埋葬」とあります。大師から50年後の真然の場合でも墓所は、いまの金剛峯寺の裏山です。
空海の甥で十大弟子の一人である智泉(ちせん)の場合を見ておきましょう。

智泉大徳 2月14日は常楽会の日として知られますが本日は智泉大徳のご命日でもあります。 また、本年は1200年目の御遠忌でもあり  智泉大徳は平安時代前期の真言宗の僧で母は弘法大師の姉と伝えられ弘法大師の甥にあたり十大弟子の一人でもあります。若くして病に倒れた甥 ...
                  知泉大徳廟 
彼も讃岐出身で、母は空海(弘法大師)の姉で阿刀氏出身と伝えられます。空海が若くして惜しまれつつ亡くなった智泉の供養のため書いた「亡弟子智泉が為の達嚫文」が『性霊集』巻八にあります。知泉は、天長2年(825)に高野山で入滅ししますが、その墓所については次のように記されています。
蓋し大師在世の日には、智泉大徳、此地に一字の僧房を営んで正住し給ふ故に、当院封内羊申の角に、師の墓所あり。此地、東塔の東にして、南は蛇原を限り、東に大乗院あり
                   (『紀伊続風土記』四  375P)
ここからは空海よりも10年前に亡くなった智泉の墓所も、伽藍東塔の東どなりに作られたことが分かります。こうして見ると高野山の開山途上にある時点で、空海の墓所が遠く離れた奥の院の原始林を拓いて作られたという話には疑義があると研究者は判断します。

以上を整理・要約しておきます。
①「空海は永久に入定したまま、奥の院で今もなお衆生済度のために尽力している」という入定留身信仰がある。
②奥の院の御廟の存在を確かな史料で確認できるのは、12世紀初め以後になる。
③17世紀後半になって「高野山七廟説」が説かれ始めるようになる。
道猷は、奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと記し、最も有力な候補地として「南谷の宝積院の地」を挙げる。
⑤空海の十代弟子であった知泉や、高野山2世も東塔周辺に埋葬されている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 210P」


大師は高野山の奥の院に生身をとどめ、つぎの仏陀である弥勒菩薩がこの世にあらわれでられるまでの間、すっとわれわれを見守り救済しつづけているという信仰があります。これを「弘法大師の入定留身」と呼ぶようです。この信仰が生まれる契機となったのは、大師への大師号下賜だったとされてきました。それは次のような話です。

  空海は、承和2年(835)年3月21日に入滅した。その86年後の延喜21年(921)年10月27日に、「弘法大師」の諡号が峨醐天皇から下賜されることになった。その報告のため、奥の院に参詣した観賢は、人定留身されている空海の姿を拝見し、その髪を剃り、醍醐天皇から賜わつた御衣を着せて差し上げた。

 26御衣替
奥の院に参詣した観賢が、人定留身の空海と出会う場面

今回はこの「入定留身」伝説を、高野空海行状図画で見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房192P」です。

今生での別れのときが近いことを悟った空海は、承和元年(834)5月、弟子たちを集めます。
そして「僧団のあるべき姿と日々の仏道修行のあり方を、また高野山を真然に付嘱すること」を遺言したとされます。その場面が「門徒雅訓」です。

第九巻‐第2場面 門徒雅訓 高野空海行状図画


門徒雅訓 江戸時代の天保5年(1834)に模写
           門徒雅訓 高野空海行状図画(トーハク模写版)

 この絵図版は、狩野〈晴川院〉養信ほかが、天保5年(1834)に模写したもで、トーハク所蔵でデジタルアーカイブからも見ることができます。原本は、鎌倉時代・14世紀に描かれたもののようです。
 中央の椅子にすわりこちらにむかってっているのが空海です。そして弟子たちがその廻りに座っています。しかし、空海の顔が見えませんし、弟子たちは七人しか描かれていません。

門徒雅訓 高野空海行状図画 親王本
    門徒雅訓 高野空海行状図画(親王版) 十大弟子に遺言する空海
一方、こちらは十大弟子とされる「真済・真雅・実恵・道雄・円明・真如・杲隣・泰範・智泉・忠延」が、空海ののまわりを取り囲んでいます。今の私にはこの絵の中に、誰がどこに描かれているのかは分かりません。悪しからず。
 空海が高野山を開いた当時は、奈良の「南都六宗」の力が巨大で、生まれたばかりの真言宗は弱小の新興勢力でしかありません。そのために空海はブレーンを集めるのに苦労したようです。そこで頼ったの「血縁と地縁」です。実恵は空海の佐伯直本家出身、真雅は空海の弟、智泉と真然は甥、とされます。空海と同じ讃岐の出身者の割合が高いのです。初期の真言集団が、讃岐出身者で固められていたことをここでは押さえておきます。
 祖師に仕える十人の弟子の絵は、何を表しているのでしょうか?
 
これを深読みすると、当時の真言宗の階層性社会が見えてくると研究者は考えています。別の視点から見ると、高野山の伽藍の堂宇は彼らによって造営されたものです。人物は高野山の伽藍を象徴しているとします。僧侶の肖像画は、教団と伽藍を示す暗喩でもあると云うのです。
 また地蔵院流道教方の歴代僧侶画像には「真雅・源仁・聖宝・観賢・淳祐・元杲・仁海・成尊・義範・勝覚・定海・元海・実運・勝賢・成賢・道教」が描かれています。密教では師から弟子へと教えを引き継ぐ儀式を灌頂といい、頭の上(頂)から水を注(灌)ぐように、師の知識や経験、記憶は弟子へと受け継がれていきます。その際には、教えを受け継いできた歴代僧名を記した系譜「血脈(けちみゃく)」が与えられます。そういう意味では、この歴代僧侶画像は「血脈を絵画化」したものと研究者は考えています。
 歴代先師の肖像は、僧侶が受け継いだ教義の道程を示すものであり、僧侶自身が歴史の連続体の中にあることを実感させる道具の役割を果たします。
いわば肖像は、過去から現在へと連なる時間の流れを視覚化するものなのです。並んだ歴代肖像画を見上げる僧侶達は、自分がとどの祖から派生し、どの血脈に賊するかがすぐに分かります。十人の弟子たちが描かれていると云うことは、そんなことも意味するようです。とすれば、トーハク版の法が十人をしっかりと描いていません。原画は、それに無頓着な時代に描かれたことが考えられます。
 またこの十大弟子に、後に孫弟子で「高野山二世」となった真然(しんぜん)と、平安中・後期に高野山の再興に尽くした祈親上人(定誉)の2人が追加され、十二人になります。十二人ですが「釈迦の十大弟子」になぞらえ、人数が増えてもそのままの呼称で呼ばれているようです。

入定留身1 高野空海行状図画
             入定留身

空海は、承和2年(835)3月15日、改めて弟子たちに遺言します。
これが「遺告(ゆいごう)二十五条」とされてきて権威ある文書とされてきました。しかし、近年では空海がみずから書いたものではないとする説が有力のようです。それは別にして、このこの「遺告二十五条」には、この時に空海は次のように云ったと記されています。

私は来る三月二十一日の寅刻(午前4時)に入定し、その後は必ず兜卒天(とそつてん)の弥勒菩薩のもとに行き、お前たちの信仰を見守っていよう。一心に修行するがよい。五十六億年あまりのち、弥勒菩薩とともに、必ずこの世に下生するから、と,(『定本全集』七 356P)

ここからは空海が亡くなったのは、承和2年(835)年3月21日の寅の刻であることが分かります。空海は胎蔵・大日如来の法界定印をむすび最期を迎えます。御歳63歳、具足戒ををうけてから31年目のことになります。
 この時のことを、高野空海行状図画は三場面で描いています。
右は、諸弟子に見守らて最期を迎えられたところです。真ん中にすわる空海となみだをぬぐう十人の弟子たち、
入定留身 高野空海行状図画親王本
 入定留身(高野空海行状図画 親王院本)
中央は、大塔のよこを黒い棺に人れられて運ばれている場面です。目指すのは左の奥の院です。
一説には次のように記します。
「弟子たちは、埋葬後も生前と同じように仕え、49日目に、鬚をそり、衣服をととのえて、住まわれていた住房(現御影堂)から奥の院に移した。後に石室を造り、陀維尼と仏舎利をおさめ、五輪塔をたてた」

ここでは、空海は黒い布が架かられた御簾で運ばれています。
左の奥の院には、一番奥に宝形造りの御廟と灯籠堂が、御廟の右に丹生・高野明神社が描かれています。この奥の院の風景は、平安末から鎌倉時代にかけてのものであり、当時のものではないことを研究者は指摘します。

入定留身 高野空海行状図画 生身の空海
       入定留身(高野空海行状図画模写)
江戸時代末の模写を見てみると、空海はまさに生き身の姿で担がれています。「入定留身」をより印象づける姿です。
入定留身 奥の院 高野空海行状図画
入定留身 奥の院への道には卒塔婆が並ぶ
時衆の開祖一遍も高野山にやってきています。それが  「一遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれています。そこに描かれた奥の院を見ておきましょう。

「―遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた高野山奥の院

             「一遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた奥の院
①参道の両脇に立ち並ぶのは石造の長い卒塔婆のようです。
②その途中に右から左に小川が流れ、そこにに橋が架けられています。この川があの世とこの世の結界になるようです。これが今の「中橋」になるようです。
③中橋を渡り参道を登ると広場に抜け、入母屋造りの礼堂に着きます。
④その奥の柵の向こうに、方三間の方形作りの建物があります。これが弘法大師の生き仏を祀る廟所のようです。
⑤周りには石垣や玉垣がめぐらされ、右隅には朱塗りの鎮守の祠が建ちます。
⑥廟所の周りにいるのは烏たちです。カラスは死霊の地を象徴する鳥です。
この絵からは高野山の弘法大師伝説の定着ぶりが確認できます。

空海への大師号下賜


    921年の観賢の2度目の上奏に対して、醍醐天皇は勅書をもって空海に「弘法大師」の諡号を下賜したことが次の史料で裏付けられます。(『国史大系』第。1巻、24P)

己卯。勅す。故贈大僧正空海に論して、弘法大師と曰う。権大僧都観賢の上表に依るなり。勅書を少納言平惟扶(これよりともいう)に齋さしめ、紀伊国金剛峯寺に発遣す。

〔現代語訳〕
(延喜21年10月)27日、醍醐天皇は故贈大僧正空海に諡号を下賜され、その贈り名を「弘法大師」とした。このことは、権大僧都観賢からの上表によって実現したことである。 そこで、この贈り名を下賜する勅出を少納言惟扶に持たせて、(その報告のために)紀伊国金剛峯寺にむけて派遣させた。

  このあたりのことを高野山のHPには次のように記します。
10月27日、勅使の平維助卿一行が高野山に登嶺し、厳かに宣命を読み上げられました。その後、東寺の住職、観賢僧正は下賜伝達のため、弟子の淳祐を伴い、高野山へ。入定後初めて御廟の扉を押し開けたところ、そこには深い霧が立ちこめ、お大師さまの御姿を拝することが叶いませんでした。僧正は自らの不徳を嘆き、一心に祈られました。すると霧が晴れ、そこには天皇から聞かされていたとおりのお大師さまの御姿がありました。しかし、淳祐にはどうしてもその姿を拝することが叶いません。そこで僧正は淳祐の手を取り、お大師さまのお膝にそっと導かれます。その膝は温かく、淳祐の手には御香の良い香りが残りました。
 二人は準備しておいた剃刀ていとうでお大師さまの髪や髭を整えると、新しい御衣にお召し替えいただき、大師号下賜の報告を申し上げました。そしていよいよ観賢僧正と淳祐が御廟を退座し、御廟橋の袂たもとで後を振り返ると、そこにはお大師さまのお姿がありました。僧正は御礼を申し上げると、お大師さまは「汝なんじ一人を送るにあらず、ここへ訪ね来たるものは、誰一人漏らさず」と仰せられました。淳祐の手の香りは生涯消えず、持つ経典に同じ香りが移ったといわれております。

贈大師号 高野空海行状図画
          贈大師号 右が空海との対面場面 左が剃髪場面
右の場面は、大師号が下賜されたことを伝えるために、高野山に登った東寺長官の観賢と弟子淳佑(しゅんにゅう)が、奥の院の廟竃を開き、禅定の姿をした空海と対面した所です。
26御衣替
 高野山HPの空海との対面場面 

大師号下賜 親王院本九- 院納院本
贈大師号 高野空海行状図画(親王院本)
親王院本を見ると空海の頭には、長く伸びた髪が描かれています。この時に、姿を見たのは観賢だけで弟子淳佑は見ることはできなかったと記します。そこで観賢は、その姿を分からせるために空海の膝に触れさせようと、手を取って導いています。

大師号下賜 高野空海行状図画親王院本 剃髪

左の場面は、のびるにまかせていた空海の髪を観賢が剃っているシーンです。御髪を剃った観賢は、次のように詠います
たかの山 むすぶ庵に袖くらて 苔の下にぞ有明の月

空海が登場する霊夢を見た醍醐天皇自らが贈られた檜皮色の御衣を着せて、もとのように石室を閉じた、とします。この故事にもとづき、今も高野山では衣服を取り替える儀式が行われているようです。この「お衣替」の儀式は、 甦り、再生の儀式でもあると研究者は指摘します。こうして「空海は生命あるものすべてを救済するために、奥の院に生身をとどめておられる」という「人定留身信仰」が生まれます。そして11世紀はじめになると、高野山の性格は「修行の山から信仰の山へ」と大きく変わっていくのです。空海はいまも、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」との大誓願のもと、われわれを見守りつづけてくださっているというのが高野山の立場のようです。
 研究者が注目するのは、画面に五輪塔が描かれていることです。しかし五輪搭があらわれるのは平安中期以後で、このような大型のものは、奈良西大寺の律宗の布教戦略に絡んで出現します。10世紀前半には五輪塔は早すぎるというのです。
以上を整理・要約すると
①空海は入滅後は、高野山奥の院の霊廟に入定した。
②それから86年後に空海に大師号が下賜された。
③それを知らせに高野山に赴いた東寺の観賢は、霊廟をあけると空海が髪を伸ばして座っている姿に出会った
④そこで髪を剃り、天皇より下賜された服を着せ、霊廟を閉めた。
⑤こうして空海は生命あるものすべてを救済するために、奥の院に生身をとどめているという「人定留身信仰」が生まれた。
⑥この信仰は高野聖などによって各地に伝えられ、弘法大師伝説と高野山を使者供養の信仰の山として
全国に流布することになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房」
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