法然上人絵伝で讃岐流刑の場面を見ていて思うのは、法然に多く弟子たちが従っていることです。
法然上人絵伝 巻34第1段には、次のように記されています。
三月十六日に、花洛を出でゝ夷境(讃岐)に赴き給ふに、信濃国の御家人、角張の成阿弥陀仏、力者の棟梁として最後の御供なりとて、御輿を昇く。同じ様に従ひ奉る僧六十余人なり。
意訳変換しておくと
三月十六日に、京都から夷境(讃岐)に出立することになった。その際に信濃国の御家人・角張の成阿弥陀仏が、①「力者の棟梁」として最後のお供にと御輿を用意して、②僧六十余人と馳せ参じた。
①信濃の御家人である成阿弥陀仏は、「力者の棟梁」で輿を用意した②法然教団の僧侶60人余りが馳せ参じた。
まず、私に分からないのは「力者の棟梁」です。そして、法然の教団には60人を越える僧侶がいたことです。この教団を維持していくための経済的な基盤は、どこにあったのでしょうか。これに対して、法然は、勧進集団の棟梁であり、勧進で教団を維持していたとという説があります。今回は、その説を見ていきたいと思います。テキストは「五来重 仏厳房聖心と初期の往生者 高野聖96P」です。
五来重氏は、法然の勧進僧としての出自を次のように述べます。
「法然が比叡山の別所聖であったという観点に立ってみると、聖者法然が形成されてゆく履歴苦が見えてくる」
1180(治承四)年1月に、平家によって東大寺が焼きはらわれたとき、法然に東大寺再建の大勧進聖人という名誉ある白羽の矢がたてられたことを挙げます。そして法然は「勧進の才能と聖の組織をもつていた」と指摘します。結局、法然はこれを辞退して、重源という大親分にゆずってしまいます。しかし、法然が如法経の勧進聖であったことは、いろいろな史料から実証できると云います。
例えば『法然上人絵伝』(『四十八巻伝』)の巻九からは、先達として如法経供養をしたことが分かります。また、九条兼実が法然の下で出家し、その庇護者となったことは、よく知られたことです。その他の史料から分かってきたことは、九条兼実の舘に出入りしていた宗教者は法然だけではない云うことです。その他にも仏厳や重源などの僧侶も、九条兼実の邸に出人りしているのです。それは勧進のためだというのです。
その中の高野山の仏厳の動きを見ておきましょう。
その中の高野山の仏厳の動きを見ておきましょう。
九条兼実の日記『玉葉』には、安元三年(1177)4月11日に、次のように記します。
朝の間、小雨、仏厳聖人来る。余、障を隔てて之に謁す。法文の事を談ず。又風病の療治を問ふ。此の聖人能く医術を得たるの人なり
意訳変換しておくと
朝の間は小雨、仏厳聖人がやってきた。障を隔てて仏厳と接する。法文の事について話す。そして、風病の治療について問うた。この聖人は、医術について知識が深い人だ。
「官僧でなく、民間の験者のようなもので、医術の心得のあった人であろう」としています。
安元2年11月30日に仏厳房がきて、その著『十念極楽易往集』六巻を見せたが、書様に多くの誤りがあるのを兼実が指摘すると、聖人は、満足してかえって行った。
治承元年(安元三年)十月二日には、兼実は「仏厳聖人書く所の十念極楽易往集」を終日読んで、これは広才の書である、しかもこれは法皇の詔の旨によって撰集したということだと、仏厳の才能を認めています。
安元2年11月30日に仏厳房がきて、その著『十念極楽易往集』六巻を見せたが、書様に多くの誤りがあるのを兼実が指摘すると、聖人は、満足してかえって行った。
治承元年(安元三年)十月二日には、兼実は「仏厳聖人書く所の十念極楽易往集」を終日読んで、これは広才の書である、しかもこれは法皇の詔の旨によって撰集したということだと、仏厳の才能を認めています。
どうして高野山の別所聖である仏厳が、関白兼実の屋敷に出入りするのでしょうか?
12世紀半ばになると皇族や関白などが高野山に参拝するようになります。彼らを出迎えた僧侶を見ると、誰が政府要人を高野山に導いたのかがわかります。唱導師をつとめたのは、別所聖たちです。このころに高野山にやってきた有力貴族は、京に出て高野浄土と弘法大師伝説と大師霊験を説く高野聖たちのすすめでやって来ていたようです。
『性霊集』(巻八)には空海の「高野山万燈会願文」(天長九年〈811)を、次のように記します。
『性霊集』(巻八)には空海の「高野山万燈会願文」(天長九年〈811)を、次のように記します。
空海、諸の金剛子等と与に、金剛峯寺に於て、馴か万燈万華の会を設けて、両部の曼茶羅四種の智印に奉献す。期する所は毎年一度斯の事を設け奉り、四恩に答へ奉らん。虚空尽き衆生尽き湿槃尽きなば、我が願も尽きなん
ここには勧進の文字はありませんが、一燈一華の万燈奉納の勧進をすすめた願文と研究者は考えています。関白道長の法成寺御堂万燈会や平清盛の兵庫港経ヶ島の万燈会などは長者の万燈でした。一般の万燈会には、燈油皿に一杯分の油か米銭を献じました。いまも法隆寺や元興寺極楽坊には、鎌倉時代に行われた万杯供養勧進札が残っているようです。
高野聖たちは、空海いらいの高野山万燈会を復活することによって、 一燈一杯の喜捨をすすめていたことが分かります。寛治二年(1088)の『白河上皇高野御幸記』(西南院本)には、高野山奥之院で行われた行事を、次のように記されています。
其の北頭の石上に御明三万燈を並べ置く、土器三杯に之を備ふ
ここでは土器1杯を一万燈にかぞえています。これは横着な「長者の万燈」の例かもしれません。集めた喜捨は、丸残りで高野山復興資金に廻せます。
このように勧進活動は、次のようないろいろな勧進方法がとられています。
①配下の勧進聖を都に遊行させて、奥之院に一燈を献ずることをすすめたり、②御影堂彼岸会に結縁をすすめ、③仁海創意による五月十四日の花供結縁をすすめる。
大国の募財は京都で仁海が貴族のあいだ廻ってすすめ、荘園からの年貢や賦役は、慈尊院政所が督促するという風に手分けして勧められたようです。これらの勧進活動で、高野山の諸堂は復興していくのです。
この聖たちの中で際立った動きを見せているのが仏厳房聖心です。
『玉葉』の安元元年(1176)8月9日に、仏厳房の住房の塔に、「金光明寺」という額を関白兼実が書いてやったこと、おなじ堂の額を故殿(関白忠通)が書いてやったことなどが記されています。
内大臣中山忠親の『山枕記』にも、仏厳が出入りしていたようです。忠親が治承四年(1180)3月12日に、洛外洛中の百塔請をした残り二十八塔をめぐって、常光院(清盛の泉邸内)・法住寺・法性寺・今熊野観音などをへて東寺へ行き、仏厳房のところで天王寺塔を礼拝したとあります。これは四天王寺五重塔のミニチュアをつくって出開帳の形で礼拝させたか、あるいは四天王寺塔造営の勧進をしていたかの、いずれかだと研究者は推測します。高野聖と四天王寺の関係は密接で「高野 ―四天王寺 ― 善光寺」という勧進聖の交流ルートがあったと研究者は考えています。
つまり高野聖である仏厳が関白や内大臣の家に出入りするのは、勧進の便を得るためで、趣味や酔狂でおべっかするわけではないのです。これは西行や重源の場合みれば、一層あきらかになります。勧進聖にとって、なんといっても京はみのり多い勧進エリアです。そのため仏厳は、高野山をくだって京に入れば、高野山の本寺である東寺に本拠の房をもっていて、そこを拠点に勧進活動を勧めていたはずです。
つまり高野聖である仏厳が関白や内大臣の家に出入りするのは、勧進の便を得るためで、趣味や酔狂でおべっかするわけではないのです。これは西行や重源の場合みれば、一層あきらかになります。勧進聖にとって、なんといっても京はみのり多い勧進エリアです。そのため仏厳は、高野山をくだって京に入れば、高野山の本寺である東寺に本拠の房をもっていて、そこを拠点に勧進活動を勧めていたはずです。
このころ仏厳の本職は、高野山伝法院学頭でした。
高野聖の中では、支配的地位にいました。しかし、『玉葉』や『山枕記』にみられる仏厳は、やたらに人の病気を診察したり治療のアドヴァイスをしています。そのため彼の名は『皇国名医伝』にのせられています。医学と勧進は強い関係があったようです。勧進にとって医術ぐらい有力な武器はなかったと研究者は云います。勧進聖は本草や民間医学の知識ぐらいはもっていました。また高野聖はあやしげな科学知識をもっていて、やがて鉱山開発などもするようになります。
高野聖の中では、支配的地位にいました。しかし、『玉葉』や『山枕記』にみられる仏厳は、やたらに人の病気を診察したり治療のアドヴァイスをしています。そのため彼の名は『皇国名医伝』にのせられています。医学と勧進は強い関係があったようです。勧進にとって医術ぐらい有力な武器はなかったと研究者は云います。勧進聖は本草や民間医学の知識ぐらいはもっていました。また高野聖はあやしげな科学知識をもっていて、やがて鉱山開発などもするようになります。
仏厳もそれをひけらかしていたようです。
例えば、重源が渡来人縛若空諦をつかって、室生寺経塚から弘法人師埋納という舎利をぬすみ出します。
その時に、その真偽鑑定を九条兼実から依頼されています。(『玉葉』建久 年八月一日)。この重源の悪事も、東大寺勧進のために後白河法皇と丹後局にとりいるためのものでした。仏厳は「お互いに勧進を勧めるのは大変なことで、手を汚さないとならないときもあるものよ」と相哀れんだかもしれません。勧進聖は呪験力とともに、学問や文学や芸能や科学の知識など、持てるものすべてを活用します。文学を勧進に役だてたのは、西行でした。仏厳は雨乞などの呪験力と科学的知識と、伝法院学頭としての密教と浄土教の学問を、勧進のために駆使したと研究者は指摘します。
例えば、重源が渡来人縛若空諦をつかって、室生寺経塚から弘法人師埋納という舎利をぬすみ出します。
その時に、その真偽鑑定を九条兼実から依頼されています。(『玉葉』建久 年八月一日)。この重源の悪事も、東大寺勧進のために後白河法皇と丹後局にとりいるためのものでした。仏厳は「お互いに勧進を勧めるのは大変なことで、手を汚さないとならないときもあるものよ」と相哀れんだかもしれません。勧進聖は呪験力とともに、学問や文学や芸能や科学の知識など、持てるものすべてを活用します。文学を勧進に役だてたのは、西行でした。仏厳は雨乞などの呪験力と科学的知識と、伝法院学頭としての密教と浄土教の学問を、勧進のために駆使したと研究者は指摘します。
以上のように、仏厳が法然や重源などとともに、兼実のもとに25年の間(1170~94)出入りして法文を談じたり、兼実や女房の病気を受戒で治し、恒例念仏の導師をつとめていることが分かります。これが法然の動きとよく似ていることを押さえておきます。
話を最初に戻します。法然が九条兼実宅を訪れていた頃に、高野山の仏厳は高野山復興のための勧進に、そして重源も東大寺復興のために勧進活動のために、頻繁に同じ舘を訪れていたのです。
話を最初に戻します。法然が九条兼実宅を訪れていた頃に、高野山の仏厳は高野山復興のための勧進に、そして重源も東大寺復興のために勧進活動のために、頻繁に同じ舘を訪れていたのです。
こういう視点で、最初に見た法然讃岐流刑の出立場面を、もう一度見てみましょう。
①信濃の御家人である成阿弥陀仏は、「力者の棟梁」で輿を用意した
②法然教団の僧侶60人余りが馳せ参じた。
①の「力者の棟梁」や②の60人を越える僧侶集団は、法然も勧進集団の棟梁として活動していたように、私には思えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「五来重 仏厳房聖心と初期の往生者 高野聖96P」