弘法大師行状絵詞や高野空海行状図画に描かれた空海の入唐求法を見ています。今回は、長期留学を中止して、タイミング良くやって来た遣唐使船に便乗して帰国することになった場面を見ていくことにします。絵図は「トーハク」の江戸時代の模写版の高野空海行状図画です。
高野空海行状図画 第二巻‐第8場面 明州(寧波)の港
この場面は、明州(現寧波)の港です。帰国することになった空海を見送るため、僧たちが駆けつけています。この場面を見ていると、どこかで見た構図であることに気がつきます。
往路の福州の港(高野空海行状図画)
往路に到着した福州の港や建物がコピーされ、その周りの人物だけが書き換えられています。こんな「使い回し」が、この版にはいくつかあります。近世の絵師らしい「省力化」が行われています。港の先に立った空海は、おもむろに懐から、三鈷杵(さんこしょ)を取り出します。
そして「密教を弘めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じて、東の空に向かって投げます。描かれているのは、空海の手の先から三鈷杵が離れる瞬間です。左上には、雲に乗った三鈷杵が光を放ちながら東国に飛んでいきます。
そして「密教を弘めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じて、東の空に向かって投げます。描かれているのは、空海の手の先から三鈷杵が離れる瞬間です。左上には、雲に乗った三鈷杵が光を放ちながら東国に飛んでいきます。
高野空海行状図画には、高野山上の松の枝にある三鈷杵を空海が発見する場面があります。つまり、高野山こそが「密教を広めるにふさわしい所」と啓示され、そこに伽藍が建てられることになります。高野山は、神からの啓示が空海に示された「約束の地」であったことを語る伏線となります。この飛行鈷の話も、後世に創作された伝説と研究者は考えています。
空海を唐から連れ帰ったのは判官・高階遠成の船でした。
遠成が乗っていった船と出港時期については、次の二つの説があります。
①第四船として出発し、漂流の後に遅れて入唐したとする説(延暦23年出発説)② 『日本後紀』延暦二十四年七月十六日条記載の、第三船と共に出発したとするもの(延暦24年出発説)
この2つの説について、研究者は次のように指摘します。
高階遠成は、延暦の遣唐使の一員であり、遠成の乗った船は第四船であった。
①遠成を乗せた第四船は、延暦24年(805)7月4日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆した。
②判官三棟今嗣の乗る第三船は、運悪く三たび遭難し、 ついに遣唐使の任務を果たすことができなかった。
③第四船の遠成は遅れて入唐を果たし、皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
高階遠成がやって来なければ、空海は短期間で帰国することはできなかったのです。 高階遠成を「空海を唐から連れ帰った人物」ということになります。
空海を乗せた船の博多到着と、その後の経過を詞書は次のように記します。
①806(大同元)年10月に帰朝した空海は、持ち帰った経論・道具などを『御請来目録』にまとめ、高階遠成に託して朝廷に上程したこと②上京の勅許が下るまで空海を観上音寺に住まわせること。③翌年に、空海が京洛に入ることが許されたこと
しかし、トーハク版模写の高野空海行状図画には、この部分を描いた絵図場面はありません。そこで親王院版の絵図を見ていくことにします。
高野空海行状図画 親王院版3-9 著岸上表
場面は、九州・博多津に帰り着いた判官高階速成と空海です。
古代・中世には石垣の港湾施設はなく、津は砂浜でした。そのため本船は沖に停泊し、渡し船で上陸・乗船を行っていたことは以前にお話ししました。また、砂浜には、倉庫などの付帯施設もなく、ただ砂浜があるだけでした。石垣があり、本船が着岸できる中国の福州や寧波とは描き分けられています。しかし、この行状図の遣唐使船は、今までに出てきた遣唐使船に比べるとあまりに小さく貧弱に描かれています。船の屋根も茅葺きで粗末です。左の渡船と比べても、あまり大きさが変わりません。本当にこれが遣唐使船なのか疑問が湧きます。
②上陸した遣唐使たちが左方面に歩んでいきます。中央の2人の僧姿の先頭は空海でしょう。では、空海に従う黒染めの僧は誰なのでしょうか。 橘逸勢がいっしょに帰国しましたが、僧は空海一人でした。後世の史料に空海に同行して入唐したとされるようになる佐伯直家の甥の知泉だろうと、研究者は推測します。
③その左手の3つの小屋と、その後の塀で仕切られた一角は、何の建物なのでしょうか。よく分かりません。こうしてみると、「著岸上表」と題された博多上陸については、詞書と絵が一致していないことが改めて分かります。この不一致は、どこからきているのでしょうか?
そのヒントは、「御招来目録」にあります。この最後を、空海は次のように閉めています。
空海、二十ケ年を期した予定を欠く罪は、死しても余りあります。が、ひそかに喜んでおりますのは、得がたき法を生きて請来したことであります。一たびはおそれ、 一たびは喜び、その至りにたえません。謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に付けてこの表を奉ります。ならびに請来した新訳の経等の目録一巻をここに添えて進め奉ります。軽がるしく陛下のご威厳をけがしました。伏しておそれおののきを増すばかりです。沙門空海誠恐誠性謹んで申し上げます。大同元年十月二十二日
入唐学法沙門空海上表
空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。ここには「空海、二十ケ年を期した予定を欠く罪は、死しても余りあります。」と、自らが記しています。国法を破って、1年半あまりで帰国したのです。そのため「敵前逃亡者」と罰せられる可能性も覚悟していたはずです。
そのためにも、自分の業績や持ち帰った招来品を報告することで、1年半でこれだけの実績を挙げた、これは20年分にも匹敵する価値があると朝廷に納得させる必要がありました。そこで遣唐使の高階遠成に託したのが「招来目録」です。ここには、空海が中国から持ち帰ったものがひとつひとつについて記され、その重要性や招来意図の説明まで記されています。それは、必死の作業だったはずです。
提出した「招来目録」や密教招来の意味が、宮廷内部で理解されるようになるまでに時間が必要だったはずです。最澄の「援護射撃」がなければ、博多での滞在は、もっと長くなっていたかもしれません。九州での空海は、査問委員会のまな板の上に載せられたような立場だったと私は考えています。以上をまとめておくと
①空海は20年の長期留学僧として、長安に滞在した
②しかし、2年足らずで帰国することを選んだ。
③これは国法を破るもので処罰対象となるものであった。
④そこで空海は、自分の留学生成果を朝廷に示すために「御招来目録」を提出した。
⑤このような事情があったために、高野空海行状図画などは「空海=無断帰国」部分について、恵果の指示や遺言に基づくものだったという話を創作挿入した。
⑥一方、査問審査中の九州滞在については、そのあたりの事情をぼかした記述とした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武内孝善 弘法大師 伝承と史実
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