瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:鴨部郷

  古代讃岐の阿野郡と、その郡衙と綾氏について見ていきたいと思います。
テキストは「渡部 明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」です。
  
丸亀平野の郡衙跡候補は次の通りです
阿野郡 岸の上遺跡(丸亀市飯山町法勲寺)      綾氏
那珂郡 丸亀市郡家町宝幢寺跡周辺                              ?氏
多度郡 善通寺南遺跡(旧善通寺西高校グランド)              佐伯氏
これらの郡衙は、南海道の整備後にかつての国造層によて整備・設置されたと研究者は考えています。
それでは阿野郡の郡衙は、どこにあったのでしょうか? 阿野郡の郡衙については、よく分かっていないようです。しかし、阿野郡の阿野北平野には讃岐国衙が置かれました。
国衙が置かれた郡の役割を押さえておきます。
『出雲国風土記』巻末には「国庁意宇郡家」とあります。ここからは、出雲の国府と国府所在郡の意宇郡の郡家が同じ場所にあったと読めます。以前にお話しした阿波の場合も、阿波国府と名方評(郡)家は、すぐ近くに置かれていました。どうして、国府と郡家が隣接していたのでしょうか?
 それは中央からやってきた国司が国府がある郡の郡司に頼ることが大きかったからと研究者は考えています。7世紀の国宰(後の国司)は、地元の出雲国造の系譜を引く出雲臣や、阿波国造以来の粟凡直氏を後ろ盾にして、国府の運営を行おうとしていたというのです。それを讃岐にも当てはめると、国府設置に当たって、支援が期待できる綾氏の支配エリアである阿野郡を選んだということになります。これは8世紀以降に、文書逓送や部領に任じられているのは、国府所在郡の郡司の例が多いことからもうかがえます。 生活面の視点から見ておきます。
『延喜式』巻五十雑式には「凡国司等、各不得置資養郡」とあります。
この「養郡」についてはよく分かりませんが、都からやってきた国司が生活するための食糧などを、地元の郡司が提供していたことがうかがえます。徳島の国府跡である観音寺遺跡木簡からも、板野郡司から国司に対して、食米が支出されていたことが分かります。つまり、中央からやって来た初期の国司は、地方の有力者の支援なしでは生活も出来なかったことになります。初期の国司は、そのような制約を克服し、自前で食糧やその他を確保できる権力システムを築いていく必要があったようです。
 そのような中で阿野郡の綾氏は、白村江の跡の城山城築造や南海道建設などの中央政府の政策に積極的に協力することで信頼を高め、国府を阿野北平野に誘致することに成功したようです。当然、阿野郡衙も国衙の周辺にあったことになります。
古代讃岐の郡と郷NO2 香川郡と阿野郡は中世にふたつに分割された : 瀬戸の島から
次に綾氏の勢力範囲とされる阿野郡について、見ていくことにします。
阿野郡に関する最も古い確実な記録は、藤原宮・平城京跡出土の木簡です。「阿野郡」と記された木簡が次のように何枚も出土しています。

阿野郡表記の木簡一覧

参考 https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/
代表的なものをあげると
①藤原宮跡の溝(SD3200内壕)から「綾(阿野)海高口部片乃古三斗」、己丑(689)年の年号木簡の2つ
②藤原宮跡の溝(S D145)から「綾郡」と記された木簡
③平城京の長屋王の屋敷跡の溝(SD4750)から出土した木簡には、「和銅八年九月阿夜(阿野)郡」と記されています。
これらの木簡は、阿野郡から納められた貢進物に付された荷札の断片とされます。

製塩木簡 愛知
貢納品荷札の例

阿野郡木簡 平城京出土

阿野郡木簡2 長屋王
平城京出土の「阿野郡」木簡

製塩と木簡
平城京から出てきた讃岐阿野郡の木簡(復元)

この木簡には次のように記されています。
「讃岐国阿野郡日下部犬万呂―□四年調塩

ここからは、阿野郡の日下部犬万呂が塩を調として納めていたことが分かります。また『延喜式』に「阿野郡放塩を輸ぶ」とあります。阿野郡から塩が納められていたことが分かります。放塩とは、粗塩を炒って湿気を飛ばした焼き塩のことのようです。炒るためには、鉄釜が使われました。ここに出てくる塩も、阿野郡のどこかで生産されたものなのでしょう。
以上の木簡の荷札からは、6世紀後半の天武朝時代には、阿野郡が存在し、貢進物を藤原京に収めるシステムが機能していたことが分かります。その責任者が綾氏であったことになります。この時期は、先ほど見たように「城山山城 + 南海道 + 条里制工事 + 府中の国衙」などの大規模建設事業に綾氏が協力し、開法寺・鴨廃寺・醍醐寺などの氏寺建立を許されるようになった時期です。
『延喜式』(延長5(927)年には、讃岐の郡名として大内・寒川・三木・山田・香川・阿野・鵜足・那珂・多度・三野・刈田(豊田)の11郡が記されています。
阿野郡が10世紀にもあったことが分かります。それが、中世になると2つに分割されます。坂出市林田町惣蔵寺の明徳元(1390)年銘鰐口には、「讃岐国北条郡林田郷梶取名惣蔵王御社」とあります。ここからは、中世の阿野郡は、次のように2分割されたことが分かります。
①北条郡 坂出市域
②南条郡 国分寺町・綾南町・綾上町域
この分離がいつ行われたかについてはよく分からないようです。それが再び阿野郡に統合されるのが貞享元(1684)年のことになります。そして阿野郡は明治32年に阿野郡と鵜足郡を合併して綾歌郡となります。
「延喜式」と同じ頃に源順が編纂した百科事典である「倭名類聚抄」には
阿野郡には新居・甲知・羽床・山田・鴨部・氏部・松山・林田・山本の9郷が記されています。

讃岐の郷名
「倭名類聚抄」の阿野郡9郷
阿野郡の郷名

阿野郡の9つの郷がどこにあったのかを見ておきましょう。
新居郷については
①「金比羅参詣名所図会 巻之三」に「遍礼八十一番の札所白峯寺より、八十二番根来寺にいたる順路およそ五十余町すべて山道なり。南に阿野郡新居村あるのみ」とあること。新居の大字が端岡村に残っていること、
②「御領目録』に新居新名とあるのが新居郷の新名田のことと、山内村(昭和30年に端岡村と国分寺町となる)に大字新名があること
③「全讃史」に新名藤太郎資幸が福家城を築き、子孫が福家を名乗ったとあること
以上から、現在の綾歌郡国分寺町から綾南町畑田が比定されています。また、大字福家も新居に含まれる
 甲知郷は
①「白峰寺縁起」に保元元年に讃岐国に流された崇徳上皇を「国府甲知郷。鼓岳の御堂にうつしたてまつり」とあること
②『延喜式』の河内駅、近世の河内郷があること
以上から坂出市府中から綾南町陶を比定。
羽床郷は、中世武士で讃岐綾氏の統領とされる羽床氏が下羽床にいたことなどから、綾川町の上羽床、下羽床、滝宮を比定 山田郷は山田村の地名などから、綾上町山田・西分・粉所、綾南町子疋をあてている。
鴨部郷は、『全讃史』の鴨県主系図の「禰宜祐俊、建長六年十月、当宮御幸之莽。凛膏国鴨部、祐俊子孫可相伝之由、被下宣旨」などを参考に、坂出市加茂
氏部郷は、加茂村氏部の地名から、坂出市加茂町氏部
松山郷は、「菅家集」(「松山館」があり、(保元物語Jo・)などに「松山」の地名があることから
坂出市高屋町・青海町・神谷町(以上は旧松山村)・王越町を比定
林田郷は、「南海流浪記」に讃岐に流された高野山の僧道範が、国府から讃岐の守護所を経て宇多津の橘藤左衛門高能の許に預けられた際に、「この守護所と云ふも林田の地に在りしを知る」とあること
山本郷は坂出市西庄町・坂出町を中心とした地域
以上のように10世紀半の阿野郡は、坂出市、綾歌郡国分寺町・綾南町・綾上を含む範囲と推定しています。これは明治32年の綾歌郡成立以前の阿野郡の領域とほぼ一致します。つまり、10世紀以後はそのエリアに大きな変化はなかったことにあります。

阿野郡地図2
讃岐阿野郡のエリア

ただ「香川県史」は、一部改変があったことを次のように指摘します。
①綾南町畑田は新居郷でなく甲知郷であったこと
②明治23年美合村の成立によって鵜足郡となるまで、仲多度郡琴南町川東が近世以来阿野郡山田郷に属していたので阿野郡に含めていたこと。
以上をまとめておくと
①古墳時代後期に、綾氏が阿野北平原を拠点に、綾川沿いに進出・開拓したこと
②そのモニュメントが綾川平野に残された横穴式の古墳群であり、古代寺院跡であること
③綾氏は、7世紀後半の中央政府の進める政策に協力し、讃岐国衙の誘致に成功したこと
④国衙を勢力圏に取り込んだ綾氏は、その後も在地官人として地方権力を握り成長したこと。
⑤そのため阿野郡は資本投下が進み、人口が増大し、中世には南北に分割されたこと。
⑥そして、古代綾氏は在地官人から讃岐藤原氏として武士団へと脱皮し、羽床氏がその統領を強めるようになること。
⑦羽床氏や滝宮氏など讃岐藤原氏一族の拠点は、綾川の上流の阿野郡に属したこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「渡部 明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」
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  5讃岐国府と国分寺と条里制

綾川が府中でドッグレッグして北に流れを変えた右岸(東側)が鴨になります。この辺りには、山部には古墳時代末期の横穴式古墳が群集し、その後には鴨廃寺も建立されていて、古代綾氏の拠点とされています。そして、綾川の対岸に讃岐国府が姿を見せます。「国府誘致」の原動力になった勢力の基盤があったところとも考えられます。

坂出 条里制と古墳
賀茂古墳群と鴨廃寺の位置関係 綾氏の存在がうかがえる

 全国には、古代以来の鴨部を引き継ぐ地名がありますが、古代の讃岐にも、鴨部(坂出市)と鴨部(さぬき市)の2カ所の鴨部がありました。空海の叔父阿刀大足が、この地に京都の賀茂神社(上下二社を総称して賀茂社)を勧請したので、鴨部郷から鴨郷に変更されたと伝えられます。また、鴨を狩猟し、献上する部民が配置された鴨部の呼称が始まりとされます。しかし、それらを裏付ける史料はないようです。
  鴨村の位置を確認して、ズームアップしていきます。
坂出 鴨
江戸時代の阿野北絵図
黄色ラインは街道、赤は村境になります。 注目しておきたいのは、鴨村の東にある烏帽子山です。
坂出 賀茂烏帽子山
現在の烏帽子山 山頂付近が削りとられてしまった姿
この山は、今は採石作業で削り取られて見る影もありませんが、かつてはその名の通り烏帽子の形をした甘南備山で地域の信仰対象だったことがうかがえます。明治の地形図の麓の地名は「神の山」です。ちなみに、頂上からは弥生時代の高地性集落跡も見つかっているようです。この山が鴨村の「シンボルタワー」の役割を果たしていたことは容易に想像がつきます。その麓にあるのが鴨村です。
5讃岐国府と国分寺と条里制

府中から真っ直ぐに北に伸びていく道が「大道」と呼ばれた、国府とその外港の林田湊を結ぶ連絡道だったと研究者は考えているようです。大道の西が氏部村です。近代には「鴨村+氏部村」=加茂村となります。綾川の西側は、西庄村になります。
坂出 鴨

この地図には、城山の北麓に「賀茂村御林」「氏部村御林」とあります。ここがふたつの村の「御林」だったことが分かります。農民たちは、この御林から若芽や小枝を刈り取って来て、それを背負って帰って田んぼにすき込んでいたのでしょう。


近世の鴨村と氏部村には、それぞれ鴨(賀茂)神社が鎮座していました。
鴨部郷の鴨神社1
  両神社の位置を、明治の地図で確認しておきます。
綾川に面してあるのが上鴨神社で、川の向こうにはJR予讃線の賀茂駅があります。今は採石で美しい姿を失ってしまった烏帽子山の西北麓に鎮座するのが下鴨神社です。ここでふたつの神社の鎮座する地名を下の地図で押さえておきます。
①上鴨神社(西鴨)が鎮座するのが氏部の「本鴨
②下鴨神社(東鴨)が鎮座するのが「鴨の庄

これを幕末の讃岐国名勝図会に載せられた絵図で見てみましょう。
絵図は国会図書館のアーカイブからダウンロードしたもので、クリックすれば拡大します。詳細部までみることができます。
鴨部郷の鴨神社

手前から見ていきましょう。
①右から左へ綾川が流れています。
②綾川に沿って高松ー丸亀街道が伸びていて、綾川を渡る木橋が見えます
③丸亀街道にそって鎮座するのが上鴨社(西鴨社)で、鴨前院という別院があり神仏混淆です
④さらに北に行くと氏部村の集落があるようです。
⑤田んぼには、雀おどしらしきものが張られているので、季節は取り入れ前の秋なのでしょうか
⑥背後には、五色台が横たわり、その前に奇景の烏帽子山が見えます。
⑦烏帽子山の前に、下鴨神社が見えます。
⑧その左に正蓮寺が大きく描かれています。

 西鴨(上賀茂)神社は、今も「あおいさん」とよばれ信仰を集めています。

坂出 上鴨神社

かつては三所大明神と呼ばれ、社内に神宮寺の一つ鴨箭(おうせん)院や地蔵堂などの堂塔がある神仏混淆の神社で、社僧が奉仕していました。
 西鴨神社(上賀茂・葵さん)には県内最古の棟札が保存されています。
年号は己□(卯)と見えるので、長禄二(1459)年のものと研究者は考えているようです。県下の棟札で、年紀の入ったものとしては、一番古いものです。西鴨神社周辺には京都の上賀茂神社の荘官で、「南海通記」などに登場する入江民部(代々民部を名乗った)がいました。この人江氏であった景輝という人物が願主となり、白峯寺の大僧都俊玄を西鴨神社社殿落慶の法要に際し導師に招いて供養したときのものが、この棟札になるようです。ここからは、西鴨神社が京都の上賀茂神社の寺領となっていたことが分かります。

坂出 下鴨神社

 東鴨(下賀茂)神社は鴨居大明神や、葛城大明神とも称していました。どちらも延喜式内社とする議論もありますが、京都の上賀茂、下賀茂は、併せて一社です。西鴨、東鴨もそう考えるのが自然のようです。
福江 西庄


鴨ノ庄(下鴨神社領)賀茂御祖神社は、下鴨神社領で現在も鴨庄の地名が残ります。そして、下社である東鴨神社があります。上鴨神社があるのは本鴨で、ここも京都の下鴨神社領といわれています。ところが、なぜか上社の西鴨神社が鎮座します。下鴨領に上社が鎮座するのは変です。『名勝』には、上社は氏部・鴨二郷の総鎮守であるとされます。また、本鴨は、賀茂庄の本条で、中心地を意味します。そうすると、この地は本来は、上社の荘園に含まれていた可能性が高くなります。綾川の流路沿いにあり、氏部郷と接続する場所です。そのためかつては氏部郷に属していた可能性もあるのでしょう。西鴨社の位置が変わっていないとすれば、氏部ではなく上賀茂領であったということになると坂出市史は指摘します。
牛ノ子山と牛子天神 
 ここは、国府と松山津との間を往返する「大道」道筋の途中になります。讃岐国守を勤めた菅原道真もこの付近にあった客館に足繁く通った(『菅家文草』)ことがうかがえます。伝承では、この小山で道真は牛に乗って戯れたと云います。また、道真が国司として最も重要な臨時祭事である雨乞いを城山山上において祭文を奉じて行ったところ、たちまちに恵みの雨が降ったとされます。それを讃えてこの地の民衆が乱舞したといわれ、これが雨乞踊りの発祥であるとも伝えらます。その後、これに讃岐配流になった法然上人が振り付けをして、北条念仏踊となったと伝えられます。ここには、中世に都から始まって地方に伝播した風流踊りの讃岐への定着プロセスがうかがえます。
 こうした雨乞い念仏踊組が讃岐各所に形成されて、江戸時代になると早魃の時には郡内の各組からも牛頭天王(滝宮神)社へ奉納するようになります。ここからは、いまはほどんど姿を消してしまった牛頭天王信仰のネットワークが見えてきます。

讃岐国名勝図会に描かれた上下鴨神社の周辺をみてきました。この地が烏帽子山を甘南備山(霊山・聖山)として、古来から信仰対象となっていたことを痛感します。古墳時代の人々は、この山の奥に古墳群を築き、仏教が流行するとそれを取り入れ鴨廃寺を建立する。そして、国府をここに「誘致」したのも、ここを拠点とする勢力だったのかもしれません。その後、京都の秦氏の氏神である下上賀茂神社に寄進され、中世には賀茂神社の寺領となったようです。秦氏との関係を通じて、成長して行ったのが古代綾氏です。綾氏は在庁官人として国府の指導権を握り、勢力を拡大していきます。その基盤は、国府と近いこの鴨(加茂)の地にあったのではないかと、私は考えています。
しかし、烏帽子山の今の姿は残念です。
坂出 賀茂烏帽子山
頂上部がなくなった現在の烏帽子山の姿

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編

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