瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:鵜足郡大庄屋

  
  江戸時代後期になると、賢い庄屋たちは記録を残すことの意味や重要性に気づいて、手元に届いた文書を書写して写しを残すようになります。その結果、庄屋だった家には、膨大な文書が近世史料として残ることになります。丸亀市飯山町法勲寺には、江戸時代に大政所(大庄屋)を務めた十河家があります。ここにも「十河家文書」が残され、飯山町史に紹介されています。今回は、その中から江戸時代の農民の生活が実感できる史料を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。

もともとの鵜足郡(うたぐん)は、次のような構成でした。
 ①津野郷 – 宇多津・東分・土器・土居
 ②二村郷 – 東二(ひがしふた)・西二(にしふた)・西分
 ③川津郷 – 川津
④坂本郷 – 東坂元・西坂元・眞時・川原
⑤小川郷 – 東小川・西小川
⑥井上郷 – 上法軍寺・下法軍寺・岡田
⑦栗隈郷 – 栗熊東・栗熊西・富熊
⑧長尾郷 – 長尾・炭所東・炭所西・造田・中通・勝浦

これを見て分かるのは、江戸時代の⑧の長尾郷は鵜足郡に属していたことです。近代になって仲多度郡に属するようになり、現在ではまんのう町に属するようになっています。しかし、江戸時代には鵜足郡に属していました。そのため長尾郷の村々の庄屋は、鵜足郡の大庄屋の管轄下にあったことを押さえていきます。十河家文書の中に、長尾郷の村々が登場するのは、そんな背景があります。

讃岐古代郡郷地図 西讃
西讃の郷名
近世の村を考える場合に、庄屋を今の町村長に当てはめて考えがちです。しかし、庄屋と町長は大分ちがいます。今の町長は、町民のかわりに税金を払ってはくれませんが、江戸時代の庄屋は村民が年貢を納められない時はかわって納める義務がありました。また庄屋は、今の警察署長の役目も負っていました。例えば、村には所蔵(ところぐら:郷蔵)という蔵があったことは以前にお話ししました。
高松藩領では、村々の年貢は村の所蔵に納め、それから宇多津の藩の御蔵へ運ばれました。所蔵には、年貢の保管庫以外にも使用用途がありますた。それは警察署長としての庄屋が犯罪者や問題を起こした人間を入れておく留置場でもあったのです。どんなことをしたら、所蔵
に入れられたのでしょうか。十河文書の一つを見てみましょう。
一筆啓上仕り候。然らば去る十九日夜栗熊東村にて口論掛合いの由にて、当村百姓金蔵・八百蔵両人今朝所蔵へ入れ置き候様御役所より申し越しにつき、早速入れ置き申し候間、番人など付け置き御座候。
弘化四年 二月十二日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
     意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。先日の2月19日夜、栗熊東村で口論の末に喧嘩を起こした当村の百姓・金蔵と八百蔵の両人について、今朝、所蔵(郷倉)へ入れるようにとの指示を役所より受けました。つきましては、指示通りに、両名を早速に収容し、番人を配置しました。
弘化四(1947)年2月22日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
東栗熊村の庄屋からの報告書です。19日夜に百姓が喧嘩騒動を起こしたので、それを法勲寺の大庄屋十河家に報告したのでしょう。その指示が通りに所蔵へ入れたという報告書です。時系列で見ると
①19日夜 喧嘩騒動
②20日、 栗熊村庄屋から法勲寺の大庄屋への報告
③22日朝、大庄屋からの「所蔵へ入れ置き」指示
④22日、 栗熊村庄屋の実施報告
と、短期間に何度もの文書往来を経ながら「入れ置き(入牢)」が行われていることが分かります。村の庄屋は、大庄屋に報告して判断を仰がなければならない存在だったことが分かります。

次は村で起きた「密通・不義」事件への対応です。
 一筆申し上げ候
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
右の者共内縁ひきもつれの義につき、右庄次郎後家より申し出の次第もこれあり、双方共不届きの始末に相聞え候につき、まず所蔵へ禁足申しつけ、番人付け置き御座候。なお委細の義は組頭指し出し申し候間、お聞き取りくださるべく候。右申し上げたくかくの如くに御座候。
(弘化四年)七月三日      栗熊東村庄屋 清左衛門
意訳変換しておくと
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
上記の両者は、「内縁ひきもつ(不義密通)と、庄次郎後家より訴えがあり、調査の結果、不届きな行いがあったことが分かりました。そこで、両者に所蔵禁足に申しつけ、番人を配置しました。なお子細については、組頭に口頭で報告させますので、お聞き取りくだい。以上。
弘化四(1847)年7月3日      栗熊東村庄屋 清左衛門

今度は、栗熊東村からの「不義密通」事件の報告です。事実のようなので、両者を所蔵(郷倉)に入れて禁足状態にしているとあります。大庄屋の措置は分かりません。ここからは、所蔵が村の留置場として使われていたことが分かります。
それでは所蔵は、どんな建物だったのでしょうか?
所蔵の改築願いの記録も、十河家文書の中には次のように残されています。
一 所蔵一軒   石据え
  但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き、前壱間下(げ)付き、
一、算用所壱軒    石据え
  但し壱丈四方、一真葺き
右は近年虫入に相成、朽木取繕い出来難く、もっとも所蔵はこれまで藁葺き。桁行三間半にて御座候ところ、半間取縮め、右の通りに建てかえ申したく存じ奉り候。御時節柄につき随分手軽に普請仕りたく存じ奉り候。別紙積り帳相添え、さし出し申し候間、この段相済み候様仰せ上られくださるべく候。願い上げ奉り候。以上。
弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿
  意訳変換しておくと
所蔵と算用所の建て替えの件について
この建物は近年、白蟻が入って朽木となって修繕ができない状態となっています。所蔵は、これまで藁葺きで、桁行三間半でしたが、半間ほど小さくして、右の規模で建て替え建てを計画しています。倹約の時節柄ですおで、できるだけ費用をかけずに普請したいと考えています。別紙の通り見積もり書を添えて、提出いたしますので、御覧いただき検討をお願いいたします。
   弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿

岡田東村からの所蔵の改築申請書です。ここからは。いままでは藁ぶきの「二間×三間半」だったのが、弘化四(1847)年の建替時に、瓦葺きで二間×三間に減築されたことが分かります。「石据え」というのは、柱が石の上に立てられていたこと、「前壱間下付き」というのは、所蔵の建物の表に、 一間の下(ひさしのように出して柱で受け、時には壁までつけた附属構造)が出ていたことです。この下の一間四方分は「番小屋」については、次のように別記されています。

前壱間下(げ)付きにて、右下の内壱間四方の間番小屋に仕り候積り。

ここからは下(げ)の下は、一間四方の間番小屋として使っていたことが分かります。 

 所蔵(郷倉)は、一村に一か所ずつありました。
所蔵が年貢米の一時収納所でもあり、留置場でもあったことは今見てきたとおりです。そのため地蔵(じくら)とか郷牢(ごうろう)とも呼ばれていたようです。
吉野上村(現まんのう町)の郷倉については、吉野小学校沿革史に次のように記されています。(意訳)
吉野上村郷倉平面図
吉野上村の郷倉
 明治7年(吉野)本村字大坂1278番地の建物は、江戸時代の郷倉である。その敷地は八畝四歩、建物は北から西に規矩の形に並んでいる。西の一軒は東向きで、瓦葺で、桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下(げ)付である。その北に壁を接して瓦葺の一室がある。桁行三間、梁間二間で、東北に縁がついている。その次は雪隠(便所)となっている。
北の一棟は草屋で、市に向って、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付である。西の二棟を修繕し、学校として使い、北の一棟を本村の政務を行う戸長役場としていた。
 世は明治を迎え文明開化の世となり、教育の進歩は早くなり、生徒数は増加するばかりで、従来の校舎では教室が狭くなった。そこで明治八年四月、西棟を三間継ぎ足して一時的な間に合わせの校舎とした。その際に併せて、庭内の東南隅に東向の二階一棟も新築した。これが本村交番所である。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付の建物である。
   明治になって、所蔵(郷倉)の周囲に、学校や交番、そして役場が作られていったことがうかがえます。そういう意味では、江戸時代の所蔵が、明治の行政・文教センターとして引き継がれたとも云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史330P 農民の生活
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幕府巡見使を髙松藩の村々の庄屋たちがどのように準備して迎え入れたのかを、以前に見ました。今回は宇多津を中心とする鵜足郡の庄屋たちの受入準備を、まんのう町(旧琴南町)に残された庄屋文書(西村文書)から見ていくことにします。テキストは「大林英雄 巡見使の来讃 琴南町誌225P」です。

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琴南町誌
最後の巡見使となった1838(天保九)年の巡見使の行程を見ておきましょう。
4月5日に大坂を出帆
4月19日に豊前に着き、豊前と豊後を巡見、
閏4月12日に伊予へ入り、土佐・阿波を巡見
6月上旬に讃岐に入り、讃岐を巡見して大坂に帰る
7月に江戸に帰り帰着報告 その後下旬に報告書提出
全行程86日間の長旅でした。
巡見使3名一行の内訳は、次の通りです。
知行1500石の平岩七之助が、用人黒岩源之八・高橋東五郎以下30人、
知行千石の片桐靭負が、用人土尾幸次郎。橋部司以下30人、
知行500石の三枝平左衛門が、用人猪部荘助。小松原尉之助以下27人
巡見使構成表天保
天保の巡見使構成表

以上の三班で、総員90人になります。この他に平岩七之助の組に5人、片桐靭負の組に4人、三枝平左衛門の組に5人、計一四人の者が同行して、宿舎を共にしていますが、この者がどういう立場の者であったかは分かりません。
巡見使来讃を藩から告げられた鵜足郡の大庄屋は、次の2名を責任者として指名しています。
会計担当 西川津村の庄屋高木左右衛門
引纏役  造田村の庄屋西村市大夫
二人は、大庄屋の十河亀五郎の指示で、前回の寛政年間の御巡見来讃の時に引纏役を勤めた東分村の庄右衛門を尋ねて、その記憶と残されていた記録をもとにして、準備に取り掛かっています。
引纏役の仕事は、次の通りです。
①巡見使の通路を中心にして、道路の整備計画作成
②巡見使の通る岡田西・小川・西坂元・東二・東分・宇足津の六村を中心に、鵜足郡の状況を調査し、通路から見える山や名所、神社仏閣について説明書作成
③藩の政治や民情について、予想される巡見使からの質問に対する想定問答集を大庄屋や藩と協議して作成
④御案内、宿舎係、警備係などの村役人の任務分担表の作成
⑤先行する伊予と阿波で、巡見使の動静調査
①道路整備表 + ②鵜足郡現況説明書 + ③想定問答書 + 村役人任務分担表 + 巡見使の動静調査」と微に入り細にいった仕事内容があったことが分かります。会計については、巡見使がやって来る約2ヶ月前の4月20日に開かれた聖通寺での郡寄合で、村々の分担額が決められています。最終的に造田村の分担は、次のとおりでした。
普請用明俵 679俵(郡全体で6200俵)。
人足 205人
御借上品
布団 32枚(四布(よぬ)20枚、三布12枚)。
蚊帳 5張 水風呂 3本 菓子盆 2
燭台 4台 硯箱 4。浴衣 3枚。
御買上品
木枕 40 炭 40俵
薪 244束。
679俵の空俵は、土を入れて土嚢を作って、岡田西の大川へ板橋を架けることと、宇足津までの街道修理、宇足津の港の一部修理が計画されています。

各村の庄屋と組頭に、巡見使案内の諸役を分担します。
これと同じような分担表を、那珂郡の岸上村(まんのう町)の庄屋奈良亮助も書き残していたことは以前に紹介しました。

巡見使役割分担表1
       那珂郡の諸役分担表の一部(奈良家文書)

 庄屋たちの説明がまちまちになるのを防ぐために、備忘録や想定問答集が作られて庄屋たちには渡されていました。
しかし、実際には夜間の案内であったり、案内の距離が短かったために、巡見使から案文を示され、文書で答えを求められることが多かったことが報告されています。巡見使にしてみれば、江戸に帰ってからの報告書作成のことを考えると文書で預かった方が便利でもあったのでしょう。
作成された鵜足郡の想定問答集は、35項目が挙げています。その内の七か条を見ておきましょう。(御巡見御案内書抜帳「西村文書)

一 畑方、秋夏両度麦納申候。尤銀納勝手次第、其年相庭にて銀納仕候事。但し、田方に作候麦は、百姓作徳に相成候事。

  畑作については、盆前納と十月納で夏成を2度に分けて麦で納めています。納税方法は銀納も可です。但し、水田裏作の麦栽培については、百姓作徳で年貢はかかりません。

一 塩浜近年相増候ケ所も有レ之候。尚又堤切損じ、 築立諸入目等は、塩口銀にて仕候事。塩国銀というは、塩壱俵に付銀三分ずつ納申候。壱俵の升目四斗八升入申候。毎年出来塩多少により、国銀規定無二御座候。
  
 塩田が近頃は増えていますが、堤が切れて修繕が必要な場合に備えて、塩口銀を納めています。塩口銀というのは、塩壱俵について銀三分を納めることです。壱俵の升目は四斗八升入です。毎年の塩生産量により決まるので、口銀額は定まっていません。

一 田地売買作徳米の歩を以て、売買致候。

 田地売買については作徳米の多い少ないによって田地の価格を決め、売買を認めています。
一 検地竿は、六尺三寸のもの用い候。

 高松藩では、寛文検地以後も、六尺三寸の検地竿で実施しています。
一 御家中御成物、先年は三つ四つ御渡し候由、当時は一つ七歩位と承居中候事。

    家中成物(家臣の俸禄米を一定額徴収)については、以前は知行百石について30~40石を渡していましたが。今は一七石程度になっています。
一 御用銀の儀、御勝手向御指支、其上御上京等芳以御入用多候につき、身上相応少々宛御用銀被  二仰付一候。尤無高の者ぇは被仰付無之候事。

  御用銀については、藩の財政支援のために殿様が将軍名代として京都の朝廷に参内するときなどの費用負担として、相応額を納めています。しかし、無高の貧しい者には免除するなど配慮しています。

一 甘藷作の義、当国は用水不自由にて、日畑共少々植付候得共、近頃員数減等被二仰付「全作付柳の義、尚又売捌は多分大坂表え積登候事。

 砂糖生産に必要なさとうきび栽培については、讃岐は水不足が深刻なために、田畑にさとうきびを少々植付けています。しかし、近頃は幕府の削減令もあり、植え付け面積を削減しています。また販売先はほとんどが大坂に積み出しています。

   事前調査で今回の天保の巡見使の巡見テーマが「各藩の特産品とその専売制の調査」と予想していたようです。そのため髙松藩の特産品である塩田と砂糖についての答え方には、特別に苦心を払っていたことがうかがえます。

巡見使の事前動静調査のために、土器村の庄屋代理林利左衛門が、4月末から5月にかけて、伊予の西条方面に出かけて調査しています。その報告書には、伊予各藩のもてなしについて次のように記されています。
①各藩が巡見使のお供の者に金子を贈っていることと、その具体的な額
②巡見使の行列の模様
③三枝様の一行はあの品(金?)を御好みの由
④片桐様御一向は御六ケ敷由
⑤平岩様は温厚にて、御家来向も慎深き由
引纏役の西村市太夫は、旧知の阿波脇町の庄屋平尾平兵衛から書状で阿波の準備状況などを教えてもらっています。
その上で巡見使が脇町に入った6月14日から16日まで三日間は、猪の尻の淡路稲田家の家臣森兵衛方に自ら出向いて「情報収集」を行っています。その方法は、当地の村役人に28か条の質問要項を示すもので、細かい点についてまで回答を得ています。この行動力と入念さには、頭が下がります。庄屋たちのやる事には、綿密で抜かりがありません。
報告書の中の中には、巡見使の従者がひき起こした問題についても、報告されています。
〇阿州南方にて、まんじゅう屋へはいり、段々喰荒し候につき、御郡代には内分にて、村方より十両程、相い手伝遣候由、全体踏荒候哉と被存候。

 意訳変換しておくと
〇阿波の南方では、まんじゅう屋へはいりこみ、無銭で喰荒した事件が起きた。これについては、郡代には内密にして、村方より十両程を、相手方に支払ったという。全体に粗暴である。


○寛政の度、脇町にて御家来より、「当町に磨屋(とぎや)は無之哉」と御尋に付、有之趣返答仕候所、手引致様に申すに付、遊女屋の心得無之、真の磨屋へ手引致候所、「ケ様の所へ連れ越候段不届、手打に致す」と苦り入、漸々、断り致し、銀談にて相済候段、此節の噺に御座侯。

意訳変換しておくと

○前回の寛政年間の折には、脇町で巡見使の家来から「当町に磨屋(遊郭)はないのか」と尋ねられたのに対して、「あります」と答えたところ、「連れて行け」と云われたので、遊女屋については知らないので、本当の磨屋へ連れて行ったところ「こんなところへ連れてきて不届である、手打に致す」ともめて、散々断りしたあげく、銀談(お金)で済ませたとのこと。

江戸では、無頼漢扱いを受けていた渡り仲間が、人足不足のために急に召し出されてお供に加えられた者もいたようです。彼らの行動は横暴・横柄だったようで、巡見一行に対する領民の目は、冷たく、厳しかったことがうかがえます。市大夫も土佐の例をひいて、お供の者が宿舎で酒の振る舞いを受け、婦女子に絡んだことのあったこと、そのため各地で、巡見使の滞在中は婦女子の外出を自粛させている藩があることを述べて、高松藩でも同様の措置をとるように求めています。
 料理については、一汁三菜のほか、うどんやそばを加え、所望があれば酒を供してもよいと述べ、個人的な好みとしては、靭負様が脂濃い物が嫌いで、鮎の筒切の煮付のお平を召し上がらなかったことなども書いています。全く、至れり尽くせりの報告です。武士ではここまでは、気が回らないのではないかとも思います。
 西村市太夫は郷会所元〆に、口頭で次の二点を申し入れています。

土州では、人足が一文字の菅笠、襦祥と下帯を赤色にそろえ、赤手拭で繰り出し、見物人も多く、賑々しく道中したので、巡見使一行に喜ばれたこと。それに対して、阿州では人足の服装もまちまちであって、見物人も制限したので少なく、行列も寂しかった。これについては、巡見使一行が不満であったことを報告して、次のように提案します。「讃岐では、人足の服装を決め、見物人の取締制限を緩めてはいかがか」

もう一つは、大庄屋や庄屋の服装についてです。
髙松藩が大庄屋・庄屋に出した通知書の中に、服装については次のように指示されていました。
一、大庄屋の服装は、羽織袴半股立で草履きとする。(中略) 案内の庄屋の服装は、羽織小脇指に高股立 組頭は羽織だけで無刀で、履き物は草履である。

これに対して西村市太夫は、次のように訴えています
「巡見使の相手をする村役人は、すべて百姓並で、名字も名乗らず、脇指一本で勤めるというのは高松藩だけです。他国では名字帯力を許されているものは、両刀を帯し、名字を名乗って勤めています。巡見使のことは生涯に一度あるかないかの機会であるから、高松藩でも、許されている身分に相当した服装で御相手をすべきではないでしょうか。このことについては、大庄屋などにも相当不満があります」

    巡見使接待については、生涯に一度あるかないかの機会でもあるので、二本差しを認めて欲しいと云うのです。これを見ていると、大庄屋たちは巡見使受入の機会を「ハレの場」と捉え、大名行列に参加する一員になるような気持ちで、晴れがましく思っていたようにも思えてきます。行進やパレードは祭化されていくのが近世のならいです。西村市太夫のめざす方向も、派手目の衣装に人足の衣装も揃えて、見物人を増やして、そこを大名行列のようにパレードする姿を思い描いていたのかもしれません。そこに自分も二本差しで参加できれば本望ということでしょうか。しかし、両方の願いとも髙松藩が取り上げることはなかったようです。そして、幕府の巡見使派遣は、天保のものが最後となりました。
巡見使 讃岐那珂郡ルート
幕府巡見使 那珂郡から鵜足郡へ
6月18日に、巡見使一行は丸亀領に入ります。
その日のうちに苗田村からの飛脚使は、20日に予定されている岡田西での引継ぎは、夜になると思われるから、提灯の準備をするようにという連絡が大庄屋に届けられています。市太夫は人足に指示して、明松約600を用意し、岡田西村、小川村、西坂元村、東二村、東分村、宇足津村の六か村から、人足約300人を招集して、弓張提灯百張と三十目掛の蝋燭も準備しています。

巡視使讃岐視察ルート
巡見使の讃岐での巡見スケジュールと宿泊所

 前日の6月19日の夕方に村役人と人足は、岡田西村に集まり、四、五軒の民家を借りて分宿しています。
そして翌日、土器川の川原に集まって最後の打合せしてから、それぞれの持場で待機します。巡見使一行が、那珂郡の村役人と人足に案内されて、垂水から川原に着いたのは、予想通り暗くなってからでした。引継ぎは、等火と明松の明かりの中で行わます。大庄屋の十河亀太郎と、引纏役の西村市大夫と高木庄右衛門が出迎え、挨拶します。村役人が、駕籠や馬や徒歩の侍衆に付き添って御案内に立ちつのを、人足が明松で遠くから道を照らします。村役人は提灯で足元を確かめながら、行列は次々に宇足津へ向かって出発します。具足櫃と行李に茶弁当、両掛や合羽籠などの荷物は、仲間や小者などの厳しい注文を受けながら、人足が一歩一歩と、暗やみの中を宇足津まで運びます。

宇多津街道5
垂水からの宇多津街道
 村役人と人足が加わった、400人に近い一行は、三隊に分かれて、法式どおりの行列を組んで、2里20町余りの宇多津街道を進んで行きます。途中、西坂本村で休憩、湯茶と餅のもてなしを受けています。この日に備えて、領内の鉄砲はすべて庄屋宅に集められ、沿線一帯は、厳しく警戒されていました。

宇多津街道4
宇多津街道

 宇足津には、出迎える側の高松藩の御奉行・郡奉行・代官・船手奉行・作事奉行が宿泊しており、丸亀藩と塩飽の役人も宿泊していました。そのため宿も、数多い寺も、商人の家も、みな宿舎に充てられていす。不寝番が立ち、万一の火事に備えて百人の火消し人足が待機していました。この火消し人足の指揮をとったのは、造田村の組頭丹平と沢蔵でした。

宇多津 讃岐国名勝図会3
宇多津

 翌日21日は、塩飽に向かう日です。
巡見使の宿から船場までの「御往来共揚下見計人」(交通整理役?)は、造田村の庄屋代理太郎左衛門が務めています。その夜を塩飽で送った巡見使一行は、高松藩の船手に守られて塩飽諸島を巡見し、22日夕方には、再び宇足津に帰着して一泊します。
23日朝、宇足津を出発して阿野郡北に向かう巡見使一行を、郡境の田尾坂まで見送り、四日間にわたった、鵜足郡の巡見使への奉仕は終わりました。
巡見使受入にかかった費用は、藩から出されるのかと思っていましたが、そうではないようです。全額を各村が分割して負担しています。
造田村の巡見使受入負担金


造田村の負担銀は、総額5貫181匁8分5厘(イ・ロ・ハ・ニ)になります。これを決算すると、十石高につき8匁8分8厘の負担になります。高一石を一反歩あたりにすると約3000円になるようです。金一両(75000円)=銀六〇匁のレートで計算すると、銀一匁は約1250円になります。一反歩について、3000円強の負担となります。これらの計算が簡単にできないと、当時の庄屋は勤まりません。大棚の商家には、駄目な若旦那が出てきますが、庄屋には出てこないのはこういう役目がこなせる人間を育成したからでしょう。当時の算額など学んでいたのも、多くは庄屋層の若者だったことは以前にお話ししました。

 すべての業務を整理し終わってから西村市太夫と高木庄右衛門は、大庄屋両人に対して、次回に向けた改善点を次のように報告しています。(御巡見御案内総人数引纏取扱の様子理現記一西村文書)
御取扱の場所等動方心得の事(要約)
①遠見(斥候)を、苗田・金毘羅・榎井・四条と、二人ずつ四組出しておくこと。
②郡境案内の庄屋を三人ほど増員すること。
③予備の人足を50人、川原へ待機させておくこと。
④明松の数を、今回の600挺から200挺ほど増すこと。
⑤大蝋燭、中蝋燭200挺位用意すること。
⑥縢火・松小割を30束増すこと。
⑦質問されたことについては、想定問答集に基づいて答えたが、今後は、案内人の器量次第で答えることが多くなると思われること。
⑦夜番に立った百姓や村役人は、翌日の勤務を免じること。疲労のため失敗すると、大変である。
高松藩でも、巡見使がどのようなことを尋ねたか、それに対して村役人がどう答えたかは、大きな関心があることでした。案内の村役人全員から報告を求めたようです。市太夫の代役を務めた西村安太郎が、8月8日付で、大庄屋に報告した報告書の控えが残っています(西村文書)
口上
一私儀、六月十日御巡見の砌、岡田西村郡境より、三枝平左衛門様御案内仕、宇足津村御宿広助方迄罷越候所、御道筋岡田西村にて、是より御茶場迄道筋何程有之哉と御尋に付、 是より壱里計御座候と申上候。尚又御茶場より宇足津村迄何程有之哉と御尋に付、壱里廿丁計御座候と申上候。
一 二十一日御宿より塩飽島へ御渡海の節、御船場迄、御案内仕候。
一 二十二日塩飽島より御帰りの節、御船場より御宿広助方迄、御案内仕候。
一 二十三日阿野郡北郡境迄、御案内仕申候。
右の通御案内仕中候。外に何の御尋も無御座候。右の段申止度如斯に御座候以上。
八月五日                     西村安太郎
官井清七様
十河武兵衛様

意訳変換しておくと
6月20日の巡見の際には、岡田西村郡境から、三枝平左衛門様を案内そて、宇足津村の宿である広助方まで参りましたが、その道筋の岡田西村で「ここから茶場までの距離はどのくらいか」と尋ねられました。これに対して「ここからは一里ほどです」とお答えしました。また茶場より宇足津村までは、どのくらいかと尋ねられましたので、「一里二十丁ばかりですとお答えしました。
21日は、宿から塩飽島へ渡海の時に、船場まで案内しました。
22日は、塩飽からの帰りの時に、船場より宿の広助方まで案内しました。
23日は、阿野北郡の境まで、案内しました。
これらの案内中には、何のお尋ねもありませんでした。以上を報告します。
8月5日                     西村安太郎
官井清七様
十河武兵衛様

大庄屋は、案内係を務めた全員の質問・応答内容を提出させてチェックしていたことがうかがえます。
高松藩の江戸屋敷でも、次後の政治的工作を怠らなかったようです。琴南町の長善寺の襖の裏張の中からは、約20枚の高松藩江戸屋敷日記が発見されています。その中には次のように記されています。
七月二十九日
一 御講釈御定日の事
一 平岩七之助様 片桐靭負様 三枝平左衛門様の御方御巡見御帰府に付、為御歓御使者御中小姓分                              堀 葉輔
右相勤候。
ここからは、髙松藩江戸屋敷から帰着した巡見使3名に慰労のための使者を遣わしていることが分かります。化政時代の後を受けて、「世は金なり」と賄賂が横行していた天保年間の御時勢です。財政窮迫の高松藩でも、この御使者は「手土産」持参だったことが推測できます。巡見使の将軍に対する報告書の提出締切日は、8月21日でした。

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