瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:麻近藤氏

中世の瀬戸内海の海運活動では、為替決済が行われていたことは以前にお話ししました。
古代には、地方の人々は指定された特産物を中央の支配者に直納していました。しかし、中世になるとモノではなく銅銭(カネ)で納入するようになります。地方の人々が産物を販売して得た銅銭を支配者に送付し、支配者の方は入手した銅銭で必要な物を中央で購入するようになったのです。これは、社会的分業と交換が進展していたことを意味します。
 それなら「銅銭建て納入」ということで、瀬戸内海を大量の現金を積んだ船が行き交ったのかというとそうではないようです。これは輸送リスクが大きすぎます。そこで登場するのが「為替」です。商人が地方で銅銭と交換するかたちで放出した為替文書を荘園が購入し、それを領主に送付し、領主が中央で換金するという仕組みが生まれます。それが実際にどのように運用されていたかを今回は見ていくことにします。
『厳島神社蔵反古裏経紙背文書』は、本山寺の本堂が建立された1300年頃の文書で、京都方面と歌島(今の尾道市向島)との間でやりとりされた手紙が中心です。

反古裏文書(紙の裏に書かれた書面)
紙は貴重品だったので、片方だけ使って捨てたりせずに、先に書いた文書を反故(ほご。ひっくり返して無効化)として、裏面に新たな文書を書いて利用していました。反故にされるような内容なればこそ、日常的な生活のリアルな情報が記録されているともいえます。宮島の反故文書には、多くの為替記事があるようです。それを見ておきましょう。中世の為替は、次の2種類に分けられます。

①「原初的替銭のしくみ」
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)
替米

為替取引とは、遠隔地間の貸し借りを決済するのに、現金の輸送ではなく、手形や小切手によって決済する方法のことです。日本で最初の為替取引は、「替米(かえまい)」と言われています。「替米」は、遠隔地に米を送るのに、現物の代わりに送る手形のことです。中世になると為替取引が発展し、鎌倉時代には将軍に仕えた御家人が鎌倉や京都で米や銭を受け取る仕組みとして為替取引が行なわれるようになります。
為替

 この場合、為替をやりとりする者同士には信頼関係があることが前提になります。この信頼関係をもとに、文書が次の人へと手渡されていき、その上で最終的な払出人と文書の持参人の間にも信頼関係がある場合に、払い出しが行われます。しかし、このシステムでは、払出人が為替を持ってきた人を知らない場合には、支払いは行われません。
そこで②「割符」というシステムが登場します。
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)

このしくみでは、最終的な払出場面のおいて信頼関係がない(払出人が持参者と面識がない場合)でも払い出しができます。なぜならば、振出人が割符を振り出す際に、「もう1つの紙切れ」との間で割印を施しておき、その「もう1つの紙切れ」の方を振出人自身(あるいはその関係者)が直接払出人に持ち込めば、払出人は割符と片方文書との割印が合致すものを見て、面識のない持参人が持参した割符が本物であることを確信できるからです。この「もう1つの紙切れ」のことを、片方(カタカタ)と呼んだようです。

SWIFT動向(ISO20022)について | 2021/10/27 | MKI (三井情報株式会社)
割符屋の役割と割符発行

この2つの為替システムの併用版が、「明仏かゑせ(為替)に状」(『鎌倉遺文』24368号文書)に次のように登場しています。

ひこ(備後)の国いつミ(泉)の庄よりぬい殿かミとのヽ御うちへまいる御か□せ(為替)にの事
合拾貫文者吐参貫文上、(花押)
右、件御かゑせ(為替)に、このさいふ(割符)ふミたうらい三ヶ日のうち、この御つかいに京とのにし□こうちまちのやと(宿)にて、さた(沙汰)しわたしまいらせられ候へく候、
さいふ(割符)のなかにも、せに(銭)のかす(数)を□(か)きつけて候、御うた(疑)いう候ましく□、例かゑ(為)状如レ件、
応長元年七月十二1日         明□(仏))
よと(淀)のうをの市次郎兵衛尉殿

意訳変換しておくと
備後国泉の庄のぬい殿からヽ御うちへまいる御か□せにの事
拾貫文者吐参貫文上、(花押)
右、件御かゑせ(為替)に、このさいふ(割符)ふミたうらい三ヶ日のうち、この御つかいに京とのにし□こうちまちのやと(宿)にて、さた(沙汰)しわたしまいらせられ候へく候、さいふ(割符)のなかにも、せに(銭)のかす(数)を□(か)きつけて候、御うた(疑)いう候ましく□、例かゑ(為)状如レ件、
応長元年七月十二1日         明□(仏))
よと(淀)のうをの市次郎兵衛尉殿

 ここからは現在の広島県庄原市にあった備後泉庄から京都の領主に送金するために、為替つまり替銭が利用されたことが分かります。最後に登場する「明仏」は、備後国の金融業者で京都の荘園領主とは面識はなかったかもしれません。あるいは、面識があったので、荘園領主から現地での年貞の取立をまかされていたのかもしれません。それについては、これだけでは分かりません。
 この文書の背景には、次のようなやりとりがされています。
①荘園の使者(oR領主)は、備後国で明仏に10貫文(銅銭1万枚)を支払う。
②これに対して明仏は、京都綾小路の宿での払い出しを、淀の魚市次郎兵衛尉に委託する文書である「替状」を使者に渡す。
③その後、使者は淀まで行って魚市次郎を訪ね、京都の錦小路での払い出しを受ける。
④そこで使者は、備後での人金分10貫文を京都で入手する。
ちなみに、当時の米1石の値段が大体1貫文だったようです。10貫文は、米10石に相当します。当時の米10石は、平安時代末期の基準で考えれば、今の米6石(米900 kg)で、現在の米価格を10 kg=4000円で計算すると、10貫文は現在の36万円相当になるようです。
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   ただし、今は米の価値が昔に比べて下がってしまいました。当時の米10石は、もう少し当時は値打ちがあったと研究者は考えています。
 もう一度史料を見てみましょう。この時に3貫文分の割符が同時に送られています。これはどうして分けて発行しているのでしょうか。その3貫文分は魚市次郎が割符屋に持ち込んで、片方文書との間で施された割印が、割符の割印と合致すれば、換金が可能です。割符の方はそれでいいのでしょうが、問題は残り10貫文の方です。これは知らない人間には払い出せないというしくみのはずです。魚市次郎は安心して払い出すことができるのでしょうか。それとも、明仏の書いた文書(替状)を持参してきた使者と面識があったのでしょうか。

この問題について、研究者は次のように考えていきます。
①もし面識があるならば、使者の実名が記されていれば十分で、文書の中に備後国云々まで書く必要はない。
②「御うたかい候ましく」とあるのは、逆に疑わしかった証拠。使者が本当に荘園の使者なのかどうか分からなかった。
つまり、魚市次郎と使者には面識がないことになります。にもかかわらず、明仏が払出の依頼をできたのはなぜでしょうか。

この謎を解く手がかりは、替状と割符とが一緒に送られている事実にあると研究者は指摘します。
つまりこの替状は、単独で持ち込まれたのでは本物かどうか分かりません。しかし、魚市次郎のところに同時に持ち込まれた割符が割符屋で木物と判断されて払い出されれば、魚市次郎は割符屋を通じて、割符主が明仏と取り引きをしたかどうかが確認可能になります。たとえその確認ができなくても、魚市次郎は、筆跡からみても自分の知り合いの明仏のものと思えるその文書は、やはり本物だろうという判断がしやすくなります。
 このように明仏は、魚市次郎に見知らぬ使者に対する払い出しを依頼する際に、額面10貫文の割符を調達できない場合でも、当面入手可能な3貫文の割符を入手して替状に添えて送れば、魚市次郎は払い出してくれるはずだと考えたのです。ようするに、この割符は、持参人と払出人との間の信頼関係がないばあいには機能しない「原初的替銭」に対して、その「弱点」を補完するために利用されているということになります。

こうしてみると、1300年代初めには、為替はさらに進化していたことが分かります。
瀬戸内の物流を担う商人たちが活動するなかで、それを支える金融業者が各港に現れ、円滑な資金移動を支える金融ネットワークが形成されていたことになります。為替が瀬戸内海を結ぶ遠隔地交易の発展を促していたとも云えます。
 為替文書が、交易商人によって生み出されます。最初は「疑わしい紙切れ」だったかもしれません。それを瀬戸内の物流活動が「有価文書」に成長させ、さらには紙幣へと発展せしめることになると研究者は考えています。
 1500年以降に割符はいったん消滅するようです。為替の発展と紙幣の登場は直線的ではないようです。しかし、中世の為替システムは、大きな視点で見ると日本金融のスタートとも云えるようです。

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大野祇園神社(三豊市山本町)

最後に讃岐三豊市山本町にあった大野荘で使われていた為替システムを見ておきましょう。

大野庄は、京都祇園宮の社領でした。そのため京都祇園宮の牛頭天王(須佐之男命)が産土神と勧進され、毎年本宮の京都祇園宮へ燈料として胡麻三石を供進していたようです。『八坂神社記録』(増補続史料大成)(応安五年(1372)十月廿九日条)には、次のように記します。
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。

意訳変換しておくと
讃岐の西大野から伊予房が上洛してきた。今年の年貢は二十貫だという。この内の一貫は讃岐での必要経費、又一貫は上洛にかかる経費で差し引くという。伊予房とともに近藤氏の代官が同道して、割符は運んできた。しかし、今日は近藤氏の役人は所用で来れないので、明日諸事務を行うつもりだと伊予房から報告を受けた。

 八坂神社は、京都の祇園神社のことです。一行目に「西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々」とあります。ここからは祇園神社に納められる年貢は二十貫で銭で納めていたことが分かります。
  伊予房という人物が出てきます。この人は八坂神社の社僧で、西大野まで年貢を集めに来て、京都に帰ってきたようです。年貢がスムーズに納められれば取り立てにくることはないのですが、大野荘の現地管理者がなかなか年貢を持ってこないので、京都から取りに来たようです。その場合にかかる旅費などの経費は、年貢から差し引かれるようです。
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大野祇園神社(須賀神社と八幡神社の2つの社殿が並んでいる)

「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」とある近藤という人物が西大野荘の代官です。

近藤氏は、麻城主(高瀬町)城主で、麻を拠点に大野方面にも勢力を伸ばしていた地元の武士です。大野荘の代官である近藤氏が「際符(割符:さいふ)」で年貢を持参して一緒に、上洛してきたようです。
ここまでを整理すると、
①荘園領主の八坂神社の 伊予房が、年貢を取り立てに大野荘にやってきた。
②そこで代官近藤氏が「際符(割符)」で、京都に持参した。
  ここからは、麻の近藤氏が「割符」で八坂神社に年貢を納めていたことが分かります。この割符は、観音寺などの問屋が発行しことが考えられます。その「割符」を、近藤氏の家臣が伊予房と同道して京都までやったようです。祇園社は、六条坊内町の替屋でそれを現金に換えています。
「際符(割符)」には、次のようなことが書かれていたと研究者は考えています。
①金額 銭20貫文
②持参人払い 近藤氏
③支払場所 京都の何町の何とか屋さんにこれを持って行け
④振り出し人の名前
 ちなみに大野荘の代官を務めた近藤氏は、その後押領を繰り返すようになり、荘園領主の八坂神社との関係は途切れていったようです。

参考文献 井上正夫 中世の瀬戸内の為替と物流の発展 瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会)
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『八坂神社(祇園社)記録』(増補続史料大成)
 (応安五年(1372)十月廿九日条)
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。

前回は、この史料から京都の祇園社(八坂神社)の社領となっていた大野荘(三豊史山本町)の代官が年貢を手形で決済したことを見ました。今回は大野荘の管理にあたっていた武士をを追いかけてみます。
「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」
とあります。ここからは「際符=手形」を近藤氏の家臣が、八坂神社から年貢督促のために派遣された社僧伊予房と同道して上洛したことがわかります。そして、大野荘の管理を行っていたのが近藤氏であったようです。
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 室町時代に応仁の乱で活躍した武士の家紋を集めた「見聞諸家紋」には「藤原氏近藤、讃岐二宮同麻」とあって、室町期には二宮、麻のふたつの近藤氏がいたことが分かります。
①二宮近藤氏は、大水上神社領を中心とする二宮荘を根拠地
②麻近藤氏は、麻を拠点に勝間、西大野に所領を持っていた
この史料に出てくるのは②の麻近藤氏のようです。
近藤氏がどのように「押領」したのかを年表で見ておきましょう。
讃岐守護の細川氏の下で、北朝方として活動していたようです。
1354 文和3 8・4 
幕府,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田における新宮三位房の濫妨停止を,守護細川繁氏に命じる
1355 文和4 7・1
守護細川繁氏,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田の下地を祗園社執行顕詮に打渡すよう,守護代秋月兵衛入道に命じる
同年7・4近藤国頼,祗園社領西大野郷の年貢半分を請負う
1361 康安1 7・24
細川清氏,細川頼之と阿野郡白峯山麓で戦い,敗死する.
 10・- 細川頼之,讃岐守護となる
1363 貞治2 8・24 
足利義詮,祗園社領三野郡西大野郷における近藤国頼の押領停止を,守護細川頼之に命じる
14世紀半ばの祇園社領大野郷では、新宮三位房による濫妨(乱暴)が行われており、これに手を焼いた祇園社は幕府に訴え出ています。この訴えに対する幕府の対応は、新宮三位房を排除し、代わって麻の近藤国頼に代官職を任せるというものでした。これが近藤氏の大野郷進出のきっかけとなったようです。
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近藤氏の麻城へ「たけのこ道」を行く
 しかし、その8年後の貞治二(1363)年には、近藤国頼は祇園社に訴えられ「押領停止」を、命じられています。これを命じているのが新しく讃岐守護になった細川頼之です。この時期から近藤氏による「押領」は始まっていたようです。そして、その後も八坂神社と国頼の争いは続きます。

1368 応安1 6・17 守護細川頼之,祗園社領西大野郷の下地を領家雑掌に打渡すよう,守護代細川頼有に命じる. 
   9・20 守護代細川頼有,重ねて祗園社領西大野郷における近藤国頼代官の違乱を止め,下地を領家雑掌に打渡すよう,守護使田村弥三郎入道・大庭六郎左衛門入道に命じる
1369 応安2 9・12 守護細川頼之,祗園社領西大野郷所務職を近藤国頼に宛行うよう口入する.
  12月13日,祗園社領西大野郷所務職を近藤国頼に宛行う
応安元(1368)年、細川頼之は調停に乗り出します。領家職の下地を渡付するように近藤国頼に守護使を通じて命じます。その一方で翌年に頼之は、国頼の言い分にも耳を傾け、近藤国頼の代官職継続をはかります。国頼は年貢の三分の一を代官得分とするという条件で代官職請負契約を結んでいます。

細川頼之1

 この文書の端裏には「矢野左衛門口入大八色云し」とあり、矢野遠村の仲介で近藤氏と八坂神社の和解がおこなわれたことがうかがえます。守護の細川頼之が近藤国頼の権益確保を図ったのは、当時の讃岐をめぐる軍事情勢が背景にあった研究者は考えているようです。

細川頼之4略系図
当時の政治情勢を年表で見ておきましょう。
1371 応安4 三野郡西大野郷,大旱魃となる
 1372 応安5 伊予勢(河野軍)侵入し,讃岐勢は三野郡西大野郷付近に布陣
1377 永和3 細川頼之,宇多津江(郷)照寺を再興
1379 康暦1 3・22 細川頼之,一族を率い,讃岐に下る
 諸将,足利義満に細川頼之討伐を請い,義満は頼之の管領を罷免
1388 嘉慶2 この年 幕府,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田の役夫工米の段銭を免除
1389 康応1 3・7 守護細川頼之,厳島参詣途上の足利義満を宇多津の守護所に迎える
1392 明徳3 3・2 守護細川頼之没し,養子頼元あとを嗣ぐ
伊予河野氏が西讃に侵入してきた
 細川頼之が調停に乗り出した応安元(1368)年は、後村上天皇が亡くなり南朝が吉野に拠点を移し、南北間の抗争が再燃する時期です。細川頼之にとって、予想される伊予との抗争に備えて、西讃の武将達との関係強化に努める必要がありました。
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 伊予の河野氏は、一時的には九州に逃れていましたが、この年に伊予に戻り、南朝方として反撃を開始します。そして応安五(1372)年には、讃岐に侵攻し、大野郷に布陣するのです。先ほど見た祇園社への年貢が手形で納められたのは、この年のことなのです。近藤氏にとっては、まさに寺領が他国者によって踏み荒らされる状況でした。

DSC05491麻城

一方讃岐守護の細川頼之は、管領として河内・伊勢等での南朝軍との転戦で、地元讃岐に援軍を派遣できません。讃岐の武将達は苦しい戦いを強いられます。にもかかわらず近藤氏ら西讃の武将達は、侵入してきた伊予軍を大野荘近辺で迎え撃って、そこからの進軍を許しませんでした。ある意味で細川頼之の「恩=土地」に対し、近藤国頼が「忠=軍事力」で「奉公」し、「一懸命」を実践する時だったのかもしれません。 
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その後、讃岐細川方は攻勢に転じて、逆に伊予領内に侵入していきます。
①応安八(1375)年に伊予三島社に細川頼之の願文が納められていること
②永和三(1377)年に伊予府中の能寂寺に細川頼之が禁制が出していること
などから讃岐勢力が、伊予の府中あたりまでを勢力圏にしていたことが分かります。
細川頼之 54
西条周辺までが細川氏の支配領域に含まれている

以上をまとめておくと、
①当時の讃岐は、伊予河野氏と抗争中で、そのためにも近藤氏のような西讃の国人を掌握しておく必要があった。
②その一貫として、細川頼之は大野荘をめぐって対立していた近藤国頼と八坂神社の間を取り持ち、調停した
となるようです。

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伊予との「臨戦状態」の中でも、大野荘は京都の八坂神社に対し、年貢、灯油、仕丁を負担したことが『八坂神社記録』の応安四年と五年の両年の記録に記されています。灯油は現物で祇園社に納めています。これは西大野郷内の名(地区)ごとに徴収されたものです。また、祇園社に労役として奉仕する仕丁も近藤氏は出していますが、それがしばしば逃亡しており、その都度、祇園社は近藤氏に通報しています。近藤氏は、祇園社と対立をはらみながらも、祇園社への宗教的な奉仕は果たしていたようです。
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 室町期の近藤国房
 近藤氏の菩提寺である財田の伊舎那院からは
「大平三河守国房法名道覚 応永元年七月二十四日」
と没年を書いた竹筒が出土しています。これは麻近藤氏の国頼の次の世代の当主・国房のことだと研究者は考えているようです。
 また、讃岐国内の段銭徴収の際に、金蔵寺領名主、沙汰人に対し、段銭徴収方式を条々書にしている文書があります。段銭は一段当たり三〇文が徴収されており、寺社領、御料所、同所々人給分も除外しないなどの事柄が記されています。この中には近藤国房が守護細川氏の使者としてこの旨を申し入れたことが記されています。細川氏の讃岐家臣団の中で、近藤氏がある程度の立場にあったことが分かります。
 国房の居城については『西讃府志』には、知行寺山城(現山本町大野・神田)の城主として大平伊賀守国房の名前が記されています。この城を根拠地として西大野郷を支配していたのかもしれません。
 ところが明徳四(1394)年に、国房は西大野郷を押領した罪に問われて、所領を没収されてしまい、その翌年に死去します。今まで見てきたように近藤氏の大野郷への「押領」は、昔から続いてきたことなのに、なぜこの時には「所領没収」という厳しい処分が出たのでしょうか。今の私には分かりません。
 国房の次の当主・国有は、西大野の上村を領有したといいます。
「大野村両社記」には、大野は上下に分かれ、下村は祇園社の負担に応じなかったと記します。上村については、麻近藤氏を通じ年貢が納入されたようです。文安三(1446)年には、麻近藤氏にあてて、10貫文の受け取りが祇園社から出されています。年貢額が70年前の応安年間の半額になっています。荘園領主側の立場の弱体化がここにもうかがえます。しかし、半額にはなっていますが麻近藤氏が年貢を、祇園社に送り続けていることがうかがえます。以前見た長尾の荘では、14世紀に入ると醍醐寺三宝院には未払い状態が続いていたことを思い出すと対照的です。それだけ、国房の時の西大野押領による領地没収処分がの効き目が継続していたのかもしれません。別の視点からすると祇園社の方が幕府への影響力が強かったのかもしれません。あるいは、大野郷に勧進された祇園社への信仰が高まり、それが本社への「納税」を自主的に行う機運を作り出すようになったのかもしれません。単なる想像で裏付けの史料はありません。 
 国有の時代は、所領を没収され経済的にも苦しい状況に近藤氏は追い込まれていたようです。
この時代にこんな讃岐侍の話が広がりました。
「麻殿」という讃岐の武士が京都で駐屯していた。「麻殿」は貧しいことで知られ、「スキナ」を「ソフツ(疎物)」としていた。人々の嘲笑をかっていることを知った麻氏は
「ワヒ人ハ春コソ秋ヨ中々二世の「スキナノアルニマカセテ」
という和歌を詠んだ。これに感じ入った守護細川満元は、旧領を返還した。田舎者と馬鹿にされていたが、和歌のたしなみの深い人物であった。
というのです。
ここからは次のような事がうかがえます
①近藤氏のような讃岐武士団が細川氏に従軍し、京都にも駐屯していた。
②京での長期間の駐屯で、教養や遊興・趣昧など教養を身につける田舎侍も現れた。
③「旧領返還」されたのは、大野の代官職のことか?
④ 細川満元の時代とあるので、麻近藤氏の国有が最有力。
それを裏付けるように、
①享徳三(1454)年に、足利義政から近藤越中守(麻近藤氏)に対して、西大野郷代官職と勝間荘領家職の安堵
②文明五(1473)年には、祇園社から十年契約で、二〇貫文の年貢を請負
とが記録されています。これが、かつて没収された「旧領の返還」だったのかもしれません。
 その後の近藤氏は・  
 応仁の乱で活躍した武士の家紋を集めた「見聞諸家紋」に麻近藤氏のものが見えます。また、細川政元の命で阿波・讃岐の兵は、伊予の河野氏を攻撃します。この戦いに麻近藤国清も参加していましたが、戦陣中に伊予寒川村で病死しています。
近藤国敏は阿波三好氏と連携強化
 その次の国敏は、阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化します。これが近藤氏衰退のターニングポイントになります。近藤氏が阿波三好氏と結んだのに対して、西讃岐の守護代として自立性を強めていた天霧城の香川氏は織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます
    織田信長=天霧城の香川氏  VS 阿波の三好氏=麻近藤氏
この結果、敗れた三好側についた近藤も所領を没収されます。それが香川氏配下の武将たちに与えられたようです。近藤氏の勢力は、この時期に大きく減退したと考えられます。
 近藤氏の没落 
 そして、長宗我部元親の讃岐侵攻が始まり、讃岐の戦国時代は最終段階を迎えます。麻城は、侵攻してきた長宗我部の攻撃を受け落城したと伝えられます。近藤家の城主国久は、麻城の谷に落ちて死んだと伝えられ、その地は横死ヶ谷と呼ばれています。
 高瀬町史には長宗我部元親の家臣に与えられた所領に麻、佐股、矢田、増原、大野、羽方、神田、黒島、西股、長瀬といった近藤氏の所領が記されていることが指摘されています。近藤氏は長宗我部元親と戦い、所領を失ったようです。その所領は土佐侍たちに分け与えられ、土佐の人々が入植してきたようです。その後の近藤氏の様子は分かりません。しかし、近世の神田村に神主の近藤氏、同村庄屋として近藤又左衛門の名が見えます。近藤氏の末裔の姿なのかもしれません。

以上を、私の想像力交えてまとめておくと次のようになります
①麻地区を拠点としていた近藤氏は、14世紀半ばに京都祇園神社の大野荘の代官職を得ることによって大野地区へ進出した
②讃岐守護の細川頼之は近藤氏など西讃地方の国人侍と連携を深め、伊予勢力の侵攻を防ごうとした。
③そのため伊予勢力の圧迫がある間は、細川氏は近藤氏などを保護した。
④大野荘から京都の祇園神社に年貢が手形で運ばれたのもこのような伊予との抗争期のことである。
⑤この時期から荘園領主の祇園社と代官の近藤氏の間では、いろいろないざこざがあった。しかし、伊予との緊張状態が続く中では、細川頼之は祇園社からの訴えを聞き流していた。ある意味、近藤氏にとってはやりたい放題の状況が生まれていたのではないか。
⑥平和時になって、これまで通りの「押領」を続けていたが「所領没収」の厳罰を受ける。
⑦この処罰の効果は大きく、以後近藤氏は15世紀後半ころまで、年貢を祇園社に納め続けている。
⑧大野郷と祇園社は近世に入っても良好な関係が続く背景には、近藤氏の対応があったのではないか。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 高瀬町史

                          

       
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大野の須賀神社(祇園さん) 
前回は年貢計算書でしたが、今回は手形決済です。年貢を手形決済で行ったのが大野荘です。大野荘は、財田川が山域から平野部に流れ出す三豊市山本町の扇状地に開けた地域で、洪水に苦しめられた所です。ここは京都祇園宮の社領でした。荘園ができると、本領の神々が勧進されるのが常でした。大野郷では京都祇園宮の牛頭天王(須佐之男命)を産土神と勧進します。香川郡に大野があるので、これと区別するために西大野と呼ばれたようです
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大野郷の祇園神社
 貞享5(1688)年の当社記録『大埜村両社記』には
「古老相伝ヘテ曰夕、昔牛頭天皇アリ。光ヲ放チテコノ山上ノ北二飛ビ来タル。其所今現ニアリ、コレニヨリ宮殿ヲカマエ、コレヲ祀ル」

とあります。毎年京都の祇園宮への王経供養のための御料として指定されてからは、隆盛を極めたようです。

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『大埜村両社記』には
「大埜地五百石ヲ以テ社領二付シ、七坊ヲ割テ神事ヲ守ル。富栄知ル可キナリ。大社タルヲ以テ毎歳洛ノ祇園ヨリ燈料胡麻三解ヲ課ス
とあり、毎年本宮である京都祇園宮へ燈料として胡麻三石を供進していたようです。今も、この胡麻を収納したと思われる字上岡・字上川原・字南川原の三ヵ所に塚が残っています。
  この程度の予備知識を持って「八坂神社記録」を見てみましょう。
『八坂神社記録』(増補続史料大成) (応安五年(1372)十月廿九日条)
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。
 八坂神社は、京都の祇園神社のことです。14世紀後半の南北朝時代の記録になります。一行目に
  「西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々」
とあります。ここからは祇園神社に納められる年貢は二十貫で銭で納めていたことが分かります。前回見た長尾荘が醍醐寺三宝院に納めていたのは、米麦の現物納入でしたから、こちらの方が進んでいたようです。
ぜに 

 銭一貫=銭千枚ですから納めるべき年貢は銭二万枚です。当時の銭は、日本では鋳造されずに中国の宋銭や明銭を海外交易手に入れて、国内で「流用」していました。そのため何種類もの中国製銅銭が流通していましたが、どれも同価値扱いでした。重さは、十円王より少し重くて一枚五グラム程度です。そうすると、2万枚×5グラム=100㎏になります。100㎏の硬貨を讃岐から都まで運ぶのは、現在でも大変です。
 そこ代銭納の登場です。これは年貢を現物で納めるのに対して、銭で納めることです。しかも、実際には実物の銭は動きません。手形決済システムなのです。
  伊予房という人物が出てきます。
この人は八坂神社の社僧で、西大野まで年貢を集めに来ています。年貢がスムーズに納められれば取り立てにくることはないのですが、大野荘の現地管理者がなかなか年貢を持ってこないので、京都から取りに来たようです。その場合にかかる旅費などの経費は、自分で払うことになります。
「今年年貢当方」で、八坂神社に納められる分は二十貫。
「この内一貫在国根物」とあり、「根物」というのは必要経費です。つまり、食事をしたり、泊まったりというその必要経費に一貫を使いました。
「又一貫上洛根物に取ると云々。」 
これは上洛、つまり都に運ぶ費用になります。ですから合計二貫文が引かれ、都合十八貫文になります。その後に「この際符」という聞き慣れない言葉が出てきます。後に見ることにして先に進みます。

「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」

近藤という人物が西大野荘の代官
です。近藤氏は、麻城主(高瀬町)城主で、麻を拠点に大野方面にも勢力を伸ばしていた地元の武士です。大野荘の代官である近藤氏が「際符」で年貢を持参して一緒に、上洛することになったようです。ところが、
「今日近藤他行、明日問答すべきの由伊子房申す」
とあり、どうやら今は近藤氏がどこかへ行って不在であるので、明日協議を行うことになったといいます。
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ここまでを整理すると、
①この年は荘園領主の使が、十八貫の年貢を取り立てに大野荘にやってきた。
②そこで代官近藤氏が「際符」で、京都に持参することになった。
  さて「際符」とは、なんでしょうか?
「際符」は正式の名称は割符と書いて「さいふ」と読むそうです。「さきとる、さく」という意味で「さいふ」となります。符というのは札の意味で、今の為替と同じです。この時代は「加わし」と呼んでいたようで、それが「ためかえ」で、「かわせ」に変化していくようです。ここでは「際符=為替」としておきます。つまりは、「遠隔地取引に用いられる信用手形」=「手形決済」です。この時代すでに讃岐の西大野と都の間では、手形決済が行われていたことになります。
それでは、この手形は誰が発行したのでしょうか?
また、どうやって換金したのでしょうか?
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「際符」は、運送業者を兼ねた商人である問丸が地方の荘園で、米・麦などの年貢を購入し、代金相当の金額と京都・山崎・堺などの替屋(割符屋)の名を記した割符を荘官に発行します。荘官は、都の荘園領主のもとへ割符を届け年貢の決済を行うというシステムのようです。荘園領主は受け取った「際符」を替屋に持って行って支払日の契約を取決め、裏書を行い(裏付け)を行い現金化したようです。
 この時も讃岐財田大野で問屋が発行した「際符」を、近藤氏の家臣が伊予房と同道して京都までやってきたのです。祇園社は、六条坊内町の替屋でそれを現金に換えています。
「際符」に書かれている内容は
①金額 銭十八貫文
②持参人払い 近藤氏
③支払場所 京都の何町の何とか屋さんにこれを持って行け
④振り出し人の名前
のみが書いてあったと研究者は考えているようです。ちなみに実物は、まだ見つかっていないそうです。このように代銭納というのは、実際に現金(大量の銅銭)を動かすのではなく手形決済という方法で行われたようです。確かに都まで、大量の銭を運ぶのは危険です。二十貫文=100㎏の銭は腹巻きにも入れられませんし、運ぶのは現実的ではありません。決済のためには責任者が都まで出向く必要はあったようです。
 大野荘でも代官を務める地元の近藤氏と、荘園領主の八坂神社との関係は悪化していきます。そこには、やはり「押領」があったからです。以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
次回は近藤氏が大野荘をどのように「押領」していったのかをもていきます。
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参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)

 

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