瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:龍光寺

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              川井峠
今回やって来たのは、木屋平の川井峠です。穴吹川を原付バイクで遡ること2時間余り。穴吹川沿いの国道は、ススキの穂が秋風に揺られて、おいでおいでと招いてくれるし、遅くなった彼岸花も花道のように迎えてくれます。たどり着いた川井峠には、大きな鳥居が建っていますが、これが「天行山窟大師」への入口になります。この窟大師にお参りして、修験者の活動を考えるというのが今回の課題です。さて、どうなりますか。

まず、「天行山窟大師」のことを「事前学習」しておきます。

木屋平村絵図1
「木屋平分間村絵図」の森遠名のエリア
以前、紹介したように江戸時代の「木屋平分間村絵図」には、いろいろな情報が書き込まれています。例えば、神社や寺院ばかりでなく小祠・お堂など以外にも、村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。そういう意味では木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が色濃く漂うエリアだったことがうかがえます。その中に「天行山窟大師」は、次のように描かれています。

木屋平 川井村の雨行大権現 大師の岩屋付近
           天(雨)行大権現と大師の岩屋付近(木屋平分間村絵図)
この絵図からは、次のようなことが読み取れます。
①三ツ木村と川井村の境界となる山頂には、雨(天)行大権現が祀られていた
②南側の石段の上に「香合(川井)ノ岩」があった。
③その西側に「護摩壇」と「大師の岩屋」があった。
この山は「権現」が祀られているので、修験者たちによって開かれた信仰の山であったようです。もともとは「雨(天)行山」とあるので、ここで雨乞祈祷などが行われていのかもしれません。それが明治以後になって今風に「天行山」と改名されたのではないかと私は想像しています。

明治9年(1876)の『阿波国郡村誌・麻植郡下・川井村』には、次のように記されています。

 大師檀 本村東ノ方大北雨行山ニアリ 巌窟アリ三拾人ヲ容ルヘク 少シ離レテ護摩檀ト称スル処アリ 古昔僧空海茲ニ来リテ 此檀ニ護摩ヲ修業シ 岩窟ノ悪蛇を除シタリ 土人之ヲ大師檀ト称ス

ここに書かれていることを箇条書きにすると・・。
①大師檀は、川井村東方の大北の「雨(天)行山」にある。
②30人ほど入れる岩屋があり、少し離れて護摩檀と呼ばれる所がある。
③かつて空海がここに来て、この檀で護摩修業して岩窟に住んでいた悪蛇を退散させたと伝えられる。
④そのため地元では大師檀と呼ばれている。
ここからは、天行山の岩屋は修験者たちの修行の場であり、護摩がここで焚かれていた。それが後に弘法大師が接ぎ木され、大師壇とされるようになったことがうかがえます。どちらにしても、天行山が修験者の霊山で、周辺に修行場であったようです。事前学習は、このあたりにして実際に行って見ることにします。
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                   川井峠の「天行山窟大師」への鳥居

しだれ桜の向こうに立つ鳥居を越えて参道は続いています。

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                「天行山窟大師」への登山道
猪除けの柵を越えると、手入れされた檜林が続きます。その中を整備された平坦で高低差の少ない歩きやすいトラバース道が続きます。途中、林道途中からの参拝道と合流しますが、このあたりが中間地点になります。
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               林道途中からの参拝道との合流点
運搬車が入ってこれそうな道です。尾根沿いに突き上げてくるのこのルートがもともとの参拝道で、川井峠からのトラバース道は、後に作られたようです。そういえば、峠の鳥居も古いものではなく近年のものでした。
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                    参道途中の磐岩
窟大師への荷物運搬用に整備された道を行くと、修験者が歓びそうな奇岩が現れてきます。窟大師が近づいてきたようです。いつのまにか周囲も檜の人工林から、大きな松が混成する自然林へと替わっていました。
そして、現れたのが絵図にあった
「香合(川井)ノ岩」です。

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                    香合(川井)ノ岩の石段

ここには次のような句碑があります。
立山に各段築く八町坂
大師一夜に設けしたり

木屋平 天行山の石段
その下に続く「弘法大師一夜建立伝説」の石段です。
この石段が、谷沿いに伸びていることからも、今歩いてきたトラバース道は近年のものであることが分かります。

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香合(川井)ノ岩
修験道にとって山は、天上や地下にある聖地への入口=関門と考えられていました。聖界と、自分たちが生活する俗界である里の境界が「お山」というイメージです。聖界に行くためには「入口=関門」を
通過しなければなりません。
「異界への入口」と考えられていたのは次のような所でした。

①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道とされ、
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口

そうすると、
香合(川井)ノ岩は②、大師窟は⑤ということになるのでしょうか
石段上の石碑を見ておきましょう。

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金剛大師と刻まれた石碑
側面の年期は、明治18年2月と読めます。石造物は、近代になって設置されたもののようです。「金剛大師」とあるので、弘法大師信仰をもった集団によって造られたことが分かります。台座に刻まれた集落名と人をみると,次のようになります。
世話人の川井村5人
三ッ木村4人
大北名3人
管蔵名1人
今丸名13人
市初名(三ッ木村)1人
上分上山村9人
下分上山村3人
不明2人
全体で41人
ここからは、この金剛大師像が,近隣の村人の人たちが中心になって、明治になって建立されたことが分かります。

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参拝道は、まだ奥へと続いています。断崖の際を通る道は、人の手で削られた痕跡があります。岩を越えて行くと見えて来たのが・・

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石垣が積み上げられ、その上に建物が建っています。これが「護摩壇」のあった所のようです。その上からオーバーハングした岩がのしかかっています。護摩を焚く場所としては最適です。

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                 大師の窟(天行山窟大師)

先ほど見たように「大師檀 本村東ノ方大北雨行山ニアリ 巌窟アリ三拾人ヲ容ル」とある窟を塞ぐように建っているのがこの建物です。

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残念ながら鍵がかかっていて、中の窟を見ることはできません。ここまで、導いてくれたことに感謝して合掌。「導き給え 授け給え、教え給え」

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                   大師堂周辺の三十三観音石仏群

 大師堂の北側斜面には、いくつもの石仏が置かれています。その中の祠に入った仏を見てみました。

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                  天行山窟大師の大日如来
 台座に「大日如来」と刻まれています。側面には、明治9年3月吉日の銘と、「施主 中山今丸名(三ッ木村管蔵名南にある麻植郡中山村今丸名)中川儀蔵と刻まれています。

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       天行山窟大師の「大日如来」像の横の石碑は、次のように記します。

「大正十五年十二月 天行山三十三番観世音建設 大施主當山中與開基大法師清海

ここからは周辺に鎮座する33体の観世音像は、大正15年12月に天行山窟大師を「中興」した清海によって建立されたことが分かります。気がつくのは、それまでの「雨行山」でなく「天行山」と記されています。ここからも明治以後に改名されたことがうかがえます。
 今まで見てきた石造物を時代順に並べてみると、次のようになります。
①明治9年3月吉日 祠の中の大日如来像
②明治18年2月  香合(川井)ノ岩の下の金剛大師像
③大正15年12月 
中興の祖・清海による33観音像

こうしてみると
天行山窟大師には、明治以前の石造物はないようです。現在のような姿になったのは、中興の祖清海が現れた大正時代の終わりだったことになります。そういえば、最初に見た「木屋平分間村絵図」にも、「香合(川井)ノ岩」・「護摩壇」・「大師の岩屋」とは記されていますが、建物らしきモノはなにも描かれていません。近代以後に、この行場は周辺から信仰を集めるようになったことがうかがえます。それをどう考え、説明できるのでしょうか。

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大師堂の横には、小さな広場がベンチが置いてあります。そこに腰掛けて、少ない情報を並べて、回らなくなった頭で考えた結果を記しておきます。
①剣山の開山は江戸時代になってからのことで、それ以前に木屋平に修験者の姿は見えない。
②この地に修験者が現れるのは、龍光寺によって剣山が開山されて以後のことである。
③この結果、剣山はあらたな霊山として、阿波各地から信者が参拝登山に訪れる聖地となった。
④こうして先達に連れられた信者達がベースキャンプとなる龍光寺のある木屋平にやってくるようになった。
⑤その受入の宿坊や先達を勤めるための修験者も木屋平周辺に大勢やって来て定着するようになる。
⑥修験者たちは、毎日仰ぎ見る村境の霊山や自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現を聖地として信仰対象にした。
⑦それが
「木屋平分間村絵図」に描かれた「民間信仰と修験の山の複合した景観」である。
木屋平 富士の池両剣神社
剣山修行の中心 両剣前神社と富士池坊(木屋平分間村絵図)建物が描かれている

それでは、天行
山窟大師と龍光寺の剣山開山とは、どのような関係があったのでしょうか?

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                伝説「東宮山の幻の岩屋」
穴吹川沿いをを遡る国道の分岐点で見つけた看板です。ここには冒頭に、次のように記します。
高越山と剣山脈をつなぐ唯一の山脈東宮山は幾多の伝説を秘めた山である。山頂近くに檜の瀧と呼ばれる高さ百数十mの断崖絶壁があり、人は簡単には近づけない岩穴があり、幻の岩屋と呼ばれていた。

番外:天行山、謎の石窟 - ぐーたら気延日記(重箱の隅)

東宮山と天行山

「高越山と剣山脈をつなぐ唯一の山」が東宮山なのです。高越山の麓の山川やその周辺の信者集団は、東宮山ー天行山を経て木屋平に入っていたことがうかがえます。このルートは、高越山からの修験者たちの修行の道であったかもしれません。そして天行山は修験者の修行の場であり、霊山にもなり、次第の里人の信仰を集めるようになります。それが「木屋平分間村絵図」に描かれた天行山窟大師の姿かも知れません。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
文化9年の木屋平村の宗教景観 雨(天)行山大権現も見える

では、どうして明治になって石造が安置され、大師堂などの建物が姿を見せるようになったのでしょうか。

 明治の神仏分離令によって、全国的には修験の急速な衰退が始まります。ところが、剣山では衰退でなく発展が見られるのです。修験者の中心センターであった龍光寺や円福寺は、中央の混乱を好機としてとらえて、自寺を長とする修験道組織の再編に乗り出すのです。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、先達や信者の歓心を買い、新客の獲得につなげます。つまり、剣山信仰は明治を境により隆盛をみるようになるのです。それが木屋平周辺の霊場の発展にもつながります。『木屋平村史』には、村内に宿泊所として機能する修験寺が次のように挙げられています。
 持福院、理照院、持性院、宝蔵院、正学院、威徳院、玉蔵院、亀寿坊、峯徳坊、徳寿坊、恵教坊、永善坊、三光院、理徳院、智観坊、玉泉院、満主坊、妙意坊、長用坊、玉円坊、常光院、学用坊、般若院、吉祥院、新蔵院、教学院、理性院

龍光寺は支配下に数多くの子院と修験者たちを抱えていたいたようです。
そのような環境の中で、天行山窟大師でも伽藍が整備され、石造物があらたに安置されたのではないかと私は考えています。
以上、天行山のベンチで考えたことでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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              天(雨)行山頂上の三角点 
もともとここに雨行山大権現の祠があったと私は考えています。


参考文献
 「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 

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近世半ばまでの阿波の修験者たちは、高越山を中心に動いていたことを前回は見ました。そのような中で近世半ばになると剣山が開山されます。剣山は高越山に比べて高く、広く、地形も複雑で、行場となるべき所が数多くある修行ゲレンデです。修験道場としては、最適で多くの山伏を一時に多く受け入れることができました。人気の修行地となった剣山は急速に発展して、先進の高越山をしのぐようになります。こうして近世の阿波の山伏修験道は高越山・剣山の二大修験センターを道場として、阿波だけでなく、四国・淡路・備前など近国に剣山講・高越講を組織して発展することになります。今回は剣山開山を進めた木屋平の龍光寺と、祖谷の円福寺について、今まで紹介できなかったことを見ていくことにします。

徳島の研究6
テキストは「  阿波の山岳信仰     徳島の研究6(1982年) 236P」です。

剣山は、古くから開山された山ではないようです。18世紀によって修験者が活動を始めた山で、剣山と呼ばれるようになったのも開山後のことです。それまでは「太郎笈」「立石山」「篠山」と地元では呼ばれていたようです。それが修験者によって開山されると、それらしき山名の「剣」と呼ばれるようになったことは以前にお話ししました。
 剣山の開山については、次の東西ふたつ寺の開山活動がありました。そして、それぞれの寺が次のような「登山基地」を開設します。
①東側の木屋平村の龍光寺が、富士の池に
②西側の祖谷村菅生の円福寺が見ノ(蓑)越に
山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
木屋平村の長福院龍光寺

まず龍光寺について見ていくことにします。『阿波志』に次のように記します。
「(木屋)平村谷口名に在り、平安大覚寺に隷す。旧長福寺と称す。大永二年(532)重造する。享保二年(1717) 今の名に改む。其の甚だしくは遠からざるを以って、剣祠を祀る」

意訳変換しておくと

「龍光寺は木屋平村の谷口名にある寺で、京都の大覚寺に属す。旧名は長福寺で、大永二年(532)の建立である。それが享保二年(1717)に、今の名に改められた。この寺では、それほど古くからではないが剣(神社)祠を祀る別当職を務めている。」

龍光寺は、享保二年(1717)までは長福寺と呼ばれていました。
 長福寺は中世に結成されたとされる忌部十八坊の一つとされます。
江戸時代に入ると長福寺(龍光寺)は、剣山修験を立て「剣山開発」プロジェクトを進めるようになります。その一環が、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名でした。修験者(山伏)たちの好む「龍」の字を入れた「龍光寺」への寺名変更は、忌部十八坊からの独立宣言だったと研究者は考えています。
   龍光寺への寺名の改変と、剣山の名称改変はリンクします。
 修験の霊山として出発した剣山は、霊山なる故に神秘性のベールが求められます。それまでの「石立山」や「立石山」や「篠山」は、どこにでもある平凡な山名です。それに比べて「剣」というのは、きらりと光ります。きらきらネームでイメージアップのネーミング戦略です。こうして、美馬郡木屋平村の龍光寺の「剣山開発」は軌道に乗ります。
ところが後世の『阿波名勝案内』には、次のように記します。
「弘仁五年(八一四)弘法大師の開基にかかり、利剣山長福寺と号す。伝え言ふ安徳天皇の蒙塵に当り、当寺に行在所を設け以って安全を祈り、平国盛一族中剃染して竜光房と名づけ、寺号をも龍光寺と改む。剣権現の本寺。」
意訳変換しておくと
「弘仁五年(814)に弘法大師が開基し、利剣山長福寺と号する。伝え聞くところに拠ると源平合戦で安徳天皇が当地に落ちのびてきた際には、当寺に行在所を設けた。その際に、平国盛は天皇の安全を祈って、一族が剃髪して竜光房と名乗り、寺号を龍光寺と改めた。剣山権現社(神社)の本寺(別当寺)である。」
 
ここでは平国盛の「平家落人伝説」が付け加えられています。そして、安徳天皇伝説ともリンクさせます。こういう手法は、修験者や山伏の特異とする所です。ここでは、次のような伝説が付け加えられています。
①空海開基で、長福寺と号した。
②平家伝説を取り込み、平国盛が剃髪して竜光房と名乗ったので、寺号も龍光寺と改めたこと。
結果的に、龍光寺への寺名変更が、鎌倉時代まで引き下げられます。
木屋平 富士の池両剣神社
富士の池周辺
  江戸時代の龍光寺の「剣山開発プロジェクト」の目玉として取り組んだのが、富士(藤)の池周辺の施設整備です。

剣山 龍光寺は、弘法大師により密教が開祖された四国八十八カ所の総奥の院

龍光寺は、剣山頂上の法蔵岩直下の剣神社の管理権を持っていました。その北側斜面の石灰岩の岩穴や岩稜が修行場でした。その剣修行のベースキャンプとして建設されたのが八合目の藤の池の「富士(藤)の池本坊」です。ここが山頂の剱祠の祀る剱山本宮になります。こうして多くの参拝信者を集めるようになり、龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
木屋平 宗教的概観
文化9年の木屋平村の権現
龍光寺が別当寺であった剣神社(剣山本宮)を見ておきましょう。
 その「由緒」には、次のように記します。(要約)
「元暦二年(1185)平家没落当時、平家の家人である田口左衛門尉成直は、父の阿波国主紀民部成長と相談して、安徳天皇一行を長門の壇浦より、伊予大三島へ落ちのびさせて、その後伊予と阿波の山路を伝って祖谷山に導き入れた。その後、木屋平村に遷幸したと伝える。
 後世になって、祖谷山・木屋平二村の平家遺臣の子孫は相談して、富士の池を仮の行在所とした。また平家の再興を祈って、(剣山頂上の)宝蔵石に安徳天皇の剣を納めて斎祀した。これが剣山大権現の呼称の由来とされ、以後はこの山を剣山と称するようになった。
 (中略)仏教の伝来とともに修験道の霊場となり、南北朝時代阿波山岳武士の本拠地となった龍光寺は、大同三年(808)僧行基の開基とされる。」
ここに書かれていることを要約すると
①安徳天皇一行は、壇ノ浦から大三島を経て祖谷に落ちのびてきて、最後に木屋平村に遷幸した。
②平家の子孫は、平家の再興を祈って富士(藤)の池を仮の行在所とし、(剣山頂上の)宝蔵石に安徳天皇の剣を納めて斎祀した。
③龍光寺の開祖は行基である。

もともと平家落人伝説と安徳天皇伝説は、祖谷地方に伝えられたものです。それを「安徳天皇が木屋平村に遷幸」として、伝説の本家取りをしています。先ほど見たように、龍光寺が剣山を開山し、権現さまを奉ったのは18世紀になってからです。また富士の池を開発したのは、さらに後のことになります。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
文化9年木屋平村の宗教景観
徳島氏方面の平野部から剣山に登るには、木屋平を目指しました。
そのため東側表口として木屋平は賑わったようです。『木屋平村史』には、村内に宿泊所として機能する修験寺が次のように挙げられています。
 持福院、理照院、持性院、宝蔵院、正学院、威徳院、玉蔵院、亀寿坊、峯徳坊、徳寿坊、恵教坊、永善坊、三光院、理徳院、智観坊、玉泉院、満主坊、妙意坊、長用坊、玉円坊、常光院、学用坊、般若院、吉祥院、新蔵院、教学院、理性院

昔はもっとあったとようです。西側の拠点円福寺翼下一万人といわれる先達よりもはるかに多くの修験者を、龍光寺は支配下に持っていたことを押さえておきます。

円福寺 祖谷山菅生
円福寺(東祖谷山村菅生)
剣山修験の西の拠点は、東祖谷山村菅生の円福寺でした。
円福寺は菅生氏の氏寺で、この寺も「忌部十八坊」の一つとされます。現在本尊とするのは江戸時代の作といわれる不動明王(剣山大権現)です。しかし、「阿波誌」に「元禄中(1688~1703)繹元梁、重造阿弥陀像を安ず」とあります。ここからは、もともとは本尊は阿弥陀如来であったことが分かります。それがどこかの時点で、修験者の守り仏ともされる不動明王に入れ替えられたようです。それは、この寺に住持した修験者が行ったことと私は考えています。

祖谷山菅生 円福寺 阿弥陀如来
円福寺のもともとの本尊 阿弥陀如来像

 木屋平の龍光寺が富士の池に登攀センターを建設したように、円福寺も見ノ(蓑)越に、不動堂を建立します。

剣山円福寺
見ノ越の剣山円福寺
これが現在の「見ノ越の円福寺」のスタートになります。本尊は安徳天皇像を剣山大権現として祀り、両側に弘法大師像と供利迦羅明王像を配します。見ノ越の円福寺は、もともとは菅生の円福寺の不動堂として建立されました。ところが貞光側からの、見ノ越への登山道が整備されると、先達に引き連れられた信者達は、このルートを使って見ノ越の円福寺にやって来るようになります。それまで祖谷経由のルートは、距離が長いので利用者が少なくなります。その結果、参拝者が立ち寄らなくなった本家の菅生・円福寺は衰退していきます。こうして、現在では円福寺と云えば見ノ越の寺を指すようになったようです。
 神仏混淆化で円福寺が別当として管理していたのが剣神社(旧剣権現)です。
この神社は、見ノ越の駐車場から長い階段を登った上にある神社です。剣神社のHPには、その由緒が次のように記されています。

「口碑に仁和時代へ九世紀末)」の創立。祖谷山開拓の際に、大山祗命を勧進して祖谷山の総鎮守とする。寿永年中(1185)、源平合戦に敗れた平家の一族が安徳天皇を奉じて祖谷の地にのがれ来たり、平家再興の祈願のため安徳天皇の『深そぎの御毛』と『紅剣』を大山祗命の御社に奉納。以来剣山と呼ばれ、神社も剣神社と称されるようになった。」

現在のHPには、別当寺の西福寺の管理下にあったことは一言も触れられていません。もともとは円福寺の社僧が管理する剣権現だったことを押さえておきます。剣神社の先達(出験者)たちも信者を連れて剣山北面の「鎖の行場」「不動の岩屋」「鶴の舞」「千筋の手水鉢」「引日舞」「蟻の塔渡り」などの行場で修業します。ちなみに剣神社の本社が、御塔石(おとうせき)を御神体とする大剣神社(おおつるぎじんじゃ)になるようです。
伴信友の『残桜記』には、大剣神社のことが次のように記されています。(意訳)

東祖谷山村と菅生の境界になる剣山頂上に鎮座する剣神社のある所は、木屋平村のものとも、また東祖谷山村のものとも云われ諍いが起きる原因となっていた。そこで明治初年頃に、美馬麻植郡の神職が剣神社の祭典に出社した際に、拝殿の中央に線を引き、これを境界とした。そして線の内側にあったものを、それぞれの村が収入した。その後、明治九年に郡界標石が建設され、以来今まで木屋平村のものとされていた山上の剣神社は祖谷山村に属することになった。

ここからは、拝殿の中央に線を引いて境界として、両者が共同管理していた時期があったことが分かります。これを剣神社をめぐる祖谷の円福寺と木屋平の龍光寺の対立とみることも出来ます。しかし、研究者は次のような別の視点を教えてくれます。

 当山派・本山派共に大峰山を聖地として共有している。金峰山は金剛界を、熊野三山は胎蔵界を現わし、その中心である大峰山はこの二つを統一する一乗両部の峰であり、画部不二の曼陀羅の霊地である。そこで両派とも大峰山に結縁することを本願とする。こうした両派の発想と剣山頂上を聖地として共有しようとする阿波修験道の意図と等しい。

龍光寺と円福寺は競い合い、対立を含みながらも、剣山を聖地とする修験者の行場をともに運営していたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 阿波の山岳信仰     徳島の研究6(1982年) 236P
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以前に、剣山開山について次のようにまとめました
①剣山は近世前半以前には信仰対象の山ではなかったこと
②近世後半になって剣山を開山したのは、木屋平側の龍光寺の修験者であったこと
③これに続いて見ノ越側の円福寺が開かれ、2つの山岳寺院が先達修験者を組織し、多くの信者達の参拝登山が行われるようになったこと
剣山円福寺 « 剣山円福寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

これについては、龍光寺は史料的にも押さえましたが、円福寺の場合は、それが出来ていませんでした。今回は祖谷側からの剣山開山を進めたとされる円福寺を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌583P 山岳信仰」です。
東祖谷山村誌(東祖谷山村誌編集委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
東祖谷山村誌

『阿波志』は、江戸時
代の剣山について次のように記します。(要約)  
「大剣山 四季の中、春はわずかで消え、夏は長くない。それ故、人は敢て登らない。西は美馬郡菅生名をへだたること四里、南は那賀郡岩倉を、へだたること六里ほど、東は麻植郡茗荷(みょうが)名をへだたること二里、この間人家もなく、登山するものは星をいただいて登り、星をいただいて帰ってくる。茗荷名からの道に渓があり、これを垢離取(こりとり)川と言う。登山者はここで必ず水浴し、下界のけがれをはらう。その上を不動坂という。不動石像が渓中にあって、時には水没してみえない。(中略)
 頂上近くの平坦な所を神将と言う。春には赤や自の草花が咲き乱れる。これを過ぎれば、頂上となり、石があって宝蔵という。西南に二石あり太郎笈、次郎笈と言う。三百歩行くと削って造ったと思われる石があり不動石という。その下に渓谷がある。これらの谷は大小の剣が交わっているかのようである。
この中には、コリトリや不動坂など熊野や大峯の山岳聖地を模した名前が出てきます。また、剣山のことを、別名小篠(こざさ)とよびましたが、これは修験の行場に由来する命名です。さらに、龍光寺の藤の池本坊の祭日は、熊野の那智神社と同じ、7月14・15日です。ここからは、剣山を開山したのが修験者たちで、彼らは熊野や吉野の修験修行場のコピー版を、この地に開こうとしていたことがうかがえます。また「登山するものは星をいただいて登り、星をいただいて帰ってくる。」とありますので、この時点では富士の池や見ノ越に登山宿泊施設は、まだなかったようです。

昇尾頭山からの剣山眺望
剣山と次郎笈 (祖谷山絵巻)

剣山に当時の人々は、どんな姿で登っていたのでしょうか?
文化、文政の頃の永井精古の『阿波国見聞記』には次のような律詩が載せられています。
法螺贅裏艦山人
白布杉清不帯塵
霊秀所鐘斉仰止
侍天雙剣五雲新
剣山 三嶺方向から
剣山と次郎笈(拡大) 祖谷山絵巻

ここからは法螺貝ををふき、白装束に身を包んだ一行が、剣山への山道を登る様が映写されています。これは、山伏を先達とする参拝登山で、『勧進帳』の源義経、弁慶一行の行脚姿に似ていたかもしれません。
異本阿波史には、次のように記されています。

  この山の御神体と崇む。別に社等なし。ここに古えより剣を納む。この巌に立あり。風雨これをおかせどもいささかも錆びず。誠に神宝の霊剣なり。六月七月諸人参詣多し。菅生名より五里、この間に人家なし。夜に出て夜に帰ると言う。その余、木屋平山より参詣の道あり。諸人多くはこれより登る。
 
意訳変換しておくと

  この山(剣山)自体を御神体として崇む。これといった社殿はなどはない。ここに昔、剣を納めたという。また、ここには剣のように立つの巌がある。風雨に侵されても、いささかも錆びない。誠に神宝の霊剣である。六月七月には、多くの人たちが参詣する。その際に、菅生名から五里の間に人家はないので、夜に出て、夜に帰る強行軍だと言う。その他には、木屋平山側から参詣の道があり、多くの人は、こちら側の道を利用する。

大剣石 祖谷山絵図
大剣岩と大剣神社 
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剣山の大剣岩
ここには、山頂の法蔵岩のことは何も触れられません。出てくるのは大剣岩で、これが御神体だとします、そして社殿はない。宿泊施設もないと記します。見ノ越の円福寺は出てきません。つまり、これが書かれたのは、見ノ越に宿泊施設も兼ねた(剣山)円福寺が出来る以前のことのようです。
夫婦池からの剣山
夫婦池越の剣山 (祖谷山絵巻)
円福寺の寺伝には、次のように記されています。
安徳帝の御遺勅に「朕が帯びていた剣は清浄の高山に納め守護すべし」と宣いになったので、御剣を当山(石立山)に納め、剣山大権現と勧請まします」とあります。ここには、近世になって語られるようになった平家伝説に附会したかたちで、安徳天皇の剣を埋めた霊山=剣山」として記されています。

大正十一年刊の『麻植郡誌』は「安徳天皇と剣山」の項に、次のような伝承を載せています。
平国盛は安徳帝を奉じて、屋島を逃れ阿波に入り、元暦2(1185)年の大晦日に祖谷に入って阿佐にお泊まりになった。ある時、剣山に登って武運長久を祈り、剣を祀らんとされたが、その時丁度岩が口を開く様に割れたので、そこに御剣を納めた。すると、岩は又口を閉した。この時までこの山を石立山と呼んでいたのであるが、それからは剣山と呼ぶことになった。剣を納めた岩を宝蔵石と呼んでいる。剣山の絶頂は平家の馬場という広い草原になっていて、鈴竹という竹が群生している。椛に竹の葉を横断して、点線状の穴のあいているものがある。これを里人は馬の歯形笹と呼んで、龍の駒が鳴んだものだと珍重するのである。又、 一説には安徳天皇の馬であるとも言う。(一部訂正)」

剣山頂上 祖谷山絵巻
剣山頂の法蔵岩(祖谷山絵巻)
これに続けて馬の歯形笹と呼ぶものは、笹の葉が開かぬ内に虫が食った痕だと云います。そして『異本阿波志』の次の記事を引用します。

「(頂)上は樹木なく一円小笹原なり、晴天には必ず龍馬出てここに遊ぶ、この笹を食うという。毛色赤くして二歳駒程なり、今これを見る人多し。(要約)」
 
晴天の時には、剣の山頂には「龍馬」が現れて、山頂に生えている笹を食む。その馬は二歳の若駒で、これを見た人は多いと云うのです。
 このように「龍竜伝説」に附会する形で、次の時代には「馬の歯形笹」が書かれます。こうして、平家伝説と剣山と山岳崇拝が、ひとつのストーリーとして伝承・伝説化されていきます。

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剣山頂の法蔵岩
これに対して、元木直洲の『燈下録』(文化9(1812)年)は、「剣山=平家伝説」説を否定して、次のような説を現します。(意訳・要約)
剣山に祀られた剣は、阿波の国霊、大宜都比売神を殺した素蓋鳴命のものだ。木屋平口から剣山に登る途中には、竜光寺の坊と思われる庵があって、そこに住む老人が、更に奥院に参詣することが許されるかどうかを神様に伺って参拝者に示すというのである。
ここには、剣山に埋められた剣は安徳天皇のものではなくて、素蓋鳴命のものだとされています。ここで注目しておきたいのが、前述の『阿波志』にも「敢てこの庵から婦人は更に奥に進まない」と記されていることです。人々の信仰の対象となる山は、日頃から人々の立ち入りを許さない山でもありました。だから、登山には神による許可が必要でした。その入山許可を与えたのが龍光寺だと記します。剣山が円福寺、竜光寺の指導の下に山伏(修験者)にって開かれたことがここからもうかがえます。
 剣山が、先達・山伏たちが信者を連れてくる「集団登山」として、龍光寺と円福寺やが剣山信仰の拠点として栄えてきたことを押さえておきます。
丸笹・見ノ越
夫婦池方面から丸笹・見ノ越方面(祖谷山絵巻)
明治維新の神仏分離で、霊山剣山の地位が動揺した時期がありました。
維新政府の神仏分離令発布と、山伏禁止令が出されたからです。これによって、熊野、那智、大峰などの修験者聖地の威令が衰え、聖護院や醍醐寺の統制力が弱まっていきます。これに対して、円福寺や龍光寺の山伏たちは、逆境を逆手にとっていきます。それまでは、中央の修験本山の許可によった山伏修験者の大先達、先達等の位階の任命権を、自分たちが握ろうとしたのです。そして、円福寺と龍光寺は中央から独立し、拠り所を失った山伏達を再組織して、剣山信仰へと導いたのです。
 円福寺に残る明治15年文書には、次のように記されています。
何某 何房
(赤地金襴紫何  級輪袈裟着用
許可能事
年号月日
真言宗剣山 円福寺主 権少講義何某
右者許容書
これは袈裟着用の許可文(認可状)の形式で、この形式に基づいて、袈裟を発行していたことが分かります。
別に、次のようなものがある。
許可次第
第一   明治十五年六月二百五十枚用意  先達免状渡
第二   同年初テ三十枚用意  近士戒
第三 同右同枚 法名院号許可
第四 同百枚用意 大先達許客証
第五 同二十枚用意 袈裟許可仕也
右五ヶ御許可仕事
別義
何組長或副長申付仕能事
御宝剣御巻物等ハ勤功
之次第二依而被渡仕也
明治十五午年定
ここからは明治15年に、円福寺が上記のような規定をつくり、免状・院号・先達書・袈裟許可書など作成し、先達や信者に与えたことが分かります。つまり、これらの証明書や許可状の発行権を持っていたのです。
剣山円福寺・徳島県三好市東祖谷菅生 | Bodhisvaha
剣山円福寺

円福寺の護摩祈祷や剣神社の祭りには、どんな行事が行われていたのでしょうか?
東祖谷山村誌には、剣神社の最高位の先達であった元老大顧間の森本長一氏の次のような話が載せられています。

円福寺の境内には、一坪ばかり石を築いた小高い所があり、この上を護摩の建火場として、僧侶がこれに向って経文を唱える。周囲には先達を始め、多数の参詣人が白装束で立っている。護摩の焚木には、その者の住所、名前、千支、性別が記されてあり、桧でできているが、それにシキミの葉を添えて、僧侶が住所、名前等を唱えながら火中へ投ずるのである。護摩を焚く間、先達の免状としてある木札すなわち絵符をその先につけた杖は、一まとめにして背後の小祠に祀ってある。絵符は杖につけやすいように下駄状の歯が着いており、歯には中央に穴があいているので、それに杖を差しこんで紐で結びつけるのである。

剣山円福寺の護摩
円福寺の護摩法要
 戦前は護摩焚きの灰をかためて、不動尊を造ったり、古い先達の像をつくって御守としたことがあったそうだ。現在でも御神石の下から湧く御神水を水筒などに入れてもちかえる人も多い。御神水は何年おいてもくさらない水で、これを飲むと無病息災、病気の人も不思議と回復するという。これを神棚に祀ったりもする。
円福寺の祭日は旧六月十四、五日だが、剣神社は七月一日に「お山開祭」、七月十七日に「剣山大祭」を行う。大祭には神輿が出る。円福寺の信者には香川・岡山など他県の人も多いそうだが、剣神社の信者もそうで、戦前には香川から獅子舞もやってきたそうだ。
剣山年間行事

 剣神社の先達組織は、お山先達・小先達・中先達・大先達・特選大範長・名誉大範長・元老大顧問の七階級からなっている。先達は約千人程で、岡山、香川、愛媛、高知、徳島などの各県に拡がっている。講中には例えば、森本長一氏の場合、森本会という組織をつくっておられる。先達が信者を募集してバスなどで剣神社に参詣するのである。森本会には二人の女性の先達がいるそうだが、神社全体では十人内外の女性先達がいる。行場で女性が修行することを許されたのは昭和七年からである。
要点を整理しておくと
①円福寺の境内で護摩祈祷が行われ、周囲に先達や多数の参詣人が白装束で参加した。
②護摩の焚木(檜)に、参加者の住所、名前、千支、性別が記して、僧侶が住所、名前等を唱えながら火中へ投ずる
③護摩を焚く間、先達免状の木札(絵符をその先につけた杖)は、一まとめにして背後の小祠に祀ってある。(先達の叙任式を兼ねていた)
④戦前は護摩焚きの灰をかためて、不動尊を造ったり、古い先達の像をつくって御守とした
⑤現在でも御神石の下から湧く御神水を水筒などに入れてもちかえる人も多い。
⑥円福寺の祭日は旧六月十四、五日だが、剣神社は七月一日に「お山開祭」、七月十七日に「剣山大祭」を行う。大祭には神輿が出る。
⑦円福寺の信者には香川・岡山など他県の人も多く、戦前には香川から獅子舞もやってきた。
⑧剣神社の先達組織は、お山先達・小先達・中先達・大先達・特選大範長・名誉大範長・元老大顧問の七階級からなっている。
⑨先達は約千人程で、岡山、香川、愛媛、高知、徳島などの各県に拡がっている。
⑩先達が信者を募集してバスなどで剣神社に参詣する。
⑪十人内外の女性先達がいるが、行場で女性が修行することを許されたのは昭和七年からである。

剣山の行場

最後に剣山の主な行場を、次のように挙げています。
鎖の行場
鉄の鎖が滝にそって降されており、それを握って滝を下る修行をする。
不動の岩屋                          
洞穴の中に不動尊を祀ってあるが、その不動尊に水が落ちている。夏でも一般の人なら十分間と中に入っておれない冷たさだという。
鶴の舞
鶴が翼を広げ、胸を張った姿の様に岩が張りだしており、そこを廻るのである。
千筋の手水鉢
水が流れて岩が縦に割れ、たくさんの筋状になっている。それを降りるのである。
引臼舞
引臼状をした岩を廻るのである。
蟻の塔渡り
足場の岩が刻みこんであり、そこに左右の足を突込んで廻る。もし左右の足の位置を間違えれば出発点にもどってやりなおすしかないという。
以上をまとめておきます。
①江戸時代後半になって、木屋平の龍光寺の修験者たちによって剣山は開山され、富士の池を通じて、多くの参拝登山者が先達たちに率いられてやって来るようになった。
②祖谷側では菅生の円福寺が見ノ越を拠点に大剣神社を神体とする石鎚信仰を広めた。
③龍光寺と円福寺は、信者テリトリーを分割して、共存共栄関係にあった。
④明治の神仏分離や山伏禁止令の中でも、両寺は教勢を失わずに信者達を集め続けた。
⑤こうして見ノ越の円福寺は、本家の菅生・円福寺を凌駕するに至った

こうして、見ノ越の円福寺は明治の神仏分離以後も剣山の見ノ越側の拠点として繁栄を続けることになります。ところで、江戸時代後半になって見ノ越に現れた円福寺は、もともとはどこにあったお寺なのでしょうか。それを次回は見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

原付バイクで新猪ノ鼻トンネルを抜けての阿波のソラの集落通いを再開しています。今回は三好市井川町の井内エリアの寺社や民家を眺めての報告です。辻から井内川沿いの県道140線を快適に南下していきます。
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井内川の中に表れた「立石」
   川の中に大きな石が立っています。グーグルには「剣山立石大権現」でマーキングされています。
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剣山立石大権現
石の頂上部には祠が祀られ、その下には注連縄が張られています。道の上には簡単な「遙拝所」もありました。そこにあった説明看板には、次のように記されています。
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①井内は剣山信仰の拠点で、御神体を笈(おい)に納めて背負い、ホラ貝を吹き、手に錫杖を持ち  お経と真言を唱えて修行する修験者(山伏)の姿があちらこちらで見られた。その修験者の道場跡も残っている。
②この剣山立石大権現の由来については、次のように伝わっている。
山伏が夜の行を終えてここまで還って来ると、狸に化かされて家にたどり着けず、果てには身ぐるみはがされることもあった。そこで山伏は本尊の権現を笈から出して、この石の上に祀った。するとたちまち被害がなくなった。こうして、この石は豪雨災害などからこの地を守る神として信仰されるようになり「立石剣山大権現」と呼ばれるようになった。
③1970年頃までは、護摩焚きが行われ「五穀豊穣」「疫病退散」などが祈願されていた。県道完成後、交通通量の増大でそれも出来なくなり、山伏による祈祷となっている。
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剣山立石大権現
ここからは井内地区が剣山信仰の拠点で、かつては数多くの修験者たちがいたことがうかがえます。この立石は井内の入口に修験者が張った結界にも思えてきます。それでは、修験者たちの拠点センターとなった宗教施設に行ってみましょう。
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地福寺
  井内の家並みを越えてさらに上流に進むと、川の向岸に地福寺が見てきます。
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この看板には次のようなことが記されています。
①大日如来坐像が本尊で、室町時代までは日の丸山中腹の坊の久保(窪)にあったこと。
②南北朝時代の大般若経があること
③平家伝説や南北朝時代に新田義治が滞留した話が伝わっていること。
④地福寺の住職が剣山見残しの円福寺の住職を兼帯していること。
 この寺院は、対岸にある旧郷社の馬岡新田神社の神宮寺だったようです。
②のように南北朝時代の大般若経があるということは、「般若の嵐」などの神仏混淆の宗教活動が行われ、この寺が郷社としての機能を果たしていたことがうかがえます。地福寺の住職が別当として、馬岡新田神社の管理運営を行うなど、井内地区の宗教センターとして機能していたことを押さえておきます。

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地福寺
 町史によると、もともとは日の丸山の中腹の坊の久保にあったのが、18世紀前期か中期ごろに現在地に移ったと記されています。現在の境内は山すその高台にあり、谷沿いの車道からは見上げる格好になり山門と鐘楼が見えるだけです。P1170083
地福寺の本堂と鐘楼
 石段を登り山門(昭和44(1969)年)をくぐると、正面に本堂、右側に鐘楼があります。鐘楼の前の岩壁には不動明王が祀られ、野外の護摩祭壇もあります。ここが古くからの修験道の拠点であり「山伏寺」であったことがうかがえます。
 本堂は文政年間(1818~30)の建築のようですが、明治40年(1907)に茅から瓦に、さらに昭和54年(1979)には銅板に葺き替えられています。また度重なる増築で、当時の原型はありません。鐘楼は総欅造りで、入母屋造銅板葺の四脚鐘台です。組物は出組で中備を詰組とします。扇垂木・板支輪・肘木形状などに禅宗様がみられ、全体に禅宗様の色濃い鐘楼と研究者は評します。

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③の地福寺と西祖谷との関係を見ておきましょう。
この寺の前に架かる橋のたもとには、ここが祖谷古道のスタート地点であることを示す道標が建っています。地福寺のある井内と市西祖谷山村は、かつては「旧祖谷街道(祖谷古道)で結ばれていました。地福寺は、井内だけでなく祖谷の有力者である「祖谷十三名」を檀家に持ち。祖谷とも深いつながりがありました。地福寺は祖谷にも多くの檀家を持っていたようです。
井川町の峠道
水の口峠と祖谷古道
 井内と西祖谷を結ぶ難所が水ノ口峠(1116m)でした。
地福寺からこの峠には2つの道がありました。一つは旧祖谷街道(祖谷古道)といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に下りていきます。このふたつの集落は小祖谷(西祖谷)と縁組みも多く、戦後しばらくは、このルートを通じて交流があったようです。

小祖谷の明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)からの聞き取り調査の記録には、水ノ口峠のことが次のように語られています。

水口峠を越えて、井内や辻まで煙草・炭・藍やかいを負いあげ、負いさげて、ほれこそせこ(苦し)かったぞよ。昔の人はほんまに難儀しましたぞよ。辻までやったら3里(約12キロ)の山道を1升弁当もって1日がかりじゃ。まあ小祖谷のジン(人)は、東祖谷の煙草を背中い負うて運んでいく、同じように東祖谷いも1升弁当で煙草とりにいたもんじゃ。辻いいたらな、町の商売人が“祖谷の大奥の人が出てきたわ”とよういわれた。ほんなせこいめして、炭やったら5貫俵を負うて25銭くれた。ただまあ自家製の炭はええっちゅうんで倍の50銭くれました。炭が何ちゅうても冬のただひとつの品もんやけん、ハナモジ(一種の雪靴)履いて、腰まで雪で裾が濡れてしょがないけん、シボリもって汗かいて歩いたんぞよ。祖谷はほんまに金もうけがちょっともないけに、難儀したんじゃ」

 もうひとつは、峠と知行を結ぶもので、明治30年(1897)ごろに開かれたようです。
このルートは、祖谷へ讃岐の米や塩が運ばれたり、また祖谷の煙草の搬出路として重要な路線で、多くの人々が行き来したようです。 この峠のすぐしたには豊かな湧き水があって、大正8年(1919)から昭和6年(1931)まで、凍り豆腐の製造場があったようです。

「峠には丁場が五つあって、50人くらいの人が働いていた。すべて井内谷の人であった。足に足袋、わらじ、はなもじ、かんじきなどをつけて、天秤(てんびん)棒で2斗(30kg)の大豆を担いで上った」
と知行の老人は懐古しています。
 水ノ口峠から地福寺を経て、辻に至るこの道は、吉野川の舟運と連絡します。
また吉野川を渡り、対岸の昼間を経て打越峠を越え、東山峠から讃岐の塩入(まんのう町)につながります。この道は、古代以来に讃岐の塩が祖谷に入っていくルートの一つでもありました。また近世末から明治になると、多くの借耕牛が通ったルートでもありました。明治になって開かれた知行経由の道は、祖谷古道に比べてると道幅が広く、牛馬も通行可能だったようです。しかし、1977年に現在の小祖谷に通ずる林道が開通すると、利用されることはなくなります。しかし、杉林の中に道は、今も残っています。
水の口峠の大師像
水の口峠の大師像
この峠には、「文化元年三月廿一日 地福寺 朝念法印」の銘のある弘法大師の石像が祀られています。朝念というのは、地福寺の第6代住職になるようです。朝念が、水ノ口峠に石仏を立てたことからも、この峠の重要さがうかがえます。
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剣山円福寺別院の看板が掲げられている
④の地福寺と剣山の円福寺について、見ていくことにします。
 剣山の宗教的な開山は、江戸後期のことで、それまでは人が参拝する山ではなく、修験者が修行を行う山でもなかったことは以前にお話ししました。剣山の開山は、江戸後期に木屋平の龍光寺が始めた新たなプロジェクトでした。それは、先達たちが信者を木屋平に連れてきて、富士の宮を拠点に行場廻りのプチ修行を行わせ、ご来光を山頂で拝んで帰山するというものでした。これが大人気を呼び、先達にたちに連れられて多くの信者たちが剣山を目指すようになります。
木屋平 富士の池両剣神社
 藤の池本坊
  龍光寺は、剣山の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。
登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。この藤(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
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地福寺の護摩壇

  このような動きを見逃さずに、追随したのが地福寺です。
地福寺は先ほど見たように祖谷地方に多くの信者を持ち、剣山西斜面の見ノ越側に広大な社領を持っていました。そこで、地福寺は江戸時代末に、見の越に新たに剣山円福寺を建立し、同寺が別当となる剣神社を創建します。こうして木屋平と井内から剣山へのふたつのルートが開かれ、剣山への登山口として発展していくことになります。
宿泊施設 | 剣山~古代ミステリーと神秘の世界~

  それでは、地福寺から剣山へのルートは、どうなっていたのでしょうか?
 水口峠の近く日ノ丸山があります。この山と城ノ丸の間の鞍部にあるのが日の丸峠です。井川町桜と東祖谷山村の深渕を結び、落合峠を経て祖谷に入る街道がこの峠を抜けていました。
   見残しにある円福寺の住職を、地福寺の住職が兼任していたことは述べました。地福寺の住職の宮内義典氏は、小学校の時に祖父に連れられて、この峠を越えて円福寺へ行ったことがあると語っています。つまり、祖谷側の剣山参拝ルートのスタート地点は、井内の地福寺にあったことになります。
 
日ノ丸山の中腹に「坊の久保」という場所があります。
ここに地福寺の前身「持福寺」があったといわれます。平家伝説では、文治元年(1185)、屋島の戦いに敗れた平家は、平国盛率いる一行が讃岐山脈を越えて井内谷に入り、持福寺に逗留したとされます。
  以上をまとめておきます
①井川町井内地区には、修験者の痕跡が色濃く残る
②多くの修験者を集めたのは地福寺の存在である。
③地福寺は、神仏混淆の中世においては郷社の別当寺として、井内だけでなく祖谷の宗教センターの役割を果たしていた。
④そのため地福寺は、祖谷においても有力者の檀家を数多く持ち、剣山西域で広大な寺領を持つに至った。
⑤地福寺と西祖谷は、水の口峠を経て結ばれており、これが祖谷古道であった。
⑥地福寺は剣山が信仰の山として人気が高まると、見残しに円福寺と劔神社を創建し、剣山参拝の拠点とした。
⑦そのため祖谷側から剣山を目指す信者たちは、井内の地福寺に集まり祖谷古道をたどるようになった。
⑧そのため剣山参拝の拠点となった地福寺周辺の集落には全国から修験者が集まって来るようになった。
祖谷古道

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

木屋平村絵図1
木屋平分間村絵図の森遠名エリア

前回は、「木屋平分間村絵図」の森遠名のエリアを見てみました。そこには中世の木屋平氏が近世には松家氏と名前を変えながらも、森遠名を拓き集落を形成してきたプロセスが見えてきました。今回は、この地図に描かれた修験道関係の「宗教施設」を追っていきたいと思います。この絵図には、神社や寺院、ばかりでなく小祠・お堂が描かれています。この絵図の面白い所は、それだけではありません。村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が形成されていたと研究者は考えています。
 修験道にとって山は、天上や地下に想定された聖地に到るための入口=関門と考えられていました。
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。この場合には、神や仏は山上の空中に、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
「異界への入口」と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道とされ、
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖、
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
 これらの①~⑤の「異界への入口」が、「木屋平分間村絵図」には数多く描かれているのです。その中には,村人がつけた河谷名や山頂名,小地名,さらに修験の霊場数も含まれます。それを研究者は、次の一覧表にまとめています。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観一覧表

この表を見ると、もっとも描かれているのは巨岩197です。巨岩197のある場所を、研究者が縮尺1/5000分の1の「木屋平村全図」(1990)と、ひとつひとつ突き合わせてみると、それが露岩・散岩・岩場として現在の地形図上で確認できるようです。絵図は、巨石や祠の位置までかなり正確にかかれていることが分かります。

描かれた巨石(磐座)の中で名前のつけられたもの挙げてみると次のようになります。
①三ッ木村葛尾名の「畳石(870m)」(美馬郡半平村境付近),
②南開名の「龍ノ口」(穴吹川左岸),
③川井村大北名の「雨行(あまぎょう)山(925m)」の頂直下の「大師ノ岩屋」・「香合ノ谷」・「護摩檀」
④名西郡上分上山村境の「穀敷石(950m)
⑤木屋平村の「谷口カゲ」の「権現休石(410m)」
⑥那賀郡川成村境の「塔ノ石(1,487m)」
⑦美馬郡一宇村境の「ヨビ石(881m)」
⑧剣山修験の行場である「垢離掻川(750m)」北の「鏡石(910m)」
 これは異界への入口でもあり、修験行場の可能性が高いと研究者は考えています。
ここでは③の天行山の大師の岩屋を見ておきましょう。
木屋平 天行山
天行山(大師の岩屋や護摩壇などかつての行場) 
川井トンネルから北西に天行山(925m)があります。
木屋平天行山入口

この山腹の岩場に「大師ノ岩屋」・「護摩檀」・「香合ノ岩」などの行場が描かれています。そして絵図では「雨行大権現」が天行山頂に鎮座しています。現在は「雨行大権現」は、頂上ではなく、「大師ノ岩屋」の上方にあり,地元では「大師庵」と呼ばれているようです。
木屋平 川井村の雨行大権現 大師の岩屋付近
天行山の大師の岩屋
明治9年(1876)の『阿波国郡村誌・麻植郡下・川井村』には、次のように記されています。
「大師檀 本村東ノ方大北雨行山ニアリ巌窟アリ三拾人ヲ容ルヘク少シ離レテ護摩檀ト称スル処アリ 古昔僧空海茲ニ来リテ此檀ニ護摩ヲ修業シ岩窟ノ悪蛇を除シタリ土人之ヲ大師檀ト称ス」

意訳変換しておくと
「大師檀は、川井村東方の大北の雨(天)行山にある。人が30人ほど入れる岩屋があり、少し離れて護摩檀と呼ばれる所がある。かつて僧空海がここに来て、この檀で護摩修業して岩窟に住んでいた悪蛇を退散させたと伝えられる。そのため地元では大師檀と呼ばれている。

弘法大師伝説と結びつけられていますが、ここが行者たちの行場であったことがうかがえます。
木屋平 天行山の石段
大師の岩屋への石段 「大師一夜建鉄立の石段」
大師の岩屋には「大師一夜建鉄立の石段」と伝わる結晶片岩でできた急な石段が続いています。頂上直下の岩屋に下りていくと岩にへばりつくように大師庵が見えてきます。
木屋平 大師庵
天行山窟大師

「護摩檀」の横には、「大日如来」像が鎮座します。その台座には、明治9年3月吉日の銘と、「施主 中山今丸名(三ッ木村管蔵名南にある麻植郡中山村今丸名)中川儀蔵と刻まれています。台座に刻まれた集落名と人をみると,世話人の川井村5人をはじめ,三ッ木村4人,大北名3人,管蔵名1人,今丸名13人,市初名(三ッ木村)1人,上分上山村9人,下分上山村3人,不明2人の41人で,近隣の村人の人たちが中心になって建立されたことが分かります。

木屋平 天行山3

 「大日如来」像の横には「大正十五年十二月 天行山三十三番観世音建設大施主當山中與開基大法師清海」と刻まれた33体の観世音像が鎮座しています。ここからは、この岩場は「修験の行場 + 周辺の村人の尊崇の対象となった民間信仰」が複合した「宗教施設」と研究者は推測します。これを計画し、勧進したのは修験者だったことが考えられます。かつては、雨行大権現として頂上に祀られていたお堂は、今は窟大師として太子伝説に接ぎ木されて、大師の岩屋に移されているようです。
 このような「行場+民間信仰」の場が木屋平周辺にはいくつも見られます。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
三ツ木村と川井村の「宗教施設」
次に権現を見ていきます。修験者たちは、仏や菩薩が衆生を救うために権(かり)に姿をあらわしたものを「権現」と呼びました。
絵図に権現と記されている所を挙げると次のようになります。
⑨木屋平村と一宇村境の「杖立権現(1,048m)」
⑩三ッ木村と半平村の境の「アザミ権現(1,138m)」
⑪東宮山(1,091m)西斜面の「杖立権現」
⑫川井村と上分上山村境の「雨行大権現」と「富貴権現(970m)」
⑬三ッ木村・川井村境の「城之丸大権現(1,060m)」
⑭岩倉村境の霊場「一ノ森(1,879m)」の「経塚大権現」・「二森大権現」,
⑮剣山山頂(1,955m)にある「宝蔵石権現」
⑯木屋平側の行場にある「古剣大権現(1,720m)」
⑰祖谷山側にある「大篠剣大権現(1,810m)」
⑱丸笹山頂付近の「権現(1,580m)」
⑲川井村麻衣名の「蔵王権現(現麻衣神社,600m)」
木屋平 宗教的概観
木屋平村西部の「宗教施設」
地図で位置を確認すると分かるように、隣村と境をなす聖なる霊山に多く鎮座しているのが分かります。これらの権現を繋ぐと霊山を繋ぐ権現スカイラインが見えてきます。天上の道を、修験者たちは権現を結んで「行道」していたことがうかがえます。「権現」は、剣山修験の霊場や行場に鎮座しているようです。
山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
旧龍光寺(木屋平谷口)
 中世以来、木屋平周辺の行場の拠点となっていたのが木屋平村谷口にある龍光寺だったようです。
 龍光寺はもともとは長福寺と呼ばれ、忌部十八坊の一つでした。古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持っていました。忌部十八坊というのは、忌部神社の別当であった高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ寺院の連帯組織で、忌部修験と呼ばれる数多くの山伏達を傘下に置いていました。江戸時代に入ると、こうした中世的組織は弱体化します。しかし、修験に関する限り、高越山の高越寺の名門としての地位は存続していたようです。
 長福寺(龍光寺)は、木屋平を取り巻く行場の管理権を握っていました。それは剣山の山頂近くにある剣神社の管理権も含んでいました。しかし、近世初頭までの剣山は著名な霊山や行場とは見られていなかったようです。高越山などに比べると霊山としての知名度も低く、プロの修験者が檀那から依頼されて代参する山にも入っていません。
  近世になると長福寺は、それまでは「一の森とか、立石、こざさ権現、太郎ぎゅう」と呼ばれていた山を「剣山」というキラキラネームに換えて、一大霊場として売り出す戦略に出ます。同時に、寺名も長福寺から龍光寺へと変えます。そして、「剣山開発プロジェクト」を勧めていきます。そのために取り組んだのが、受けいれ施設の整備です。それが絵図には、下図のように記されています。

木屋平 富士の池両剣神社
 富士の池坊と両剣前神社
  龍光寺は、剣の穴吹登山口の八合目の藤(富士)の池に「藤の池本坊」を作ります。登山客が頂上の剱祠でご来光を見るためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を藤の池に造営し、寺が別当となります。これは「頂上へのベースーキャンプ」であり、これで頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、山伏たちが先達となって多くの信者たちを引き連れてやって来るようになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
  この結果、藤の池までの穴吹川沿いのルートや剣山周辺行場だけに多くの信者が集中するようになります。それでも、それまで行場として使われていた巨石(磐座)や権現は、修験者たちによって使われ続けたようです。それが19世紀初頭に書かれた村絵図に、巨石(磐座)や権現として描き込まれていると私は考えています。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 

      
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平家の馬場(剣山山頂) 
 いまは剣山の表玄関は見ノ越です。ここまで車でいきリフトにのればで1700メートルまで挙げてくれますので、頂上が一番近い「百名山」のひとつになっています。

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剣山リフトで1750mまで上げてくれる
西島のリフトから続く何本かの遊歩道のどれを選んでも1時間足らずで頂上に立つ事ができます。

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リフト終点から頂上へのルートは3本
このエリアを歩く限りは、この山が修験者たちの行場であったことをうかがわせるものに出会うことはありません。しかし、頂上から北側の穴吹川の源流地帯に下りて行くと、石灰岩の断崖と洞窟が続く行場が展開します。そして、いまでもこの行場は使われています。
 この行場はいつ、どんな人たちによって開かれたのかを見ていく事にします。
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剣山北面は修験者の行場
まず、剣山という山名についてです。頂上にやってきた人たちがよく言うのが「剣のように険しく切り立った山かと思っていたら・・・・四国笹の続く雲上の草原みたい」という感想です。

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剣山山頂の四国笹の草原

 この山が剣山と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのようです。
『祖谷紀行』によれば、旧名を「立石山」としています。
明治十二年六月龍光寺住職・明皆成が作った「剱和讃」の中は
「帰命頂礼剱山、其濫触を尋ぬれば……一万石立の山なるぞ」
とあって、「石立山」と呼ばれていたことが分かります。「立石山」と「石立山」は二字が逆になっていますが、同じ意味で、両方の名前で呼ばれていたようです。「石立・立石」という呼称は、頂上の宝蔵石からきたものとしておきます。
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剣山頂上の宝蔵石(山小屋に隣接)

江戸時代に藩主の祖谷山巡見の際に、お付きの絵師が書いたとされる祖谷山絵巻の剣山山頂です。
剣山頂上 祖谷山絵巻
祖谷山絵巻の剣山山頂(法蔵岩)
ここの描かれているのは、現在の登山者たちが目指す三角点のある頂上ではありません。宝蔵石と今は呼ばれている「立石」が、当時の頂上で、シンボルでもあり、信仰の対象になっていたことがうかがえます。
 また別の記録によると、この山はかつて「小篠(こざさ)」とも呼ばれたと伝えます。
『異本阿波志』の「剣山……。此山に剣の権現御鎮座あり、又、小篠の権現とも申す」「剣山小篠権現、六月十八日祭か……」

ここでは「小篠」が「剣山」の別名として使用されています。権現という用語から、修験的要素がすでに入り込んでいることがうかがえます。
 この山は、南に続く美しい稜線で結ばれる次郎笈があります。
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次郎笈(ぎゅう)
地元では、剣はかつては太郎ギュウと呼ばれ次郎ギュウと兄弟山で、それを伝える民話も残っているようです。研究者は次のように考えているようです。
「ギュウは笈で山伏の着用するオイズルのことであって、その山容が笈に似ている」

ここにも、修験者の影が見え隠れします。  つまり、剣山の名で記されている史料が現れるのは、近世以降なのです。それ以前には、この山は別の名で呼ばれていたようです。

昇尾頭山からの剣山眺望
剣山と次郎笈(祖谷山絵巻)
それでは、江戸時代になって剣山と呼ばれるようになったのはなぜなのでしょうか

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剣山直下の大剣岩
第一は、大剣神社の存在です。
この神社の御神体の大剣石が大地に突き刺さったような姿はインパクトがあります。ここには、剣神社(大剣神社、神仏分離以前は大剣権現)が祀られています。ここから剣山の名が生まれたとするものです。
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剣山直下の大剣岩
  たとえば、『阿波志』の「剣祠」(剣神社)の項には、次のように記されています。
 剣祠 祖山菅生名剣山の上に在り、名を去る二里余、頂に岩あり、屹立す、高さ三丈、土人以て神と為す、三月、雪消え人方に登謁す、其形の似たるを以て、名づけて剣と日ふ、祠中剣あり、元文中(一七三六~四一)人あり、之を盗む、既に得て、之を小剣岩窟中の人跡至らざる所に納む、後終に失ふ

意訳変換しておくと
剣祠(大剣社)は、祖山菅生(すげおい)の剣山の上にある。菅生名から二里余、頂に岩が高さ三丈の岩が屹立する。地元の人達は、これを神と崇める。三月になって、雪が消えると人々は参拝に訪れる。この岩はその姿から「剣」と呼ばれている。祠の中には剣がある。元文年間(1736~41)に、盗人に盗まれたものを取り返し、小剣の岩窟中の人跡至らざる所に納めたが、後に行方が分からなくなった。

 「形の似たるを以て、名づけて剣と云う」とあり、岩の形から剣山の名が与えられ、後に剣を奉納したようです。だんだん「剣」が定着していく過程が見えて来ます。

大剣石 祖谷山絵図
大剣岩(神石)と大剣社(祖谷山絵巻)

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大剣神社

  また、宝暦七年(1757)、宇野真重著の『異本阿波志』には次のように記されています。
 剣山 祖谷山東の端也、此山上に剣の権現御鎮座あり、又、小篠(剣山)の権現とも申、谷より高さ三十間斗四方なる柱のことき巌、立たり、風雨是をおかせども錆ず、誠に神宝の霊剣なり、
六月七日諸人参詣多し、菅生名より五里此間に大家なし、夜に出て夜に帰ると云ふ、其余木屋平村より参詣の道あり、諸人多くは是より登る
 意訳変換しておくと
 剣山は祖谷山の東の端にあたる。この山上に剣の権現が鎮座していて、小篠(剣山)の権現とも呼ぶ。谷から高さ三十間ばかりの四方柱のような巌石が起立する。風雨にも錆ず、誠に神宝の霊剣である。六月七日には、数多くの人達が参詣登山する。菅生名から五里の間に集落はない。夜に出て夜に帰ると云う。この他には木屋平村からの参詣道あり、諸人多くは是より登る
ここにも 神石が「神宝の霊剣」として信仰の対象になって、菅生や木屋平からの参拝者がいたことが分かります。
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大剣岩と大剣神社の赤い屋根

その二は、剣神社に祀る神宝が剣であることに由来するとする説です。
この説を裏付ける江戸期の文献はありませんが、明治45年の田山花袋著『新撰名勝地誌』には、次のように記されています。

「剣山は四国第一の高山にして……(中略)……山頂に一小祠あり、剣の社と称す。安徳天皇の剣を祀れるより其名を得たりといふ……(後略)」

ここには、平家と共に落ち延びてきた安徳帝の神宝の剣を、ここの神社に祀った。だから剣神社と呼ばれるようになった。「安徳天皇の剣=剣神社=剣山」ということになるようです。

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剣山頂の法蔵岩
 その三は、安徳天皇の剣を埋めたことによるとする説です。
 祖谷地方の伝承に屋島合戦に敗れた平氏一族が、密かに安徳帝を奉じて祖谷に入ってきたとする「平家落人説」があります。江戸末期の寛政五年(1792)、讃岐の文人・菊地武矩が当地を訪れた際の旅行記『祖谷紀行』には、次のように記されています。

「山上より遥に剣の峰みゆ、其山、昔は立石山といひしが安徳天皇の御つるぎを納め給ひしより、剣の峯といふとなん」

 3つの説に共通するのは、頂上直下の剱祠(大剣神社・大剣権現)が、人々の強い信仰を集めていたらしいことと、この山の修験的性格です。
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剣を埋めたと伝えられる剣山頂の法蔵岩

ここまでで、私が感じた事は、剣山の開山が石鎚に比べると新しい事です。
この山は室町時代以前には、一般の人が登る山ではなかったようです。例えば、天文二十一年(一五五二)に阿波の修験者達が「天文約書」と呼ばれる約定書を結びますが、その一項に次のように記されています。
「一、御代参之事、大峰、伊勢、熊野、愛宕、高越、何之御代参成共念行者指置不可参之事」

この中に挙げられる霊山のうち、高越山が当時は阿波の修験道の霊山で代参対象の山であったことが分かります。ところが、ここに剣山はありません。山伏達が檀那の依頼で、登る山ではなかったのです。

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一の森への縦走路

 「剣山開発」は、江戸時代になって始まったようです。
伊予の石鎚山の隆盛、四国霊場の誕生、数多くいた阿波の真言山伏の存在、そうした要素が阿波第一の高山である剣山を信仰と娯楽の面から世に出そうとする動きを後押しします。
 剣山を修験者や信者が登る山に「開発」するために、動き出したのが美馬郡木屋平村谷口にある龍光寺(元は長福寺)と三好郡東祖谷山村菅生にある円福寺のふたつの山伏寺でした。

山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
木屋平の龍光寺
まず、木屋平の龍光寺の剣山開発プロジェクトを見てみましょう。
 龍光寺は、剣山の山頂近くにある剣神社の管理権を持っていました。当時の霊山登山参拝は、立山・白山・石鎚で行われていたように、先達が一般信者を連れてくるスタイルでした。先達が各地域の人々を勧誘組織化し信者として修行・参拝するのです。中世の熊野詣での先達と檀那の関係を受け継いでします。
 つまり先ず必用なのは修験道山伏たちです。彼が各地域で布教活動を進め、勧誘しない限り参拝客は集まりません。龍光寺は、阿波の修験山伏達との間に、相互協力の関係を作り上げて行く事に成功します。
 龍光寺大御堂には、寛元年間に造られたと思われる阿弥陀如来坐像など六体の像があります。そのうちの不動明王立像光背の裏面に、次のように記されています。
「元禄十丁丑年 銀子拾弐分たいこ 教学院口口口並口口口寄進 十二月十四日」

ここからは修験者、教学院が龍光寺と協力関係にあったことが分かります。龍光寺が江戸初期の頃に「剣山開発」に進出したこともうかがえます。
  龍光寺の剣山開発プロジェクトの次の手は、受けいれ施設の整備です。
木屋平 富士の池両剣神社
剣修行のベースキャンプとなった富士池

  剣の穴吹登山口の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。
登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。この藤(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。

木屋平 富士の池道標

こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
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 一の森の権現さん
 実は、龍光寺は享保二年(1717)に長福寺から寺名へ改称しています。この背後には何があったのでしょうか?
 もともと、長福寺は中世に結成されたとされる忌部十八坊の一つでした。古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持っていました。忌部十八坊というのは、忌部神社の別当であった高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ寺院の連帯組織で、忌部修験と呼ばれる数多くの山伏達を傘下に置いていました。江戸時代に入ると、こうした中世的組織は弱体化します。しかし、修験に関する限り、高越山、高越寺の名門としての地位は存続していたようです。

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剣と一の森を結ぶ縦走路

 そのような情勢の中で長福寺(龍光寺)は、木屋平に別派の剣山修験を立てようとしたのです。
これは、本山の高越寺の反発をうけたはずです。しかし、「剣山開発」プロジェクトを進めるためには避けては通れない道だったのです。そこで、高越寺の影響下から抜け出し、独自路線を歩むために、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名したと研究者は考えています。
 修験者山伏達の好む「龍」の字を用いる「龍光寺」への寺名変更は、関係者には好意的に迎えられ、忌部十八坊からの独立宣言となったのかもしれません。

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剣山北面の行場への道
 龍光寺の寺名の改変と、剣山の名称改変はリンクするようです。
 修験の霊山として出発した剣山は、霊山なる故に神秘性のベールが求められます。それまでの「石立山」や「立石山」は、単に自然の地理から出たもので、どこにでもある名前です。それに比べて「剣」というのは、きらりと光ります。きらきらネームでイメージアップのネーミング戦略です。
 この地方には「平家落人」と安徳天皇の御剣を頂上に埋めたという伝説があります。これと夕イアップし、しかも修験の山伏達から好まれる嶮しい山というイメージを表現する「剣山」はもってこいです。新しい「剣山」は、龍光寺によって産み出されたものなのかもしれません。こうして、美馬郡木屋平村の龍光寺の「剣山開発」は年々隆盛になります。

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穴吹川源流に近い行場
これは、剣山の反対斜面の三好郡東祖谷山村にも、刺戟になったようです。
何故なら、剣山の半分は東祖谷山村のもので、剣山頂は同村に属しています。見ノ越の円福寺は剣山に社領として広大な山地も持っていました。龍光寺の繁栄ぶりを黙って見過ごすわけにはいきません。
 祖谷菅生の円福寺は江戸時代末に、見の越に不動堂(後の剣山円福寺)を建立し、同寺が別当となる剣神社を創建します。こうして木屋平と祖谷山からのふたつのルートが開かれ、剣山への登山は発展を加えることになります。

DSC02440

このように
剣山登山の歴史が、修験組織による剣神社(大剣権現)への参詣の歩みでした。
それは剣山周辺の地がさまざまの修験道と関係する地名・行場名を持つことでもうかがえます。今に遺る地名を挙げると、藤の池・弥山・小篠、大篠・柳の水 垢離取川・不動坂・御濯川・行者堂・禅定場などがあります。このうち、藤の池・弥山・小篠・大篠・柳の水などは、大和の修験道の根本道場である大峰の行場、菊が丘池・弥山・小篠(の宿)・柳の宿など似ています。ここからは剣山の修験化が大峰をモデルにプラン化されたことをうかがわせます。

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さらに研究者は踏み込んで、次のような点を指摘します
①命名者が龍光寺を中心とする山伏修験者達であり、
②この命名が近世初頭を遡るものでないこと
③小篠などの命名から、この山伏達が当山派の醍醐寺に属したこと
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 明治初年、神仏分離令によって、修験の急速な衰退が始まります。
ところが、ここ剣山では衰退でなく発展が見られるのです。修験者の中心センターであった龍光寺及び円福寺が、中央の混乱を契機として自立し、自寺を長とする修験道組織の再編に乗り出すのです。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、信者の歓心を買い、新客の獲得につなげたのです。

DSC02433
穴吹川源流

 龍光寺の住職・明皆が明治十二年六月に信者に配布した「剱和讃」の全文があります。ここからは当時の模様を知ることができます。
          剱  和  讃
   帰命頂礼 剱山      其濫筋を尋ぬれば
   南海道の阿波の国     無二の霊山霊峰ハ
   元石立の山なるぞ     昔時行者の御開山
   秋は弘仁六年の      六月中の七日なる
   空海大師此峯に      登りて秘法を修し玉ふ
   眼を閉て祈りなん     神と仏と御出現
   殊に倶利伽羅大聖    大篠剱の御本地と
   愛染王は古剱乃      御本地仏と仰ぐなり
   されバ秘密の其中に    剱すなわち大聖尊
   此時空海石立の      山を剱と呼ひたまふ
   一字一石法花経の     塚(大師の古跡なり
   山上山下の障難を     除きたまへる事ぞかし
   古剱谷の諸行場は     役の行者の跡そかし
   中にも苔の巌窟には    龍光寺 大山大聖不動尊
   本地倶利伽羅大聖は    無二同鉢の尊ときく
   衆生の願ひある時は    童子の姿に身をやつし
   又は異形にあらわれて   生々世々の御ちかひ
   あら尊しや御剱の     神や仏を仰ぎなば
   五日も七日も精進し    垢離掻川に身漱して
   運ぶ案内富士の池     三匝行道する行者
   合掌懺悔礼拝し      御山に登る先達
   新客行者を誘ひてや    八十五町を歩きつつ
   右と左に絵符珠数     唱る真言経陀羅尼
   此の御剱の山なる     大聖尊の三昧池ぞ
   踏しおさゆる爛漫の    梵字即ち大聖尊
   壱度拝山拝堂を      いたす行者の身影の
   形いつも離るらん    悪事災難病難を
   祓ひおさむる御宝剱    六根六色備るを
   唯真心のひとつなり    深く仰て信ずべし
      龍光寺住職    明皆成誌
    明治十二年六月   当山教会者へ授共す
 
DSC02439

 今では、見の越が剣山参詣の玄関口スタートになりました。
「裏参道」が「表参道」にとって変わったと言えるのかも知れません。見ノ越の円福寺の信者は、徳島県西部の三好郡・香川県・愛媛県・岡山県などの人々が多いようです。高い山岳を県内にもたない香川県人が、祖谷谷経由で参拝を行っていた名残なのでしょうか。円福寺建設には香川県人が深く関与したようです。
 一方、藤の池派には本県東部の人々が多く、かつては先達に名西郡神山町出身者の多かったと云われます。神山町は、剣山への玄関だっただけに修験活動も活溌だったようです。

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参考文献 田中善隆 剣山信仰の成立と展開  大山・石鎚と西国修験道所収

 

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