瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:龍燈寺

前回見たように滝宮氏の初見史料は、次のA・Bのふたつです。
A  1458年5月3日
 瀧宮実明,賀茂別雷社領那珂郡万濃池の年貢6貫600文を納入する(賀茂別雷神社文書)
B 1458年7月10日
 瀧宮実長,善通寺誕生院領阿野郡萱原領家方代官職を請け負う(善通寺文書)
同じ年の文書で、Aが京都の賀茂別雷社領の満濃池跡の池之内の請負契約書で、Bが善通寺誕生院領の萱原領家方代官職の契約書です。同じ滝宮氏が請け負っていますが、請負人の名前がAが「実明」、Bが「実長」です。ここからは二つの滝宮家があったことが分かります。南海通記によると、滝宮氏には2つの流れがあり、居館は次の通りです
Aが本家(実明系)で、松崎跡で滝宮豊後守
Bが分家(実長系)で、滝宮城を拠点
今回は滝宮氏の2つの居館跡を見ていくことにします。讃岐中世の居館を見る際に私が愛用している「中世城館跡分布調査報告書(香川県) 2018年8月10日」を、テキストにします。

香川県中世城館跡詳細分布調査報告 - 古書店 氷川書房


まず、Bの滝宮城跡ですが、これは今は滝宮神社や天満宮の社地となっているようです。

滝宮城
滝宮城

 西側に綾川が入り込む深い谷があり、その上に拡がる広い微高地に立地していたようです。周辺の地形観察等から研究者は次のように指摘します。
①綾南警察署から100m南で幅の広い谷が川から入り込み、またこの東延長上も堀切状となっている。
②この入江は川港の役割も果たしていた可能性がある。
③滝宮天満宮正面の東西の道辺りに空堀があったと伝えられる。
④滝宮神社を中心とした南北200mx東西150mの台状地形を復元できるが、城域とするには広い。
⑤遺構は未確認である。
⑥A地点で行われた試掘調査で、滝宮城跡と同時期とされる柱穴群・土師器・瓦が確認
次に、滝宮城の北方1kmの松崎城(柾木城)跡を見ていくことにします。

松崎城 2滝宮氏

松崎城
松崎城は県道184号線沿いにある松崎バス停付近に築かれていたようです。伝承地を地形復元すると綾川に流れ込む南と北の谷に囲まれた段丘状の解析台地上に立地します。府中湖の低地に突き出た舌状地形になっています。古代の綾氏は、陶に最先端の須恵器工場群を造って、水運を通じて綾川河口から畿内へ運び込んでいたとされます。綾川は重要な交通路でした。その綾川を見下ろす丘にお城は築かれいたことになります。また、川港としても利用されていたことがうかがえます。どちらにしても、戦略的な要衝で城を築くには好適の地です。ただ、西側の谷の付け根には堀切の痕跡はないようです。

松崎城 滝宮氏
松崎城跡周辺 綾川に面した入江の上に立地する
天正年間に松崎城主として『南海通記』などに登場する滝宮豊後守は、実長の後裔とされます。そこには、次のように記されています。

松崎城主の滝宮豊後守安資は、羽床城主羽床伊豆守資載の女を妻にしていた。ところが同じく羽床伊豆守資載の女を妻に迎えていた勝賀城主香西伊賀守佳清が、天正6年(1578年)に、これを離縁した。これに憤激した羽床氏と香西氏の間で争いが始まり、羽床伊豆守の嫡男羽床忠兵衛が軍勢を率いて柾木城を攻めてきた。滝宮豊後守の軍勢が羽床忠兵衛を討ち取ると、伊豆守が大軍を率いて押し寄せてくるのを恐れ、松崎城から香西氏の勝賀城へ逃れた。

 南海通記については、その内容に誤りや作為が多くてそのままは信じることができないと研究者は考えています。しかし、敢えてこれを事実を伝えているとすると、次のような事が読み取れます。
①滝宮氏は、羽床氏と深いつながりがあった
②しかし、羽床氏と香西氏の抗争がはじまると、松崎城主の滝宮豊後守は香西方についた。
③その結果、羽床氏の攻撃を受けて、松崎城を退いて香西氏の勝賀城に身を寄せた。
④一方、滝宮城の滝宮弥十郎は羽床氏に従い、松崎城を攻め勢力を拡大した。
⑤滝宮城の滝宮氏は、その後も羽床氏に従い、長宗我部元親に降伏後は東讃制圧の先兵として活動した。
⑥秀吉の讃岐侵攻後には長宗我部元親に従って土佐に引き上げたとも伝えられるがよく分からない。
 
羽床城縄張り図
羽床城縄張図 滝宮氏の居館と比べると格段の相違

ここには、滝宮氏が香西氏と羽床氏にの抗争に巻き込まれ、一族同士が相争う状態になったと記されています。そういう点からすれば、羽床氏も香西氏も讃岐綾氏の同族の流れを汲む名門武士団です。それが、時の流れの中で相抗争していることになります。
 しかし、この記事が本当かどうかは分かりません。私は疑いの目で見ています。
その根拠は、当時の讃岐が阿波三好氏の氏配下にあったという視点がないからです。前回お話ししたように、当時は阿波三好氏の讃岐支配が進展し、讃岐国人の裁判権を三好氏が握っていました。それをもう一度確認しておきます。「阿波物語」第二は、1570年代のこととして三好氏の有力武将であった「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」が次のように出てきます。

伊沢殿の遺恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)のことである。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、これは伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に伊沢越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。

年代的に見てここに出てくる「滝宮豊後殿」は「1458(長禄2)年に善通寺から讃岐国萱原の代官職を預かっていた滝宮豊後守実長の子孫で、当時の松崎城の主人と研究者は考えています。
ここからは滝宮氏と阿波・伊沢氏との関係について次のようなことが分かります。
①滝宮豊後守は三好氏を支える有力者・伊沢氏と姻戚関係を結んでいたこと。
②滝宮豊後守と讃岐国人の争論を、阿波の三好長治が裁いていること
③争論の結果として、讃岐の滝宮豊後守は一度は切腹を命じられたこと
④しかし、親戚の阿波の伊沢氏の取りなしで切腹が回避されたこと
⑤ちなみに、伊沢越前守は、東讃守護代の安富筑後守も叔父だったこと。
 こうして見ると滝宮氏は、三好氏の有力家臣伊沢氏と婚姻関係を結んでいたことが分かります。また阿波三好家は、16世紀後半には讃岐の土地支配権・裁判権を握り、讃岐国人らを氏配下に編成し軍事動員できる体制にあったことも分かります。言い換えれば、讃岐は阿波三好家の領国として位置付けられるようになっていたことになります。こうした中で、三好氏が傘下に置いた羽床氏や香西氏の軍事衝突を許すでしょうか? 
丸亀平野の元吉(櫛梨)城をめぐる合戦について毛利方史料には次のように記します。
天正五(1577)年閏七月二十二日付冷泉元満等連署状写「浦備前党書」『戦国遺文三好氏編』第三二巻
急度遂注進候、 一昨二十日至元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条、此時者?一戦安否候ハて不叶儀候間、各覚悟致儀定了、警固三里罷上元吉向摺臼山与由二陣取、即要害成相副力候虎、敵以馬武者数騎来入候、初合戦衆不去鑓床請留候条、従摺臼山悉打下仕懸候、河縁ニ立会候、河口思切渡懸候間、一息ニ追崩数百人討取之候。鈴注文其外様躰塙新右帰参之時可申上候、
猶浄念二相含候、恐性謹言、
意訳変換してみると
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000人ほどです。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
ここには、阿波三好氏の指示で讃岐国衆の「長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000人程」が元吉城に攻めかかってきたと記されています。羽床氏と香西氏は、三好配下にあって元吉攻めに従軍していたことが裏付けられます。ここからも南海通記の記録は、そのままは受け取ることはできません。

滝宮氏が去った後の滝宮城はどうなったのでしょうか。
それがうかがえるのが幕末の讃岐国名勝図会に載せられた「滝宮八坂神社・龍燈院・天満宮」です。

龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(讃岐国名勝図会)
ふたつの神社に挟まれた龍燈寺が別当寺で、この社僧達がこれらの宗教施設を管理運営いました。神仏混淆下にあって大いに栄えていたことがうかがえます。この繁栄の基盤は中世の滝宮氏の時代に作られ、それが生駒・松平の保護を受けながら、この絵図の時代に至っていたようです。それが明治の神仏分離で龍燈寺が姿を消して行くことになります。

 祇園信仰 - Wikipedia
 最後に江戸時代の人々が、滝宮牛頭天王社や龍燈寺をどのように見ていたのか昔話から探っておきます。
綾川シラガ渕
山あいの水を集めて流れる綾川は、堤山を過ぎると急に流れを変えて、滝宮の方へ流れます。むかし綾川は、そのまま西へ流れていたそうです。宇多津町の大束川へ流れこんでいたのですが、滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。
さて、奈良時代のことです。
島田寺のお坊さまが、滝宮の牛頭天王社におこもりをしました。
祭神のご正体を、見きわめるためだったといいます。
おこもりして満願の日に、みたらが淵に白髪の老人が現れました。
すると、龍女も現れ、淵の岩の上へともしびを捧げられました。
白髪のおじいさんというのが、牛頭天王さんであったようです。
龍女が灯を捧げた石を、「龍灯石(りゅうとうせき)」と呼ぶようになりました。
しらが淵のあたりは、こんもりと木が茂り昼でもうす暗く気味の悪いところだったと言います。
大雨が降り洪水になると、必ず白髪頭のおじいさんが淵へ現れました。このあたりの人たちは、洪水のことを、シラガ水と呼んでいます。まるで牙をむくように水が流れる淵には、大きな岩も突き出ています。岩には、誰かの足跡がついたように凹んでいます。
ここからは次のようなことが推測できます。
①滝宮神社は牛頭天王社であったこと
②牛頭天王社の祭神は白髪老人で牛頭龍王であった
③牛頭天王に灯を捧げたのが龍王で、その場所が龍灯石であったこと
④別当寺龍燈院のいわれは、「龍灯石」であること
⑤牛頭天王が現れるみたらが渕は霊地として信仰されていたこと

滝宮(牛頭)神社
滝宮神社に奉納された牛 牛頭天王信仰の痕跡
以上をまとめておきます
①滝宮氏には、本家分家の2つの流れがあった。
②本家は、松崎城を居館とする滝宮豊後守
③分家は、滝宮城を居城として牛頭天王を奉り、氏寺として龍燈院を建立していた。
④両秋山氏の居館は、古代以来から河川水運として利用されていた綾川沿いに立地する。
⑤周辺の陶は、平安期まで須恵器などの讃岐窯業の中心地で、これらは古代綾氏によって整備された
⑥藤原氏は古代の綾氏が武士団化したものとされるが、その流れを汲むのが滝宮氏や羽床氏だったと推測できる。
⑦南海通記には、天正年間になると両滝宮氏は、香西氏と羽床氏の抗争に巻き込まれ、一族同士が相争うようになったと云うが、それには疑問が残る。
⑧滝宮氏が去った後の滝宮城跡には、牛頭天王社・龍燈院・天満宮が並び立ち、神仏混淆下で牛頭天王(蘇民将来)信仰の拠点となった。
⑨龍燈寺の社僧達は、蘇民将来などのお札を周辺の村々に配布し、牛頭天王信仰を拡げると供に、風流念仏踊り等も村々に伝えた。
⑩牛頭天王社の大祭には、中世の郷単位で構成された踊り手達が「踊り込み」奉納を行った。
⑪それが現在の滝宮念仏踊りの源流である。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札
         龍燈院が配布していたお札 「牛頭天王」とみえる


滝宮神社(旧牛頭天王社)の布教戦略

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「中世城館跡分布調査報告書(香川県) 2018年8月10日」
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  前回は南鴨念仏踊りについて、次の点を史料で押さえました。
①南鴨念仏踊りは賀茂神社に多度郡全体の宮座で構成された人々で奉納された風流念仏踊りであったこと。
②生駒藩は念仏踊りを保護し、滝宮(牛頭天王)への踊り奉納を奨励していたこと。
それが高松藩になると、南鴨組の念仏踊りは滝宮への奉納がされなくなります。その背景を今回は史料で見ていくことにします。   

多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

テキストは「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」です。  ここには、前回に紹介した入谷外記とともに、生駒藩の尾池玄番が登場します。 彼は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言

七月朔日(1日)       玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

  多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)
⑨尾池玄番の通達を受けて、辻五兵衛が庄屋仲間の二郎兵衛にあてた文書です 。
尚々申上候 右迄外記玄番様へ被仰上御公事次第 被成可然存候事御神前之儀候間前かた御吟味御尤に候。殊に御音信として御たる添存候。后程懸御目御礼可申上候
以上
貴札添拝見仕候 然者滝宮神前之念仏に付御状井源兵衛殿此方へ御越添存候
一 七ケ村と先さきの御からかい被成
候時山田市兵衛門三四郎滝宮之甚右衛門我等外記様御下代衆為御使罷出申極は多度郡南条外記様御代官所儀に候へは其時重而之儀被成何も公儀次第被成候へと外記殿下代衆も被仰候付而其通皆々様へも申渡候。於有之違申間敷候。 外記様玄番様へも被仰上前かと御吟味被成候事御尤に存事に候。猶委は此源兵衛殿へ申渡候 恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡               
 二郎兵衛様江御報
  意訳変換しておくと
外記様や玄番様に申し上げた神事の順番について、以前のことを吟味した上でしかるべき措置を指示をいただいた。添状まで文書でいただいているので、後日御覧に入れたい。
 以上
書状を拝見し、滝宮神前での念仏踊り奉納について、御状と源兵衛殿方へ添状について
一 七ケ村との今後の対応について
山田市兵衛門三四郎、滝宮の甚右衛門と我等と外記様の御下代衆が一致して対応している。多度郡南条の外記様の御代官所が公儀として下代衆も仰せ付け、その通りを皆々様へも申渡しました。 これについて私たちが異議を申すことはありません。 猶子細は使者の源兵衛殿へ申渡しております。
恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡 二郎兵衛様江御報
  ここからは次のようなことが分かります。
①前回に、多度郡の鴨組と那珂郡の七箇村組との間に、踊りの順番を巡って争いがあったこと
②それについて、鴨組から「外記様や玄番様」を通じて前回の調停案遵守を七箇村に確認するように求めたこと
③その結果、納得のいく回答文書が「外記様や玄番様」からいただけたこと
讃岐国絵図 多度津
多度郡の村々(讃岐国絵図)

鴨組からの要求を受けて、7月20日に尾池玄番が多度郡の大庄屋たちに出したのが次の文書です。
 尚々喧嘩不仕候様に事々々々々可申付候長ゑなと入候はヽまへかとより可申越候   以上
態申遣候 かも(加茂)より滝宮へ二十五日に念仏入候間各奉行候ておとらせ可申候 郡中さたまり申候ことく村々へ申付けいこ可出申由候 恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殿
松井左太夫殿
  意訳変換しておくと
くれぐれも(滝宮への踊り込みについては)喧嘩などせぬように、前々から申しつけている通りである。  以上
態申遣候  加茂から滝宮へ7月25日に念仏奉納について各奉行に沙汰し、郡中で決められたとおり村々での準備・稽古を進めるように申しつける。恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殴
松井左太夫殿
大意をとると次のようになるようです。
「踊りの順番については、七箇村組に前回の調停書案所を遵守させるの心配するな。喧嘩などせずに、しっかりと稽古して、踊れ」
 
尾池玄番は、奉納日が近づいた7月20日にも、次のような文書を出しています
尚々於神前先番後番は くじ取可然と存候もよりに真福寺へ入可申候 委此者可申候 以上
書状披見候
一 当年滝宮へ南鴨より念仏入候由先度も申越候 然者先年七ケ村と先番後番之出入有之処に羽床の五兵方被罷出其年は七ケ村へおとらせ候へ、重而はかも(加茂)へ可申付との曖に而相済由承候処則五兵方へ申理状を取七ケ村政所衆へつけ可申候。同日(滝宮牛頭)天王様之於御前圏取可然存候。
一  たヽき鐘かり申度由候 町に而きもをいり候へと仁左衛間申付候
一 刀脇指今程はかして無之候。 但股介に申付かり候へと申付候。 委は此者可申候 恐々謹言
七月二十五日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦

  意訳変換しておくと
くれぐれも神前での踊り奉納の先番後番の順番は、「くじ」によるものとする。これについては、真福寺に伝えているので、子細は真福寺の指示に従うこと。
書状披見候
一 今年の南鴨の念仏踊奉納については、先般も伝えたとおりである。先年、七ケ村と順番を巡って喧嘩出入があった折りに、羽床の五兵衛の調停でこの年は七ケ村が先に踊ることで決着した。重ね重ねこの件については、五兵衛に申送状を七ケ村の政所衆へ届けさせる。同日(滝宮牛頭)天王様の於御前で確認されたい。
一  叩き鐘の借用について申し出があったが、準備を仁左衛門に申付けてある。
一 刀脇指については、今は貸し与えてはいない。ただし、股介は貸し与えることを申付けている。子細は、使者に伝えているので口頭で聞くように 恐々謹言
七月二十日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦
奉納が25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。

 尾池玄蕃の発信文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日)  尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認

以上からも、生駒藩の玄蕃などの現地重役の意向を受けて、滝宮念仏踊りは開催されていたことが分かります。そして、役人と龍燈院という個人的な関係だけでなく、生駒藩として政策的に龍燈院を保護していたことが裏付けられます。同時に尾池玄蕃が彼の管理エリアである丸亀平野について、七箇村(まんのう町)や南鴨組のことについて熟知している様子がうかがえます。彼が「能吏」であったことが分かります。

龍燈院・滝宮神社
    手前が滝宮(牛頭天王)社、その向こうが別当寺の龍燈院

ところが、次の高松藩が成立した年の文書からは、南鴨組の踊りの奉納が停止されたことがうかがえます。滝宮(牛頭天王)社の別当寺龍燈院の住職が、南鴨の責任者に宛てた文書を見ておきましょう。
尚々貴殿様御肝煎之所無残所候へとも御一力にては調不申候由候尤存候。 来年は是非共被入御情に尤存候。今回はいそかしく御座候間先は如此候郡中御祈念申候間左様に御心得可被成候。来年は国守御付可被成候間念仏も相調可申と存事に御座候 以上
     
御状添拝見申候 就其念仏相延申候左右被成候、祝言銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造に請取申し候。則御神前にて念比祈念仕候来年は念仏御興行可被成候。 何も御吏へ口上に申渡候間不能多筆候 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
意訳変換しておくと
貴殿様は人の世話をしたり、両者を取り持ったりする肝煎の役割を果たされている重要な人物であることを存じています。そんな貴殿様でも、今回のことについては、力が及ばないことは当然のことです。来年は(鴨組の)踊り奉納が復活できると信じています。今回は、明日の奉納を控えての忙しい時期ではありますが、多度郡のことを祈念いたします。来年は御領主さまも鴨組の参加を認めることでしょう。 以上
     
なお書状・添状を拝見しました。念仏踊り奉納は延期(中止)になりましたが、お祝いの銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造を請取りました。御神前に奉納し、来年は念仏御興行が成就できるように祈念いたします。文字で残すと差し障りがあるので、御吏へ口頭で伝えています。 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
ここからは次のようなことが分かります。
①寛永19(1642年)7月24日に、龍燈院住職が南鴨組の責任者に出した書簡であること
②前半は鴨組の踊り奉納が、何らかの理由でできなくなったことへの詫状的な内容であること。
③後半は、奉納日前日の7月24日に、これまで通りに南鴨組が奉納品を納めたことに対する龍燈院住職から礼状であること。
ここからは、それまで奉納していた南鴨組の踊りが、高松藩主の意向で踊り込みが許されなくなったことがうかがえます。その背景には何があったのでしょうか?
  龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを「西四郡」のみで再興させ、その通知高札を7月23日に掲げた
松平頼重が踊り込みを認めた「西4郡」の踊組とは、以下の通りです。
①綾郡北条組(坂出周辺)
②綾郡南條組(綾川町滝宮周辺)
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)
④那珂郡七箇村(まんのう町 + 琴平町)
ここには、多度郡の南鴨組の名前はありません。
南鴨組の名前が消えるまでの経緯を、私は次のように想像しています

 寛永19(1642年)5月28日、高松藩初代藩主として松平頼重が海路で高松城に入り、藩内巡見などを行って統治構想を練っていく。このような中で、滝宮(牛頭天王)社の念仏踊り奉納のことが耳に入る。頼重が、気になったのが他藩の踊組があることだった。那珂郡七箇村組(構成は高松藩・天領・丸亀藩)は、大半が高松藩に属すから許すとしても、南鴨組は丸亀藩の踊組だ。これを高松藩内の滝宮神社への奉納を許すかどうかだ。丸亀藩の立場からすれば、自藩の多度郡の村々が他藩の神社に奉納するのを好ましくは思わないだろう。隣藩とのもめ事の芽は、事前に摘んでおきたい。南鴨組からの踊り込みについては、丁重に断れと別当・龍燈院住職に指示することにしよう。

こうして、中世以来続いてきた南鴨組の滝宮牛頭天王への念仏踊りの奉納は、以後は取りやめとなった。以上が私の考えるストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)
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