
全国で行われている水口祭 それぞれの護符(お札)の形がある
私の家もかつては農家で、米を作っていました。そのため家の前の田んぼが苗代で、苗をとっていたことを覚えています。その苗代の一角にお札が竹に挟んで指してあり、その横には花が添えられていました。「何のためのもの?」と訊ねると「苗代の神様で、苗の生長を護ってくれるもの」と教えられた覚えがあります。苗代の水口に護符や花を立てる習俗を「水口祭」と呼んでいます。
ところで丸亀平野の水口祭については、ある特徴があります。その事に触れた調査報告に出会ったので紹介しておきます。テキストは「織野英史 丸亀平野周辺の水口祭と護符 民具集積22 2021年」です。

水口祭りの護符(熊本の阿蘇神社)
ところで丸亀平野の水口祭については、ある特徴があります。その事に触れた調査報告に出会ったので紹介しておきます。テキストは「織野英史 丸亀平野周辺の水口祭と護符 民具集積22 2021年」です。

民具集積(四国民具研究会)
丸亀平野の水口祭の初見は「西讃府志」安政五年、巻第二「焼米」の項で、次のように記します。「本稲神ヲ下ス時水口祭トテ苗代ノ水ロニ保食神ノ璽ヲ立蒔餘リクル靭ヲ煎リタキテ供フ、是ヲ焼米ト云う、ソノ余りハ親しき家二贈りナドモスルニ又此日正月ニ飾リタル門松ヲ蓄ヘ置テ山テ雑炊ヲ煮ル家モアリ」
意訳変換しておくと
「この稲神を迎えるときに、水口祭を行う。苗代の水口に保食神の璽(護符)を立てて、余った籾を煎って供える、これを焼米と云う、その余りは、親しい家に贈ったりする。またこの日は、保管してあった正月に飾った松で雑炊を煮る家もある」
ここで研究者が注目するのは、「水口祭」という儀礼の名称と「保食神」という神名が挙げられていることです。ここからは、幕末の安政年間に丸亀平野で水口祭が行われ、保食神の護行を立てたことが分かります。


水口祭の護符
右が丸亀市垂水町(垂水神社配布)で使用された「マツノミサン」と呼ばれる護符です。護符には「保食神」と書かれて、中にはオンマツとメンマツの葉が入れてあります。松の葉を稲にみたてて、よく育つようにとの願いが込められているとされます。左が高松市仏生山町(滕神社配布)の「ゴオウサン」と呼ばれる護符です。護符の中には、白米のほか滕神社の祭神である「稚日女命」の神札も入れられています。このように護符には、いろいろな形や文字が書かれたものがあります。ここで研究者が注目するのは「保食神」と書かれたお札の分布エリアが丸亀平野に限定されることです。
保食神(うけもちのかみ)について、ウキは次のように記します。
日本神話に登場する神である。『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。次のような記述内容から、女神と考えられる。天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに分かれて出るようになったのである。
先ほど見た西讃府志の編者の一人、秋山椎恭は櫛梨村(琴平町)の在住とされ、この地区の習俗を反映させて「保食神」を登場させたことが考えられます。そこで研究者は、次のような課題を持って周辺調査を行います。
A 櫛梨村周辺に「西讃府志」の「焼米」の習俗が今も行われているかどうかB 「保食神」の護符が、どの範囲で分布しているのか
そして、まんのう町・琴平町・善通寺市・丸亀市で各農家を訪ねて現在の水口祭の様子を調査報告します。
ここではまんのう町真野の水口祭と「保食神」護符の事例報告を見ていくことにします。
ここではまんのう町真野の水口祭と「保食神」護符の事例報告を見ていくことにします。
まんのう町真野池下のO家は、満濃池の北約1kmにあり、玄関には神札を貼る厨子があります。家のそばの苗代には、南から満濃池の水を流す水路が通っています。水路が「コンクリ畔」になったのは昭和43(1968年)頃と云います。以下、次のような話を聞き取っています。
苗箱には赤土・肥料・前年の籾摺りで焼いた粗般を入れる。種籾は一週間前に水に浸し、毎日水を換え、1日日前に水から出す。そして5月11日早朝、苗箱定位置に置く。播種の作業が終わると、次のような手順で水口祭の用意を進めます。
①2枚の小皿に洗米、塩を盛ってプラスチック容器に載せる
②ガラス瓶の御神酒も用意する
③メンダケ(女竹)を節三節(30㎝)ほどに切って、上部を割る
④年末に、班ごとに係が回って集金と護符の配布を済ませておく
⑤配布される護符のうち、天照皇太神(神宮大麻)は伊勢伸宮、氏神の神野神社、水口護符の一任は神野神社宮を兼務する諏訪神社宮司が発行する。
⑦容器に入った洗米、塩と御神酒、竹・葉蘭に秋んだ護符を苗代の水口へ持って行く
⑧容器に御神酒を入れ、護符を土に刺して、その前に洗米、塩、御神酒を供える
⑨花を護符の奥に飾り、30四方くらいの平たい石をお供えの下に敷く
⑨花を護符の奥に飾り、30四方くらいの平たい石をお供えの下に敷く
⑨水口の下側を堰き止めて水口へ水を誘導する
⑩水が溝に沿って苗代全体に潅水したことを見届けて、水口に向かって二拝二拍手一拝。
諏訪神社発行の水口祭護符 剣先型
中央に「保食神御守」、右に「五穀」。左に「成就」と黒スタンプが押してあります。研究者は諏訪神社の朝倉修一宮司からの次のような聞き取り報告をしています。
①写真56の護符は高さ19,8㎝②松業二葉が二本四枚、稲穂二本粗籾十三粒が入る③護符は無料④12月初め、神宮大麻(有料千円)とともに総代を通じて配布⑤氏予約120名で、諏訪神社の氏子真野・吉井・山下・下所の四名の代表に配る⑥神野神社の氏子の池下は3月に配るという.
『西讃府志』の編者の一人である秋山椎恭が那珂郡櫛梨村の人です。彼は地元で行われている水口祭を「保食神」の護符を祀る習俗として、記録したと研究者は推測します。そして、「上櫛梨の護符には「保食神」の字があり、自分の住む地区の習俗を紹介した」と記します。
①「剣先形保食神」の護符は、丸亀藩と高松藩領の境界線を扶む地域に集中分布する。強いて云えば旧髙松藩に多く丸亀藩には少ない。②これは、満濃池を水源とする金倉川水系と土器川水系に挟まれたエリアと重なる③土器川より離れた九亀市綾歌町の神名は「保食神」ではなく、「祈年祭」である④鳥坂峠大日峠麻坂峠など大麻山より西の三豊市のものは「産土大神」「大歳大神」の神名で、保食神」護符は三豊地区では使用されていない。
明治45年刊『勝間村郷土誌」には、次のように記します。
「焼米 春、稲種ヲ下ストキ水口祭リトテ、苗代ノ水口二保食神ノ璽ヲ立テ、蒔キ余レル籾ヲ煎リ、臼ニテハカキテ供フ、共余リハ親シキ家二贈リナドスルモアリ」
大正4年刊「比地 二村郷土誌」には、次のように記します。
「焼米 春稲種ヲドス時水口祭トテ苗代ノ水口二保食神ノ璽ヲ立テ潰籾ヲ煎リテハタキ籾殻ヲ去り之レヲ供ス其ノ余リハ家人打チ集ヒ祝食ス」
これだけ見ると、勝間や比地二村などでは、「保食神」御符が勝間村や比地二村で用いられたように思えます。しかし、その内容は先ほど見た西讃府志の記述内容のコピーです。よって、「保食神」御符が勝間村や比地二村で用いられた根拠とはできないと研究者は判断します。
九亀・善通寺・琴平市街地の山北八幡や、善通寺、金刀比羅宮発行の護符も「保食神」とは記していないことを押さえておきます。
次にこの護符を、どう呼んだかの呼称の問題です。
上の呼称分布図を見ると、「マットメサン」「マツノミヤサン」系統の方名も金蔵川、土器川水系に分布します。そして土器川以東や象頭山西側にも分布地があります。「マツ」は「松」であり、「ミ」は「実」と研究者は推測します。マツトメサンが濁って「マツドメサン」になったり、促音になって「マットメサシ」となることはよくあります。ナ行の「ノ」がタ行の「卜」になることもあります。「マツノミヤサン」の呼称があるため、「ミ」が、「宮」と混同されたものか、んは「宮」であったのかは、よく分かりません。
上の呼称分布図を見ると、「マットメサン」「マツノミヤサン」系統の方名も金蔵川、土器川水系に分布します。そして土器川以東や象頭山西側にも分布地があります。「マツ」は「松」であり、「ミ」は「実」と研究者は推測します。マツトメサンが濁って「マツドメサン」になったり、促音になって「マットメサシ」となることはよくあります。ナ行の「ノ」がタ行の「卜」になることもあります。「マツノミヤサン」の呼称があるため、「ミ」が、「宮」と混同されたものか、んは「宮」であったのかは、よく分かりません。
金刀比羅宮の「マツナエ」=「松伎」の事例や三豊市日枝神社の松枝の枝の間に護符を入れる事例(トンマツ)は、田の神の依代しての松枝を水口に建てたものです。これは「保食神」護符の中に松葉を入れる例につながるものです。広く「マツ」を冠す護符呼称が分布していることも押さえておきます。
さて以上から何が見えてくるのでしょうか
さて以上から何が見えてくるのでしょうか
現在は、水口護符は各神社が配布しています。それでは、神仏分離以前には誰が配布していたのでしょうか?
考えられるのは護符の呼称や形状が共通であることは、一元的な配布元があったということです。その候補として考えられるのが滝宮牛頭天王社の別当龍燈寺です。龍燈寺と水口護符の関係について、私は次のような仮説を考えています。
龍燈院は滝宮牛頭天王社の別当であった。

①龍燈院は滝宮氏や羽床氏など讃岐藤原氏の保護を受けて成長した。
②龍燈院は午頭天皇信仰の丸亀平野における中心で、多くの社僧(修験者・山伏)を抱えて、その護符を周辺の村々に配布し、「初穂料」を集めるシステムを作り上げていた。
③龍燈院の者僧たちは、芸能伝達者として一遍の念仏踊りを「風流踊り」として各村々に伝えた。
④生駒藩では西嶋八兵衛の補佐役を務めた尾池玄蕃は、念仏踊りの滝宮牛頭天王社への奉納を進めた。
⑤髙松藩松平頼重は、江戸幕府の規制をくぐって「風流踊り」ではなく「雨乞踊り」として再開させた。
⑥周辺各村々からの滝宮への念仏踊り奉納は、午頭天皇信仰を媒介として、水口祭の護符などで結ばれていた。
そして水口護符の配布者が龍燈院の社僧(山伏)であった。そのため丸亀平野の髙松藩側には「「剣先形保食神」の分布エリアとなっている。と結びつけたいのですが、この間にはまだまだ実証しなければならないことが多いようです。
龍燈院は滝宮牛頭天王社の別当であった。

①龍燈院は滝宮氏や羽床氏など讃岐藤原氏の保護を受けて成長した。
②龍燈院は午頭天皇信仰の丸亀平野における中心で、多くの社僧(修験者・山伏)を抱えて、その護符を周辺の村々に配布し、「初穂料」を集めるシステムを作り上げていた。
③龍燈院の者僧たちは、芸能伝達者として一遍の念仏踊りを「風流踊り」として各村々に伝えた。
④生駒藩では西嶋八兵衛の補佐役を務めた尾池玄蕃は、念仏踊りの滝宮牛頭天王社への奉納を進めた。
⑤髙松藩松平頼重は、江戸幕府の規制をくぐって「風流踊り」ではなく「雨乞踊り」として再開させた。
⑥周辺各村々からの滝宮への念仏踊り奉納は、午頭天皇信仰を媒介として、水口祭の護符などで結ばれていた。
そして水口護符の配布者が龍燈院の社僧(山伏)であった。そのため丸亀平野の髙松藩側には「「剣先形保食神」の分布エリアとなっている。と結びつけたいのですが、この間にはまだまだ実証しなければならないことが多いようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
織野英史 丸亀平野周辺の水口祭と護符 民具集積22 2021年
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