瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:龍燈院


讃岐雨乞い踊り分布図
佐文綾子踊り周辺の「風流雨乞踊り」分布図
   前回は、綾子踊りが三豊南部の風流雨乞踊りの影響を受けながら成立したのではないかという「仮説」をお話ししました。しかし、実は佐文は、滝宮への踊り込みを行っていた七箇念仏踊りの中心的な村でもありました。それが、どうして新たに綾子踊りを始めたのでしょうか。今回はその背景を考えて行きたいと思います。
 近世はじめの讃岐一国時代の生駒藩では、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、次の5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。
 以前にもお話ししたように、これらの組は、一つの村で編成されていたわけではありません。中世の郷内のいくつかの村の連合体で、構成されていました。その運営は中世の宮座制によるもので、役割も世襲化されていました。それが各村の村社に踊り奉納を終えた後に、7月下旬に滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいたのです。村ごとの村社がなかった中世は、それが風流踊りや芸能の郷社への奉納パターンでした。それを江戸時代の生駒家が保護し、後の髙松松平家初代の松平頼重の保護・お墨付きを与えます。しかし、その後の幕府の方針で、華美な踊りや多くの人々が集まる祭礼などは規制がかけられるようになります。そのため庶民側は、「雨乞のための踊り」という「雨乞踊り」の側面が強調し、この規制から逃れようとします。ここでは、滝宮念仏踊りは、もともとは時衆の風流念仏踊りの系譜を引くものであったことを押さえておきます。

滝宮念仏踊り 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会

ペリーがやって来た頃に編纂された讃岐国名勝図会に描かれた滝宮念仏踊りを見ておきましょう。
①正面が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の拝殿です。
②その前に、有力者達が座っています。その前に地唄方が並んでいます。
③周囲には南無阿弥陀仏の幟が建ち並びます。
④その下には鉦・太鼓・鼓・法螺貝などの鳴り物衆が囲みます。
⑤その周りを大勢の見物人が取り囲んでいます。
⑥真ん中に飛び跳ねるように、踊るのが下司(芸司)です。
ここには年ごとに順番でいくつかの踊り組が、念仏踊りを奉納していました。それでは、どうして周辺エリアの村々が滝宮に踊り込み(奉納)を行っていたのでしょうか?

滝宮念仏踊りと龍王院

そのヒントになるのがこの絵です。先ほどの絵と同じ讃岐国名勝図会の挿絵です。
①手前が綾川で、髙松街道の橋が架かっています。橋を渡って直角に滝宮神社に向かいます。ここで注目したいのが表題です。
②「八坂神社・菅神社・龍燈院」とあります。菅神社は菅原道真をまつる滝宮天満宮です。それでは八坂神社とは何でしょうか。これは京都の八坂神社の分社と滝宮神社は称していたことが分かります。何故かというと、この神社は、八坂神社と同じでスサノオを祀る牛頭天王社だったのです。
③スサノオは蘇民将来ともいわれ、その子孫であることを示すお札を家の入口に掲げれば疫病が退散するとされて、多くの信仰を集めていました。その中讃における牛頭信仰の宗教センターが滝宮牛頭天王社だったのです。そして、この神社の管理運営を行っていたのが④別当寺の龍燈院滝宮寺でした。
 神仏分離以前の神仏混淆時代は、神も仏も一緒でした。そのため龍燈院参加の念仏聖(僧侶)たちが、蘇民将来のお札を周辺の村々に配布しました。龍燈院は、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰を丸亀平野一円に拡げる役割を果たしました。同時に彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。
 こうして7月下旬の夏越しの大祭には、各村々の氏神に踊りが奉納された後に、滝宮に踊り込むというパターンが形作られます。ここで注意しておきたいのは、滝宮念仏踊りも雨乞い踊りとして踊られていたのではないことです。それを史料で確認しておきます。

滝宮念仏踊由来 喜田家文書
                喜田家文書(飯山町坂本)
喜田家文書(飯山町坂本)の由来を要約すると次のようになります
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。
降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。
③これが滝宮踊りの始まりである。
ここで注意して欲しいのは、農民達が雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。つまり雨乞成就のお礼踊りという意識なのです。中世や近世では、雨乞い祈祷ができるのは修行を重ねた験のある高僧や山伏たちとされていました。普通の百姓が雨乞い踊りをしても適えられる筈がないというのが、当時の考えです。それが変化するのは江戸時代後半から明治になってからです。

 ここで滝宮念仏踊りについて整理して起きます。
滝宮念仏踊りのシステム
滝宮念仏踊りと滝宮牛頭天皇社とその別当龍燈院の関係
それでは、滝宮に踊り込んでいた七箇村念仏踊りは、どんなものだったのでしょうか。
それを知る手がかりが吉野の郷社である諏訪神社(諏訪大明神)に奉納されている絵図です。
七箇念仏踊 図話題明神念仏絵図
諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)

①は下司で、日月の大団扇を持ち、花笠を被ります。そして同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人がいます。
②その横にはまた花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいます。
③下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれます。
⑤が諏訪神社の拝殿です。その前に2基の赤い大きな台笠が据え付けられます。

この絵を見て感じるのは綾子踊りに非常に似ていることです。この絵は、いつだれが描かせたのでしょうか?
七箇念仏踊 5
         諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)の見物小屋

この絵で注目したいのは周囲に建てられた見物小屋です。これは踊り見物のための臨時の見物小屋です。小屋には、所有者の名前が記入されています。右側の見物小屋に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことです。谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせたという説を満濃町誌は採っています。そうだとすれば先ほど見た滝宮念仏踊図が書かれた約10年後のことになります。庶民は、見物小屋の下で押し合いへし合いながら眺めています。彼らは、頭だけが並んで描かれています。彼らの多くは、この踊りにも参加できません。これが中世的な宮座制による風流踊であったことを物語っています。ここでは、「那珂郡七か村念仏踊り」は宮座による運営で、だれもが参加できるものではなかったことを押さえておきます。 
 中世の祭礼は、有力者たちがが「宮座」を形成して、彼らの財力で、運営は独占されていたのです。見物小屋は宮座のメンバーだけに許された特等席で、世襲され、時には売買の対象にもなりました。祭りの時に、ここに座れることは名誉なことで、誇りでもあったのです。ここからもこの踊りが雨乞踊りではなく、中世に起源を持つ風流踊りであったことが分かります。
 このような踊りが衰退していくのは、江戸時代後半からの秋祭りの隆盛があります。秋祭りの主役は、獅子舞やちょうさで、これには家柄に関係なく誰でもが参加できました。そのため次第に「宮座」制のもとに、一般住民が排除された風流踊りは、敬遠されるようになります。 

七箇村念仏踊りが雨乞い踊りではなかったことを示す史料をもうひとつ挙げておきます。

七箇念仏踊り 日照りなので踊らない
        奈良家文書(嘉永6年) 旱魃対策で忙しいから踊りは中止とする
岸の上の奈良家に残る1852年の史料です。この時の総責任者も真野の三原谷蔵です。このときは、7月中に各村の氏神を廻って奉納する予定でした。ところが、丸亀藩陵の佐文や後の旧十郷村から、上表のような申し入れがありました。これを読んだときに私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「旱魃で用水確保が大変なので、滝宮への踊り込みは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、7月17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、踊り奉納を延期したのです。ここからは当時の農民達に、七箇村組踊りが雨乞いのための踊りであるという意識は薄かったことが分かります。あくまで神社に奉納する風流踊りなのです。
それでは七箇念仏踊りは、どのように編成されていたのでしょうか。
七箇村組念仏踊り編成表
七箇念仏踊の編成表 多くの村々に割り当てられている
この表は、文政12(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。 縦が割当、横が各村で、次のような事が読み取れます
①真野・東西七箇村、岸の上・塩入・吉野・天領(榎井・五条・苗田)・佐文などが構成メンバーだったこと。
②各村々に役割が割当がされていたこと。
③総勢が2百人を越える大スッタフで構成されていたこと
佐文はこの表では、棒突き10名だけの割当です。ところが40年前の1790年には、七箇村念仏踊りは、東西2つの組がありました。そして、佐文は次のような役割が割り当てられていました。
七箇念仏踊り佐文への役割分担表 1790年
1790年の七箇念仏踊西組の佐文への割当
これを見ると、下司(芸司)も出していますし、小踊りも総て佐文が出していたことが分かります。ここからは西組の踊りの中心は、佐文であったことがうかがえます。ところが約40年後には棒突10人だけになっています。なんらかの理由で、踊り組が1つになり、佐文村に配分されていた割当数が大きく削られたことを示します。その時期と、綾子踊りが踊られ始める時期が重なります。これな何を意味するのでしょうか?
綾子踊 踊った年の記録
尾﨑清甫文書「踊り歳」
尾﨑清甫の残した文書の中に「踊り歳」と題されたものがあります。
これを意訳しておくと
①弘化3(1846)年7月吉日に踊った
②文久11(?)年6月18日
③文久元(1861)年7月28日踊った。延期して8月1日にも踊った
④明治8年(1874)月6日より大願をかけて、13日まで踊った。(それでも雨は降らないので)、願をかけなおして、また15・16・17日と踊った。それでも降らないので、2度の願立をして7月27日に踊った。また併せて、添願として神官の願掛けを行い、8月5日にも踊った。ついに11日雨が降った。
ここからは次のようなことが読み取れます。
①綾子踊りを踊ったという記録は、弘化3(1846)年の記録が最初であること。
②の文久11年は、年号的に存在しないこと。文久は3年迄で、その後は慶応なので疑念があること
③の前の①②の記述は、後から書き加えられた形跡があること。
④の明治になっての記録が具体的で、実際に踊られていたようです。
ここからは、綾子踊りが踊られ始めたのは、幕末前後のことであることがうかがえます。1850年代に丸亀藩が刊行した西讃府誌には、綾子踊りのことが詳しく記録されているので、この時点で踊られるようになっていたことは確かです。しかし、それより以前にまで遡らせることは史料的にはできません。そして、その時期は先ほど見たように佐文が七箇念仏踊りから排除されていった時期と重なります。
 以上から次のように私は推察しています。
①佐文村は七箇念仏踊西組の芸司や小踊りをだすなど、中心的な構成メンバーであった。
②それが18世紀末に、不始末を起こし、西組が廃止になり、同時に佐文は警固10名だけになった。
③そこで佐文は、七箇念仏踊りとは別の雨乞踊りを、三豊の風流雨乞踊りを参考にしながら編成して踊るようになった。
④こうして七箇念仏踊りが明治になって、四散解体するなかで佐文は綾子踊りを雨乞踊りとして踊り続けた。
⑤そのため綾子踊りには、三豊の小唄系風流踊りと、滝宮系の念仏踊りがミックスされた「ハイブリッドな風流踊り」として伝えられるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り 滝宮神社への踊り込み(讃岐国名勝図会)
近世はじめの生駒藩の時代には、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
                                                                  奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。②③④については、以前に何度か紹介しましたが、①の北条組については、何も触れられませんでした。新しい坂出市史を眺めていると、北条組のことが紹介されていました。読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、「坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り」です。

坂出市史1
坂出市史
北条組が、どんな村々から構成されていたのかを見ていくことにします。  
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の組織表

 坂本組や七箇村組・鴨組などは、中世のいくつかの郷からなる宮座で構成されていました。そのため近世では10ヶ村近くの村々から構成されていたことは以前にお話ししました。それでは、北条組はどうなのでしょうか。

阿野郡北条の郷
中世阿野北条の郷名

 寛政2(1791)年12月、北条組内の高屋・神谷村と青海村の間で各村社へ念仏踊り奉納順等をめぐって争論が起きます。その御裁許が寛政6(1794)年8月に関係各村に通達されています。これが「念仏一件留」(白峯寺所蔵)で『坂出市史』資料に収録されています。
この争論の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
踊順左之通                 
一 滝宮二社     七月二十五日
一 前日廿四日  神谷村笠揃仕、夫ヨり清立寺、高屋村氏神二社、白峯青海氏四社、高屋浜塩竃大明神并遍照院
一 廿五日 滝宮二社、鴨村一社、氏部村一社、西庄三社
一 二十六日 坂出一社、福江村弐社、江尻村壱社、林田村四社
右之通古来より御神事相勤来申候、尤、御法度絹布も御座候得共、持来并借用来申候、以上、
寛政三亥年十二月  
      高屋村       久次郎
           神谷村政所          恒蔵
                青海村政所兼務      渡辺五郎右衛門
右の通り御尋ニ付 御役所江指出申候
  意訳変換しておくと
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行う。
②その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社
以上の通り、古来より御神事として奉納してきた。なお御法度の絹布も着用するので、持参・借用については黙認願いたい。以上、
ここからは、北条組は24日に神谷神社から村社などへの巡回奉納が始まり、中日の25日早朝に滝宮に踊り込み、その帰りに鴨・氏部・西庄の神社に奉納しています。そして、最終日26日に、坂出・福江・江尻・林田の各神社に奉納しています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図(江戸時代前期)

ここからは次のようなことが分かります。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社への奉納が3日間で行われていたこと
③傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
④阿野郡の北の内、乃生・本沢は、入っていないこと
 以前に坂本念仏踊が、もともとは鵜足都内の、川津郷・坂本郷・小川郷・二相郷の計10ケ村からなる踊り組だったことはお話ししました。これは、那珂郡七箇村組や多度郡鴨組も同じです。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
北条念仏踊りも、神谷神社の周辺の郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったことが裏付けられます。そのプロデュースに、滝宮の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしたと私は考えています。
 滝宮念仏踊りは、もともとは、各郷社に奉納される風流念仏踊りでした。それが滝宮神社に踊り込むようになります。その際に、もめるのが村社の巡回順番です。順番や役割をめぐってどの組でも、争論が起きています。争論の末に、順番が明記されてルールになっていきます。
 それでは北条組は、各村々のどんな寺社を巡回して念仏踊りを奉納していたのでしょうか?

坂出 大藪・林田
阿野郡北図拡大(青海・高屋・林田周辺)
調停書の「念仏踊行列の定并に村々列左の通」は、次のように記します。   
右の通の行列ニテ、郡内宮々踊村々割之列
神谷村先備之分
神谷村  五社大明神     同 村  立寺
氏部村  鉾宮大明神     林田村  祇園宮
江尻村  広瀬大明神     鴨 村 加茂大明神
西庄村  別宮大明神
〆 八ケ所
高屋村先備之分
高屋村  春日大明神      同 村 崇徳天皇
同 村  塩釜大大明神  同 村 遍照院
林田村 惣社大明神 同 村 弁才天
坂出村 八幡宮 西庄村 国津大明神
〆 八ケ所
青海村先備之分
青海村  白峯寺        同 村  崇徳天皇
同 村  春日大明神      同 村  荒神
同 村  厳島大明神      林田村  牛頭天皇
福江村  魚御堂
〆 七ケ所
ここからは、3ヶ村の担当が次のように決めらたことが分かります。
①滝宮神社は、神谷・高屋村
②滝宮天満宮は、青海村
③各村々の寺社については、神谷・高屋・青海が上記のように分担して指揮をとる
④具体的な奉納寺社の名前が挙がっているが、多いのは3ケ村で、他の村は1ヶ所のみ。
坂出 鴨
阿野北絵図(神谷・鴨・氏部・西庄)

以上からは、10ヶ村がフラットな関係でなく、3ケ村(神谷・高屋・青海)の指導権で運営管理されていたことがうかがえます。ここでも争論を経て、ひとつのルールが定着していく過程が見えて来ます。
坂出 上鴨神社
鴨村の上賀茂神社(坂出市)
 こうして見ると北条念仏踊の一団は、坂出市内の合計23の寺社 + 滝宮の2社 =25社を、旧暦の7月25日前後の3日間で巡回し、踊り奉納していたことになります。真夏の炎天下の中を徒歩での移動は、なかなか大変だったことでしょう。それを多くの村人が鎮守の森で待ち受け、楽しみにしていました。地域の一大イベント行事でもあったのです。

滝宮念仏踊 那珂郡南組
那珂郡七箇村組の諏訪神社への奉納図 
以前にお話ししたように、七箇村組の諏訪神社(まんのう町真野)への奉納図には、周囲に有力者の桟敷小屋が建ち並んでいます。桟敷小屋は、宮座の名主などだけに許された権利で、財産として売買もされていたことは以前にお話ししました。ここからも念仏踊りが、もともとは中世の風流踊りに由来することがうかがえます。多くの村人が待つ各村々の鎮守の森に、踊りが奉納されていたことを押さえておきます。
 次に北条念仏踊りの準備品目・出演人数・衣装などを見ておきましょう。寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
① 幟木綿拵 拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江
② 笠鉾      壱本    加茂村 但、上花色水引金揮、
一 ほら貝吹  拾弐人  此人数増減御座候、神封左に在り
一 日の丸  壱本  神谷村
念仏音替印立申候、并に本太鼓順年二両村替合申候、太鼓打出不申村ヨり指出申候、
一 半月    壱本    青海村
一 長刀振    弐人    神谷村 高屋村 但、其足并木綿立付着用仕候、
③大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、
一 入場太鼓打 壱人    神谷村  但、年齢拾弐、三歳素麻帷子紅たすき、嶋絹立付着用、
一 太鼓持   壱人     同村 但、木綿薫物着用、
一 同鼓打       神谷村 高屋村
 但、帷子麻上下着用、三ケ村ヨり勝手次第出来り増減御座候、
一 笛吹 弐人  但、右同断、
一 下知 壱人    高屋村
 但、帷子緞子、無袖羽織・袴着用、脇折・大団・念仏音替下知仕候、
一 本太鼓打 壱人  高屋村 神谷村
 但、年齢拾四、五歳帷了縮緬単物、太鼓掛縮緬、足元嶋絹立付着用、
一 同 供  壱人  後追役 但、持道具団、木綿単物仕着せ、
一 上ヶ場貝吹 壱人 神谷村 但、帷子絹、羽織小倉立付着用、
④ 小踊    廿人  高屋村 神谷村 青海村
 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用、
⑤ 警固    三拾人  高屋村 神谷村 青海村  
 但、帷子絹、羽織・袴着用、杖
⑥ 鉦打    五拾八人  高屋村 神谷村 青海村
 但、単物帷子、羽織立付着用、
⑦ 輪踊    百二十人  高屋村 神谷村 青海村
 但、帷子、木綿単物、笠二色紙切かけ、団壱木ツヽ持、
⑧ 固役         大政所 小政所
 但、帷子麻上下刀帯仕来申滝宮相済、郡中ハ絹羽織踏込着用、
①の「一 幟木綿拵  拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江」というのは、「南無阿弥陀仏」と書かれた木綿の幟を準備するのが「氏部村以下の6ヶ村 × 2本=12本」ということです。
滝宮念仏踊り 正徳の昔(一七一一年)から踊り場にたて続けられている北村組の幟

北村組の幟(正徳元年1711年以来使用されてきた幟)

②は「上が花色で水引・金揮の笠鉾1本」を準備するのが、加茂村担当ということになります。
滝宮の念仏踊り | レディスかわにし
坂本組の赤い笠鉾
以下、「備品関係」物品があげられ、準備する村名が記されます。
③「一 大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、」の「大打物(おおたちもの)」は「太刀、槍、薙刀(なぎなた)などの長大な武器の総称」です。
「神谷村・高屋村・青海村の三村 × 8人 =24人」で「但し、刀の柄に二尺(約60㎝)をつけ、団扇を1本持つ」とあります。このように全体数と、それを担当する村名、そして但書きが続きます。
④の「小踊 廿人 高屋村 神谷村 青海村 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用」は、子踊りに三ヶ村から20人 年齢は7・8歳で、以下着用衣装が記されています。
人数が多いのが⑤ 警固30人 ⑥鉦打 58人 ⑦ 輪踊120人で、この3役だけで208人になります。総数は三百人を越える大部隊です。この中心は、高屋村 神谷村 青海村の「三ヶ村」です。ここからは、北条組はこの三ヶ村を中心に、風流念仏踊が踊られるようになったことがうかがえます。
⑥の固役には、阿野郡の大政所と小政所が並びます。そして衣装は、滝宮で踊る場合は、帷子(かたびら)麻の上下で帯刀します。郡内の村社巡回奉納の時は、絹の羽織踏込の着用です。以上が、役割と担当村名でした。
滝宮神社・龍燈院
滝宮の龍燈院(滝宮神社と天満宮の別当寺:讃岐国名勝図会)
 滝宮神社は、明治以前は天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれていました。
今でも地元の人達は滝宮神社とは呼ばずに「てんのうさん」と親しみを込めて呼ぶそうです。この神社を管理運営していたのが別当の龍燈院でした。滝宮神社と天満宮は、龍燈寺管理下にひとつの宗教施設として運営されていました。それが、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消し、ふたつの神社が残ったことになります。

龍燈院・滝宮神社
両者に挟まれるようにあった龍燈寺

  滝宮牛頭天王(権現)とよばれた滝宮神社は、その名の通り牛頭天王信仰の宗教施設で、牛や馬などの畜産などに関わり、馬借などの運輸関係者や農民達の強い信仰を集めました。同時に、滝宮牛頭天王はスサノオの権化ともされ「蘇民将来伝説」とも結びつけられて流布されます。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python
四国霊場本山寺の本尊 馬頭観音
 中讃の牛頭天王信仰の拠点が滝宮神社で、三豊の拠点が四国霊場の本山寺でした。
本山寺の本尊は馬頭観音で、多くの修験者や聖達がこの札を周辺地域に配布していたようです。滝宮神社の別当寺は龍燈寺も、聖達の集まる寺でした。その名の「龍燈」とは熊野信仰で海からやってくる龍神の目印として掲げられた灯りのことです。この寺が、もともとは熊野信仰と深く結びついた寺院であることがうかがえます。熊野行者の拠点だった龍燈寺は、中世には修験者や聖達のあつまるお寺になっていきます。彼らは「牛頭天王=スサノオ」混淆説から「蘇民将来の子孫」のお札や「苗代や水口」札を配りながら農民達の信仰を集めるようになります。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札

滝宮の龍燈院の牛頭天皇信仰の拡大戦略は、次のようなものだった私は考えています。
①龍燈寺の社僧は(修験者や聖)たちは、丸亀平野の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集め信者を増やした。
②その際に、彼らはいろいろな情報だけでなく、風流踊りや念仏踊りを各村々に伝える芸能プロデューサーの役割も果たした。
④聖達の指導で、風流踊りは盆踊りとして踊られるようになった
⑤盆踊りとして踊られるようになった風流念仏踊りは、滝宮(牛頭天皇)社の夏祭り(旧暦7月25日)に奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、滝宮に念仏踊りを奉納していた鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだったことになります。牛頭天王の信者達が、自分たちの踊りを滝宮神社に奉納していたと私は考えています。

滝宮神社と龍燈院(明治になって)
滝宮神社と龍燈院(明治になっての在りし日の龍燈院絵図)
       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り
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多度津で南鴨念仏踊り/子どもたちが恵みの雨祈る | BUSINESS LIVE
南鴨念仏踊
南鴨念仏踊組は、かつては滝宮への踊り込みをおこなっていたと伝えられています。しかし、近世の高松藩の関係文書を見ると、南鴨組の念仏踊りが奉納された記録はありません。また南鴨組は、どのくらいの村々によって構成されていたのでしょうか。その辺りを、史料で見ていくことにします。テキストは、「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」
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まず、元和2年の多度郡大庄屋の伊次郎兵衛の各庄屋への触書を見ていくことにします。
以上
一筆申入候 乃当年たきノ宮ねんふつ(滝宮念仏)あたりとしの由申候。唯今迄は草木能様に見申し候。ねんふつの儀弥入候て可然かと存候。いかヽ各々被存候哉。御かつてん候はヽ名付所にてんをかけ可給候返事次第吉日以寄相御座候様左右可申候 為其申触候 恐々謹言
           伊次郎兵衛
六月十一日               正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
  意訳変換しておくと
 一筆申入れる。今年は鴨組が滝宮念仏(踊り)奉納の当番年となっている。念仏の踊り込みについて、どう考えているのか、各々の意見をお聞きし、その上で返事したいと思う。ついては、吉日に集まって協議したいと思うので、その触書きを回覧する。 恐々謹言
            伊次郎兵衛
六月十一日                正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
触状の回覧先は次の通りです。
元和2年の次郎兵衛の各庄屋への触書

回覧状が廻された村々の庄屋の一覧になります。これが滝宮念仏踊の鴨組の構成村であったが分かります。その村々を見てみると、北鴨と南鴨だけではありません。白方を除く多度津のほぼ全域と、善通寺から多度郡の最南端の大さ(大麻)までを含んでいます。

多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)

ここからは次のようなことが分かります。
①元和2(1612)年の生駒藩の時代には、鴨組も滝宮牛頭天王(現滝宮神社)への念仏踊りの奉納を行っていたこと。
②踊り込みには当番組があって、何年かに一度順番が回ってくること
③念仏踊り鴨組は、現在の「多度津町 + 善通寺市」の広範な村々で構成されていたこと。
私はこの史料を見るまでは、鴨組の念仏踊りが滝宮に奉納されていたことについては、確証が持てませんでした。しかし、この史料からは生駒藩時代には、鴨組は踊り込みを行っていたことが分かります。同時に、中世の多度郡の中心的な郷社は賀茂神社であったこと。その賀茂神社に、多度郡の有力者が宮座を編成し、念仏踊りを奉納していたことがうかがえます。これは以前にお話した鵜足郡の坂本念仏踊り、那珂郡南部の七箇村念仏踊りと同じです。つまり、中世に起源を持つ風流踊りということになります。

讃岐の郷名
讃岐の古代の郡と郷

 滝宮念仏踊りには、以前にお話ししました。
①滝宮牛頭天王の夏祭りの旧暦7月25日に奉納された踊り念仏であること
②それを差配していたのは、別当寺の龍燈院の社僧であったこと。
③龍燈院は、牛頭天王のお札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を、社僧達が配布し財政基盤としていたこと
④滝宮牛頭天王へ踊りを奉納する各組は、その信者であったこと
もう一度、回覧状の内容を見てみます。
これを見ると従来通りの奉納するというのでなく、どうするかを協議するために事前に集まろうという内容です。ここからは、従来通りの踊り奉納について、異論がでていることがうかがえます。それの原因については、ここからは分かりません。
 次に10年後の元和8(1622)年の入谷外記文書を見ていくことにします。
以上
来二十五日滝之宮へ両鴨村より念仏入候に付郡中としてけいこ(稽古)彼是肝煎肝要に候。為其に申遣候也
(入谷)外記 
七月五日         盛正(花押)
多度郡政所中江
意訳変換しておくと
以上
来月の7月25日は滝宮へ両鴨村が念仏踊りを奉納することになっている。(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要である。そのことを申伝える。

書状の主は「外記」とあります。外記は、生駒藩要職にあって那珂(仲)郡と多度郡の管理権を握っていた入谷外記のことのようです。興泉寺(琴平町)は、当時の那珂郡榎井村の政所を勤めていたとされ、寛永年間(1624~44)の政所文書を伝えます。その中に、寛永6(1629)年滝宮念仏踊で、七箇村組と坂本組との間に起こった先番・後番の争いを扱って和解させた「入谷外記書状」があるようです。どちらにしても入谷外記は、生駒藩の中枢部にいた人物です。その彼が多度津の政所の中江氏に対して「滝宮念仏踊りについて、しっかり準備・練習して奉納せよと」と書状を送っています。ここからは、生駒藩が念仏踊りの奉納に対して、強く肩入れしていたことがうかがえます。別の見方をすると、入谷外記と龍燈院の住職が懇意であったのかもしれません。
 もうひとつ穿った見方をすると、先ほど見たように元和2(1612)年には、滝宮への踊奉納について、不協和音が組内で出ていた気配がありました。それを見越して、入谷外記が龍燈院の住職の依頼を受けて「しっかり準備・練習して奉納せよと」という文書を差し出したのかも知れません。
 入谷外記の達しを受け手の庄屋たちの動きが分かるのが「小山喜介文書(元和8年)です。
尚々御請所御蔵入共に早々十二日に南鴨へ御より候て御談合可有候。くわしくは後々以面可申入候
以上
南鴨念仏之儀に付而けき殿より御状廻申候 左様候へは来十二日に南鴨へ御より候て万事御談合可被成候、外記殿もはじめての儀候間一入念を入候へと被仰侯間其心得尤に候
此廻状名ノ下に皆々判被成候へく侯。 すなはちけき殿御めにかけ可申候  以上
       元八        小山 喜介 (花押)

意訳変換しておくと
今回の念仏踊り奉納について、7月12日に南鴨へ集まって協議したい。詳しくは、後日顔合わせしたときにお伝えする。 以上
南鴨組の念仏踊りについて、外記殿から御状廻が届いた。このことについて12日に南鴨へ集まったときに談合(協議)したい。外記殿も、はじめてのことなので入念に準備・稽古するようにと書き送ってきた。その心遣いはもっともなことだ。なお、この廻状名の下に皆々の判を(花押)を入れて欲しい。これも外記殿に御覧いただくつもりだ。
大庄屋の小山 喜介が触書を廻した一覧表は次の通りです。

小山 喜介が触書を廻した一覧表
「小山喜介文書(元和8年)の庄屋触状の回覧先一覧
多度郡 明治22年
多度郡の村々

   元和2(1612)年の構成メンバーと比べると、白方3村が加わっています。文中の「はじめてのことなので入念に準備・稽古せよ」という指示は、新加入の白方三村への指導を云っているのでしょうか。外記からの指示文書には「(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要」ともありました。ここからは、それまでは白方三村なは、参加していなかったのが、この時点から参加するようになったこと。初めてのことなので「(多度)郡中として稽古せよ」ということになるのかもしれません。
7月12日の会合で決定した各村の「滝宮念仏道具割」を一覧化したものが下図です。
南鴨組滝宮念仏道具割
南鴨念仏踊り「滝宮念仏道具割」(元和8年)
ここからは次のようなことが分かります。
①鴨組と呼ばれていたが、ほぼ多度郡全域の村々で構成されていたこと。
②各村々に踊り役やその人数が割り当てられていたこと。
③宮座による運営だったこと
④費用は村高に応じて、米高割当が決められていたこと

  「南鴨組」という名称から多度津の南鴨の人達だけによって、編成されていたように思いがちですが、そうではないようです。以前にお話しした坂本組・七箇村組と同じく、かつての郷社に各村の名主達などの有力者が宮座を編成し、奉納されていたことが分かります。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の踊り編成表

多度津町史には南鴨念仏踊りのもともとの奉納先は賀茂神社の摂社牛頭天王だったと記されています。滝宮神社も神仏分離以前は牛頭天王社でした。
牛頭天王と滝宮念仏踊りの関係をもう一度整理しておきます。
①滝宮(牛頭天王)社を管理していたのは、別当寺の龍燈院。
②龍燈院の社僧(山伏)たちは、お札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を周囲の村々で配布していた
③彼らは宗教者であると同時に、芸能保持者で祭りなどのプロデュースを手がけたこと。
④当時讃岐でも大流行していた時衆念仏踊りを祖先供養の盆踊りや祭りの風流踊りにアレンジして、取り入れたのも彼らであること
⑤念仏踊りを滝宮に奉納していた踊組エリアは、滝宮牛頭天王の信仰エリアであったこと
このような関係を多度津周辺に当てはめてみると次のようになります
①中世に復興された道隆寺は、海に開けた交易センターの機能を果たした。
②多くの廻国修行者の拠点となり「学問寺」の役割も果たした。
③高野聖などの真言系の聖が、時衆系阿弥陀信仰をもたらし周辺で民衆の供養を営むようになった
④観音院は、堀江集落の墓地に建立された観音堂に住み着いた聖の活動からスタートした。
⑤播磨の広峯神社は、牛頭天王信仰の中心地であったが、そこから讃岐に廻国修験者(御師)がやってきて、牛頭天王信仰を拡げる。
⑥賀茂神社の中にも牛頭天王の摂社が勧進され、そこに奉納するために念仏踊りがプロデュースされる。
⑦鴨念仏踊りは、丸亀平野の牛頭信仰の拠点である滝宮に奉納されるようになる
     今回はここまでとします。続きは次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」


滝宮神社・龍燈院
滝宮神社と龍燈院と滝宮天満宮(讃岐国名勝図会)

幕末の讃岐国名勝図会に描かれた滝宮神社と天満宮です。右上の表題には「滝宮 八坂神社(天皇社) 菅神社(天満宮) 龍燈院」とあります。絵図からは次のようなことが読み取れます。
①綾川沿に、天皇社があり、これが滝宮牛頭天皇(ごずてんのう)社(権現)であったこと。
②天皇社の前には、牛頭天皇の本地仏である薬師如来を安置する薬師堂や観音堂があったこと。
③隣接して別当寺の龍燈院があり、もっとも大きい建物であること。
④その向こうに滝宮天満宮がある。
⑤社人宅もあるが小規模である。
龍燈院・滝宮神社
龍燈院拡大図
以上から、滝宮神社は神仏分離以前には、天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれ、天満宮と供に別当の龍燈院の管理下に置かれていたこと、この3つはひとつの宗教施設として運営されていたことが分かります。しかし、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消しました。

滝宮龍燈院跡
龍燈跡跡
その跡地は、現在は分譲されて住宅地となって、ポツンと記念碑が立っているだけです。龍燈院の繁栄を伝える物は、観音堂に安置されていた十一面観音立像だけです。

滝宮龍燈院の十一面観音
龍燈院観音堂の十一面観音立像(像高180㎝)
この優美で美しい観音さまは、綾川町の管理下に移され生涯学習センター(図書館)で参観することができます。部屋の中央に、ガラスケースに安置されているので、どの方向からも観察できます。天衣、裳、 条帛 や天衣の折り返しなどをじっくりみることができます。
(註 現在は県立ミュージアムで補完されているようです。)
専門家の評を見ておくことにします。
一木造で内ぐりはなく、垂下する右手は手首まで、前に差し出して花瓶を持つ左手はひじまでを共木で彫り出す大変古様な像である。条帛や下肢には渦巻きの文が見られる。
しかし顔つきは優しく、またことさらに量感を強調したりしていないことから、平安時代も中期になっての像と思われる。
ほぼ直立し、顔は小さめ。手は長くあらわす。
目はあまり切れ長とせず、若干つり目がちとする。口も小さめ。顎はしっかりとつくる。
胸のラインやへそは陰刻で強調、また下肢の左右の衣のつれも強調するが、全体的には誇張を避け、上品で落ち着いた姿となっている。

以上を次のように整理しておきます。

①滝宮神社は神仏分離以前は、滝宮牛頭天王(権現)とよばれ、牛頭天王信仰の宗教施設であった。
②別当寺は龍燈寺で、その名の通り熊野信仰に由来をもつ寺院で、中世は修験者や聖達のあつまるお寺であった。
ここで疑問になるのが、龍燈院が、これだけの宗教施設が維持できたのはどうしてなのということです。その経済基盤は、どこにあったのでしょうか? それを伝えてくれる史料はありません。
そこで同じ牛頭天王を祀る播磨広峯(ひろみね)神社の経済基盤を、今回は見ていくことにします。

姫路日和 その1 | オマコレ OmaColle | 素晴らしき御守りの世界

 広峯神社は、姫路市の広峰山山頂にある神社です。今は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を主祭神としますが、明治の神仏分離以前には素戔嗚尊と同体とされる牛頭天王を祀って、広峯牛頭天王と呼ばれていました。
 京都の祇園社(現在の八坂神社)との関係も深く、鎌倉時代には広峯社を祇園社の本社とする説も流布したことがあるようです。南北朝期には祇園社が広峯社の領家となったため、両社の間で確執が生じますが、朝廷・幕府の働きかけにより室町期以降は祇園社の支配下に置かれていきます。
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 神仏分離以前の本殿内には、牛頭天王の本地仏をされる薬師如来が祀られていたようです。その管理運営を行っていたのは、別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)です。この山の宗教施設は別当寺の社僧の管理下に置かれていました。ちなみに、この寺は、江戸時代は徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の末寺として、大きな権勢を持っていたようです。
  社家(御師=修験者)の社務は、播磨、但馬、淡路、摂津、丹波、丹後、若狭、備前、備中、備後、美作、因幡 、伯耆)などにある村単位の信徒(檀那)へのお札配りでした。

祇園信仰 - Wikiwand
牛頭天皇=スサノウ

御師は自分の檀那村をまわって次の三種類の神札を配布しす。
居宅内の神棚に祀るもの
苗代に立てるもの
田の水口に立てるもの
その対価として御初穂料を得て収入としていました。

蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民将来のお札(牛頭天王=素戔嗚尊)
サイケなど農耕儀礼(県内各地)-21世紀へ残したい香川 | 四国新聞社
苗代に立てるお札
亀山市史民俗 民間信仰
水口に立てるお札
江戸時代には、社領はわずか72石でだった広峯神社が繁栄できたのは、お札を配布できる信徒集団を抱えていたからです。
    「御師」というのは寺社に属して、参詣者をその社寺に誘導し、祈祷・宿泊などの世話をする者のことです。
伊勢御師1
    檀那宅をお札や土産を持って訪れる伊勢御師(江戸時代)

御師がいた神社としては、熊野社、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂社、日吉社が知られています。御師は各地の信者を「檀那(だんな)」として組織し、お札を配布したり社参を代行(代参)を行うほかに、檀那が参詣にやってきた時には、宿坊を提供したりしました。ひとりで各地の檀那を廻ることはできないので、伊勢御師と同じように廻国性のある修験者を手代として「雇用」していたようです。こうして広峯牛頭天王社の周りには、数多くの修験者や聖が集まってくるようになります。
広峯牛頭天王社の御師を見ておきましょう。
 鎌倉~南北朝期の広峯社には、広峯氏を筆頭に肥塚(こいづか)・林・芝・粟野など約30家の社家(御師)がいました。彼らは各地を回り、信者を集めて檀那を組織していきます。広峯社の檀那は、播磨・但馬・丹後・備前・備中・備後・美作・因幡・摂津・丹波といった中国地方東部から近畿地方にかけてが広峯社の信仰圏であったことを押さえておきます。
 広峯御師の1つである肥塚家には、因幡の檀那所在地についての史料が数点残されています。
廣峰神社の檀那の
廣峰社の因幡の檀那所在地
 この表は「肥塚文書」の檀那所在地を一覧表にしたものです。これをみると、肥塚家の場合は高草・邑美・八上・八東・智頭の各郡内に檀那がいたことが分かります。ひとりの御師の活動が広いエリアに及んでいたことがわかります。

広峯御師の檀那地図
        廣峰社の檀那所在地分布図
檀那所在地を地図に落としたものが上図です。ここからは次の所に檀那が多く一円化していたことが分かります。
①播磨と因幡中心部を結ぶルート上に位置する若桜
②美作との国境付近に位置する智頭
③高草郡の有富(ありどめ)川流域(鳥取市)
この表に出てくる「わかさいちは(=若狭の市場)」で、若狭には市場があったことがうかがえます。御師と地域経済と関わりが垣間見えます。
研究者が注目するのは鳥取市の有富川流域についてです。このエリアには特定の檀那名ではなく、多くが「一円」と記されています。このエリアでは村単位で多数の信者を集めていたことがうかがえます。
 これと同じように、滝宮牛頭天皇社の御師達も中讃の各郷に檀那を持ち、一円化したのではないかと私は考えています。

 ちなみに江戸時代中期編纂の『因幡志』には、有富川流域の神社の多くが牛頭天王を祀っていることが分かるようです。ここからは中世以来の広峯信仰が続いていたことが裏付けられます。
 広峯から御師がやってくると、檀那の村では宿泊施設や伝馬を提供しています。
では、どのような人々が御師に宿を提供していたのでしょうか。「肥塚文書」によれば、宿の提供者として「河田殿」「八郎衛門殿」「中助左衛門殿」「岡村殿」「岡殿」など「殿」のつく人たちが多くみられます。『智頭町史』は、彼らについて「地侍クラスの人物」と述べています。また、若桜については、次のように記されています。
「おふね(小船)村なぬしやと」
「おちおり(落折)村一ゑん やとはなぬし十郎ゑもん」
ここからは「なぬし(名主)」が宿を提供していたことがわかります。名主は、祭礼の際の宮座の構成メンバーです。彼らの相談を受けながら、村の祭礼に御師が関わり、風流踊りや念仏踊りを伝えたことも考えられます。
 ここでは、御師の宿はその地域のいわば指導者クラスの人たちが提供し、彼らと御師は親密な関係を維持していたとしておきます。

 御師の肥塚氏は、それらの国々の檀那村付帳を残しています。
そこには各荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといった情報まで記されています。
 例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見ると、現在の小字集落に当たる村が丹念に調べられて記録に残されています。ここからは広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んで記録していたことが分かります。広峯社の御師たちは各地に檀那を組織し、広範に活動を展開していたようです。
 御師たちは村々を回り布教活動に努めました。彼らは神札や文物とともに瀬戸内や畿内方面のさまざまな情報を各地にもたらしたものと思われます。地方の人々にとっては貴重な情報源であったに違いありません。これが、村々の寺社を結びつけて行くエネルギーになっていくと研究者は考えています。 以上を要約しておきます。
①中世の広峯神社は、牛頭天王とその本地仏薬師如来が祀られる神仏混淆下の宗教施設であった。
②牛頭天王社の社殿を管理する別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)で、その社僧の管理下に置かれていた。
③社僧達は御師として、自分の檀那村をまわって神札を配布し、御初穂料を得て収入としていた。
④村の檀那は、宿泊施設や伝馬を提供し、お札と供に地域の情報を手に入れた
⑤村々を歩く御師は、情報伝達者として村々を結び、宗教的なネットワークや交流を作りだしていった。
⑥その中には風流踊り等の芸能なども、伝えたことが考えられる。
東京・埼玉へ: Neko_Jarashiのブログ
少々乱暴ですが、これを、讃岐の滝宮牛頭天皇と龍燈院に落とし込んでみます。
①龍燈寺傘下の修験者や聖も手代として、中讃の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集めた。
②同時に彼らは、いろいろな情報や芸能を各村々に伝える媒介者となった。
③各村々に風流踊りや念仏踊りを伝えたのも修験者や聖である。
④この踊りが各村々では、盆踊りとして踊られるようになった
⑤それが滝宮牛頭天皇の夏祭りに奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、かつての滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだと私は考えています。
牛頭天王座像
牛頭天王坐像
別当寺龍燈院の住職が代々書き記した念仏踊りの記録『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。

「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」

意訳変換しておくと
中世(先代)には、踊りは讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた。しかし、今は4郡だけになっている

ここからは、松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて「中断」していた念仏踊りを慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたことが分かります。高松藩領西部の阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の4郡ということになります。それが具体的には、次の4組です。
①阿野郡北條
②阿野郡南条
③鵜足郡の坂本組(坂本郷周辺:丸亀市)
④那珂郡の七箇組(真野郷・吉野郷・小松郷:まんのう町+琴平町)
  この4つの踊組エリアが、滝宮牛頭権現の信仰圏だと私は考えています。
ちなみに、松平頼重は踊りの復興の際に、幕府の監視を考慮して「雨乞い祈願のための踊り」と正当化するフレーズを付け加えます。こうして、もともとは盆踊りで踊られる風流踊りが、雨乞いに結びつけられ、「菅原道真の雨乞い成就に感謝」する踊りと称されプロデュースされるようになります。注意しておきたいのは、ここでも、まだこの踊りが雨乞い踊りのために踊られるおどりではなかったことです。
この時点では、「雨乞い成就感謝のため」でした。中世には「雨乞いは空海など修行で験を超人のみがおこなえることで、普通の人が行っても神はお聞きにはならない」というのが庶民の考えでした。それが変化するようになるのは、近世後半になってからのことです。

滝宮念仏踊りの変遷

 「讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた」ということについて考えて見ます。
 大きな勢力を寺社が競合するところでは、神札の配布はできません。そればかりでなく周辺の寺社は取り込まれ、つぶされていくこともあります。讃岐において中世に強勢を誇った修験者を数多く擁した山伏寺を思いつくままに挙げて見ると次の通りです。
①東讃の水主神社・与田寺
②志度の志度寺
③五色台の白峰寺
④多度郡の善通寺
⑤三野郡の弥谷寺
⑥三野郡の本山寺(牛頭権現信仰の宗教施設)
 これらの寺社が競合するエリアで、滝宮牛頭権現社がお札を配り、新たに信者を獲得するのは至難の業であったはずです。このため滝宮牛頭権現が讃岐全体に信仰エリアを拡げていたとは、私には思えません。その信仰圏は、先ほど見た踊り奉納されていた周辺の郷に限られていたと私は考えています。

阿野郡の郷
坂本念仏踊りの檀那分布想定エリア

 ここでは、滝宮牛頭権現社は高松から西の4郡の一部の郷に信者を確保し、そこから踊りが奉納されていたとしておきます。

補足(2024年4月19日)
 今日手元に届いた「まんのう町文化財協会報第18号 令和5年度版」に、香川県教育委員会文化行政課の佐々木涼成氏が「香川県の念仏踊とまんのう町」を寄稿しています。そこには、滝宮神社(牛頭天王社)と別当寺の龍燈院の布教戦略が次のように記されています。
滝宮神社へは島を除く讃岐国十一郡からの奉納があったと伝えられているが、なぜこれほど広範囲の信仰圏を持っていたのだろうか。
寛政年間成立の『讃岐廻遊記』では、念仏踊の成立過程を以下のように書いている。
空海が、千疋の子を産む牛を清水で清めて落命させた。天皇にその話をすると、その場所に滝宮三社(滝宮神社)の違二を命じら  より数多念仏踊」となる。さらに牛の絵が描かれた御守が国中家々に配布された、というものである。伝説の入り混じるこの記述を全て信用することは出来ないが、ここからは、滝宮天王社建立→参詣者の増加と「名主」による組織化→念仏踊の発生 → 御守配布による信仰の更なる普及という過程の中で信仰圏を拡大してきたことが読み取れる。確かに東かがわ市歴史民俗資料館には、庄屋の家から見つかった大量の滝宮牛頭天王社の絵札が収蔵されており(図三)、牛頭天王社からの絵札を社僧や山伏等の宗教者が庄屋へ渡し、各家へ配布していた経路を想定できよう。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札

滝宮牛頭天王社の絵札
滝宮神社(旧牛頭天王社)の布教戦略

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献     因幡における広峯御師の活動 鳥取県史たより 第56回
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 まんのう町岸の上 寺山
岸上村(まんのう町 金倉川流域)
19世紀中頃の江戸時代後半に那珂郡岸上村(まんのう町)の庄屋だった奈良亮助は、几帳面な性格でいくつもの文書を残しています。 奈良亮助は、伯父の奈良松荘のもとで和漢の学を学んでします。伯父奈良松荘(1786ー1862)は、国学者で詩文を備後の菅茶山に学び、頼山陽と並び称せられと云います。郷里に帰り、金刀比羅の日柳燕石や三井雪航などに感化を与え、晩年は岸上村の奈良家に寄寓していました。その時に、奈良亮助はその教えを受けたようです。残された文書の中に「滝宮念仏踊行事取遺留」と題されたものがあります。
一番上には、「念仏踊の事」という記録が綴り込まれていて、次のような内容が記されています。
①滝宮念仏踊が法然上人によって、念仏布教の方法として採り上げられて発達したこと
②享保年中の滝宮での御神酒樽受取の前後争いに端を発して、念仏踊が中止になったこと
③元文四年六月晦日に雹が降って農作物が大被害を受けたこと
④この被害は滝宮への念仏踊りを行っていないことへの天罰との噂が拡がったこと
⑤そこで、寛保二壬戌年から七か村念仏踊が復活したこと
以上が、簡潔な筆致で記されています。
 この記録に続いて、文政九(1826)年から安政6(1859)年までの約30年間に、13回実施された七箇村組念仏踊のことが岸上村の庄屋記録に綴りこまれています。今回は、奈良亮助の残した文書を見ていくことにします。テキストは「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」です。
 
龍燈院・滝宮神社
滝宮牛頭権現(滝宮神社)と別当寺の龍燈院

前回にお話ししたように、初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、参加したのは4郡の4つの踊組でした。踊組の間には異常なほどの対抗心があって、いろいろな事件や騒動を起こしています。
 例えば、正保二(1645)年の時には、演じる場所・順番をめぐって、七箇村組の岸上村の久保の宮・神職が長刀で、北条組の小踊二人を切り殺すという事件があったことは前回お話ししました。このため北条組は、その後は48人の抜刀隊を編成して警固するようにしたとも伝えられます。また、七箇村組とは踊る年を変えて鉢合わせしないようにもしています。踊りはこのようなぴりぴりとした緊張感の中で奉納されていたようです。
滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り
 念仏踊りが復活した当初は、七箇村組は二組編成だったようです
1790年(寛政二)年の編成表を見ると、
①主役を勤める下知 真野村と佐文村からそれぞれ各一人、
②6人1組で子供が踊役を勤める小踊 西七箇村から一人、吉野上下村から三人、小松庄四ヶ村から二人の計六人、それと、佐文村単独で六人
③笛吹が岸上村と佐文村から一人宛、
④太鼓打が西七箇村と佐文村から一人宛、
⑤鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人宛、
⑥長刀振が真野村と佐文村から一人宛、
⑦棒振も吉野上下村と佐文村から一人宛、
⑧棒突は西七箇村四人、岸上村三人、小松庄四ヶ村三人の計10人に対して、佐文村は単独で10人
ここからは次のようなことが分かります。
A七箇村組には、次の東組と西組の二組があったこと。
東組 真野・吉野郷(高松藩領) 郷社 真野の諏訪大明神(諏訪神社)
西組 小松郷と西七箇村(池御領と丸亀藩)    郷社 五条村 大井八幡社
B 東組は高松藩の村々、西組は池御領(天領)と丸亀藩の村々から編成され、藩を超えた編成になっていたこと
C その中で、西組は佐文中心に編成されていたこと。ちなみに佐文は、ユネスコ登録になった綾子踊りの里でもあります。
七箇村組の編成からは、もともとはこの踊りが中世の郷社に奉納されていた風流踊りだったことがうかがえます。

まんのう町の郷
滝宮念仏踊り 那珂郡七箇村組(真野・吉野・小松郷)
那珂郡七箇村組をめぐる事件や問題を年表化しておきます。
享保年間(1716~36)龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番をめぐって、東西費が領組が騒動
1736(元文元)年 念仏踊は中止され、七箇村組は解体状態へ。
1739(元文四)年 6月の雹(ひょう)という異常気象で農作物被害甚大。念仏踊り中止のせいだとの声が拡がる
1742(寛保二)年 龍灯院の住職快巌の斡旋で、滝宮念仏踊への参加復活
1790(寛政二)年 東西二組の編成で、奉納が続く。
1808(文化五)年 「下知一人」となり東西2組編成から一組編成へ縮小
次に年表内容を、詳しく見ていくことにします。
享保年間(1716~36)の争いの原因は、滝宮牛頭天皇社(現滝宮神社)への踊奉納の時に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番です。踊りが終わった後に、どちらが先に御神酒樽を受け取るかをめぐる争いです。当時は樽はひとつしか準備されていなかったようです。おやつをもらう順番をめぐる子供の喧嘩のようにも思えます。しかし、背後には、高松藩・丸亀藩・池御料(天領)の三者の対立感情があります。天領の踊り手や役員達はプライドが高く、何かと周辺の住人達を見下すことがあったようです。東組には、高松藩(親藩)の住人ということで、外様の丸亀藩の西組の踊り手たちを見下します。こういう意識構造が、このようなハレの舞台で吹き出します。この結果、元文元年(1736)年以後は、七箇村組の踊りは中止に追い込まれてしまいます。
 3年後の1739(元文四)年の6月晦日に、季節外れの雹(ひょう)が降って東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を蒙ります。
「これは滝宮念仏踊を中止したための神罰である」という声が起こって念仏踊復活の気運が高まります。そして、滝宮牛頭権現(滝宮神社)の別当寺龍灯院の住職快巌の斡旋で、1742(寛保二)年から滝宮念仏踊への参加が復活します。龍灯院は対応策として、踊奉納を終えた七箇村東西組に対して、御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていています。事件事故に学んで、新たな対応策が出されています。しかし、二組の編成は対立感情による紛争の起こる危険を常に含んでいました。復活後は、東西二組編成で1790(寛政二)年まで続いたことが史料から確認できます。

まんのう・琴平町エリア 讃岐国絵図
念仏踊七箇村組の村々

 ところが1808(文化五)年には、1組で出演していることが史資料から分かります。この年の7月24日書かれた真野村・庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」滝宮大明神(神社)の別当寺龍燈院宛の報告には、この年の七箇村組の行列は、次のように記されています。
「下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人」

「下知一人、笛吹一人」ということは、一編成になったことを示すものです。「取遣留」の1808年7月25日の記事にも、龍灯院からの御神酒樽については、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」、口上を述べ終わると、御神酒樽は踊り場である神社から龍灯院が預かって直ちに持ち帰っています。そして、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を龍燈院の書院に招待して御神酒を振る舞っています。ここでも酒樽は1つしか準備されていません。1808年の時点で、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっています。
   ここからは1790(寛政二)年から1808(文化五)年までの間に、七箇村組のなかで大きな問題が起こったことがうかがえます。また、一番踊り手構成メンバーが削減されているのが佐文村です。佐文は西組の中心だったことは、先ほど見たとおりです。それが棒付10名に減らされているのです。七箇村組が二編成から一編成に縮小された背景には、佐文をめぐる問題があったことがうかがえます。19世紀初頭には、それまで東西2組で運営されていた七箇村組は一組となってしまったようです。
以上を整理しておきます。
①中世に小松・真野・吉野郷では、風流踊りが郷社に奉納されていた
②それは地域の村々の有力者による宮座で組織されていたが、戦国時代に中断していた
③それを初代高松藩主松平頼重が地域興しイヴェントとして復活した
④その時に参加したのは、4つの郡の郷社に奉納されいた風流踊りであった
⑤4つの踊組は対抗心が強く、いろいろな事件や騒動を引き起こした
⑥那珂郡七箇村組も、当初は東西2組編成であったが、18世紀初頭には、1組に「縮小」している。これも内部での騒動か事件があったことが考えられる。
こうして、19世紀になると軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年」
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滝宮念仏踊り1

滝宮念仏踊り(滝宮神社)
讃岐の飯山町の旧東坂本村の喜田家には滝宮念仏踊りに関する資料が残っています。一冊の長帳に「口上書壱通」とあり
此の度 瀧宮念仏踊の由来委細申し出で候様 御尋ね仰せ出され候二付き 申し上げ奉る口上
意訳変換しておくと
この度 瀧宮念仏踊の由来について詳しく報告することという指示を受けましたので別紙の通り報告いたします。

語尾の「申し上げ奉る」という表現から、この文書の書かれた背景が分かります。つまり高松藩が念仏踊りの由来についての東坂本村に問い合わせした、そのことへの回答という形になっています。つまり、これは高松藩への回答書の写しで、公式文書だったようです。そして次のような由来が述べられています。
光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守になって讃岐に赴任した。翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社)で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
この史料からは次のようなことが分かります。
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。
②降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。
③これが滝宮踊りの始まりである。
ここで注意しておきたいのは、雨乞いのために踊られているのではないことです。菅原道真の降雨成就を祝って踊られています。もうひとつは、各郡からの踊組が地元で踊っていた風流踊りを奉納していることです。ここでは滝宮念仏踊りが雨乞いのために踊られているのではないことを押さえておきます。道真が雨を降らせたことに対する感謝のために踊ったという趣旨になります。ここでは、この時点では「瀧宮踊り」は「雨乞成就の感謝踊り」で、あって雨乞い踊りではなかったことを押さえておきます。

滝宮神社・龍燈院
滝宮牛頭天皇社(滝宮神社 讃岐国名勝図会)

今は滝宮というと、天満宮の方を思い浮かべてしまいます。

しかし、天満宮が現在のように整備されるのは、近世になってからです。滝宮の中心は明治以前には、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)でした。 祭神は須佐之男命で医薬の神とされ、また牛馬の守護神として農民や馬借などの信仰を集めていました。その別当寺が龍燈院です。上の讃岐国名勝図会には、天満宮と滝宮神社の間に大きな境内を持った寺院として描かれています。龍燈院の社僧達が、両者を管理運営していました。神仏混淆下では、当たり前のことで金毘羅大権現と金光院の関係のようなものです。同時に、周辺には別院や子院が点在して、そこには念仏聖や山伏たちが住み着いて、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)のお札を周辺の村々に配布していました。中世のこの滝宮牛頭天皇社の信仰範囲の郷から、各郷の郷社で踊られていた盆踊りや風流踊りが、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)の7月の夏祭りに奉納されていたと私は考えています。そのような形を作ったのは、中世の聖や修験者たちだったと研究者は考えています。

滝宮龍燈院の十一面観音
龍燈院の十一面観音像(綾川町蔵)
 これだけの規模の寺院を、龍燈院はどのようにして維持していたのでしょうか? それを解く鍵は、蘇民将来のお札にあるようです。

蘇民将来
蘇民将来のお札
蘇民将来伝説に基づいて、わが家にはこのお札が今も神社から配布されてきます。神仏分離以前に中讃地区で、このお札を配布していたのが滝宮牛頭神社だったようです。そして、実際に配布を行っていたのが龍燈院の修験者(聖)たちでした。龍燈院も中世には、周辺に多くの修験者や廻国行者達を抱え込んでいたようです。その修験者や聖たちが、お札の配布で周辺の村々に出向きます。同時に、その時に各郷社に奉納されていた風流念仏踊りの滝宮への奉納を勧めたと私は考えています。次のような勧誘を修験者から受けたのではないでしょうか?

この郷でも盛大に風流踊りがおどられよるんやなあ。それを郷社だけに奉納するのはもったいないことや。滝宮牛頭権現さまにも奉納したらどうな。牛頭さまも歓んでくださるし、霊験もあらたかで疫病退散まちがいなしや。そのうえいろいろな郷から踊り込みが合って、大勢の人が見てくれるけんに、この郷の評判にもなるで。7月末の夏祭りが、踊込みの日になっとるけん、是非参加しまえ

こうして中世には、周辺の各郷から風流踊念仏踊りが滝宮に奉納されるようになります。奉納された踊りは、時衆の影響を受けた念仏踊りもあり、盆踊りや祭礼で踊られていた風流踊りです。

滝宮(牛頭)神社
現在の滝宮神社
龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』が天満宮に残っています。この表紙裏に、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
意訳変換しておくと 
中世には風流念仏踊りは讃岐のすべての13郡から踊り込みがあった。それが江戸時代には、参加するのは4郡までに減っている
 
讃岐の13郡のすべての郡から参加していたというのは、すぐには信じられません。しかし、中世には丸亀平野のいくつの郷社から踊り込みがあったことは事実のようです。それも戦国時代の戦乱で途絶えていたようです。

P1250408
滝宮念仏踊の各組の惣踊りの入庭

中断していた踊りを復活させたのが初代高松藩主の松平頼重です。
1650(慶安三)年7月20日の記録には、次のように記されています。
就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候
「押さえのための高札をお立てなされるように承知いたしました」とあります。分かりにくい所がありますので補足します。戦国期には、中断していた踊りを「中興」したとあります。これは松平頼重が水戸から高松へ入り、松平藩による藩政が整備される中で、中断していた滝宮念仏踊りを復活させたということのようです。その際に、当時の寺社は「天下泰平」「安寧秩序」などの祈願を求められていました。そこで「風流踊り」に「雨乞い祈願」という名目を+アルファして、地域興しのイヴェント行事を姿を変えた形で復活させたと私は考えています。
 当時の風流念仏踊りは、庶民が楽しみにする一大イヴェントで、夏の祭礼に併せて踊りは奉納されます。
4344101-61滝宮念仏踊り
          滝宮念仏踊り(北條組)

そのため滝宮には、大勢の人が集まって来ることが予想されます。大きな祭りやイヴェントを開く際には、予防措置を講じることを江戸幕府は各藩に命じていました。行事に掲げる高札の内容の見本まで示しています。そこで高松藩も、それを参考にして喧嘩などを禁ずる高札を掲げるように、龍燈院に命じたようです。その命に応じて建てられた高札のようです。

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(北條組拡大)

こうして、丸亀平野の4つの郡によって滝宮への踊り込みが復活します。
四郡は 阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の郷ということになります。最初は、いろいろな混乱があったようです。例えば、復活直後の正保二(1645)年には、踊りの順番を巡って次のような殺傷事件が起きています。
滝宮1916年香川県写真師組合
明治の滝宮付近の綾川
 前夜からの豪雨で、綾川は水嵩が増します。当時は綾川には橋がかかっていませんでした。そのため那珂郡南部の真野・吉野・子松郷で構成される七箇村組は、綾川を渡れずに、滝宮牛頭神社のすぐ手前の対岸で水が引くのを待っていました。ところが、定刻が来て七箇村組の後庭で踊ることになっていた阿野郡の北条念仏踊組が、境内に入場しようとします。この動きを川向こうから見ていた七箇村組の人たちはいきり立ちます。世話人の真野久保神社の神職浅倉権之守は、長刀を杖にして急流を渡り、入場していた北条組の小踊二人を切り殺してしまいます。小踊は、踊組の代表と考えられていたようです。踊る順番や場所について、命懸けで守ろうとしていた気迫が伝わってきます。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
滝宮念仏踊り(那珂郡七箇村組 場所はまんのう町諏訪神社)

  ちなみにこの事件はふたつの踊組に、深い対立感情を残すことになります。以後、北条組は48人の抜刀隊を編成して踊り手達を警固するようになります。踊り手達警固のために、棒持ちなどが配備されるようになった背景には、こんな事件があったようです。また、七箇村組と北條組は踊る年を変えて鉢合わせしないように踊奉納をする措置も取られています。踊る順番が固定するのは、『瀧宮念仏踊記録』に記されている享保三年(1718)からと研究者は考えています。

龍燈院・滝宮神社
     滝宮の滝宮牛頭権現社と別当寺龍燈院と天満宮
ちなみに龍王院は、明治維新の神仏分離政策を受けて住職がいなくなり、廃棄されました。実質的な受入側である龍燈寺がなくなったことで、4組による奉納は一時的に停止されたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

真野郷の郷社であった諏訪神社には、幕末に奉納された風流踊りの様子を描いた絵図が「諏訪大明神念仏踊図」が残されています。
そこには、芸司が大きな団扇を持って、その後には六人の女装した子踊りや薙刀振りや棒振りが描かれていることは以前にお話ししました。これは、現在の綾子踊りの形態とよく似ています。綾子踊りが、諏訪神社で踊られていた風流踊りから大きな影響を受けていることがうかがえます。
それを裏付けるのが、諏訪神社での風流踊りには佐文村も参加していたことです。
中世の郷社は、郷村内の村々の信仰の中心でした。この時期には、まだ村ごとの神社は姿を見せていません。村ごとに村社が建立されるようになるのは18世紀になってからです。その後、中世の祭礼に代わって獅子舞や太鼓台などが主役になっていきます。ここに描かれているのは、それ以前の郷社の祭礼様式です。それを、各村々から選ばれた踊り手たちが、郷社である諏訪神社に集まって踊りを奉納しています。そして、この数日後には牛頭明神を祭る滝宮天皇社(滝宮神社)にも奉納されます。これを私はかつては「雨乞い踊り」と思っていました。それは、現在の滝宮念仏踊りが雨乞い踊りとされているからです。しかし、「滝宮念仏踊り」は、次の二点から雨乞い「祈願」の踊りとは云えないと私は考えるようになりました。
①坂本念仏踊りの由来には、「菅原道真の雨乞い成就へのお礼のため踊られた」とあること。つまり、祈願ではなく成就への感謝のために踊られたとされている。
②中世の「雨乞い踊り」とされてきた奈良のなむて踊りなども、同様で「雨乞い成就祈願」であること。中世には雨乞祈願ができるのは験のある僧侶や修験者のみが行うものとされていたこと。
③「那珂郡七か村念仏踊り」の幕末の記録には、旱魃で給水作業が忙しいので、今年は「念仏踊り」を延期しようと各村々の協議で決めていること。つまり、踊り手たちも自分たちが踊っている踊りが雨乞い祈願のために踊られているとは思っていなかったこと。
以上からは「那珂郡七か村念仏踊り」は、もともとは雨乞い祈願の踊りではなく、ただの風流踊であったと考えるようになりました。それが近世になって、高松藩主松平頼重が踊りを再開するときに、ただの風流踊りではまずいので、社会的公共性のあるが「雨乞い踊り」として意味づけされたのではないかと考えています。

DSC01883
見物人の背後に建つ桟敷小屋(見物小屋)

それでは中世の念仏踊りは、何のために踊られていたのでしょうか。

その謎は、この絵の周囲に建てられた桟敷小屋からうかがえます。これは踊りを見物するために臨時に建てられた見物小屋です。そして、小屋には、所有者の名前が記入されています。真野村の大政所(大庄屋)の三原谷蔵の名前もあります。つまり、この見物小屋は中世以来の宮座を構成するメンバーだけに許された特等席で、世襲され、時には売買の対象でもあったことは以前にお話ししました。
 また、芸司などの演じ手の役目も、宮座のメンバーで世襲されています。ここからは、この踊りが中世に遡る風流踊りで、真野・吉野郷と小松庄の宮座メンバーによって諏訪大明神(神社)に奉納されていたことが分かります。ここでどんな踊りが踊られていたのか、またどんな風流歌が歌われていたのかも分かりません。ただ絵の題目には「那珂郡七か村念仏踊り」とあるので、風流系の念仏踊りが踊られたいたようです。
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桟敷席には、それぞれ所有者の名前が記されている

それを真野村の有力者が桟敷小屋の高みから見物します。そして、庶民はその下で押し合いへし合いながら眺めています。彼らは、頭だけが並んで描かれています。彼らの多くは、この踊りにも参加できません。これが中世的な風流踊りだったようです。ここでは、「那珂郡七か村念仏踊り」は宮座による運営で、だれもが参加できるものではなかったことを押さえておきます。
 これに対して、各村々に姿を現すようになった鎮守では、新たな舞が奉納されるようになります。

DSC01429

それが獅子舞です。
獅子舞は、宮座制に関係なく百姓たちが参加できました。次第に、祭りの主役は夏祭りの「風流踊り」から秋祭りの獅子舞や太鼓台へと主役が交代していきます。そして、農民たちの全員に参加権与えられた獅子舞は、年々盛んになります。
 一方、各村々の有力者による宮座制で運営されたいた風流踊りは、踊り手の確保が困難になり運営が難しくなります。こうして明治になると、滝宮大明神に奉納されていた風流踊り(念仏踊り)は、姿を消して行きます。「那珂郡七か村念仏踊り」が姿を消した原因を挙げておくと
①中世以来の郷社に奉納された祭りで、各村々からの踊り手たちによって編成されていたため、村々の協議や運営が難しく、まとめきれなくなったこと
②運営体制が宮座制で、限られた有力者だけが踊り手を独占し、開かれた運営体制ではなかったこと
③各村々に村社が整備されて、秋祭りに獅子舞や太鼓台が現れ、祭礼の中心がそちらに移ったこと
 滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
「那珂郡七か村念仏踊り」の構成表を見ておきましょう。
ここからは次のようなことが分かります。
①役目が各村々に振り分けられ、どこの村からどんな役をだすのかが決まっていたこと
②真野郷と小松荘の各村々から踊り手や役目が出されて編成されている
③踊りの中心である下知(芸司)は、真野村から出されている
④全体のスタッフが2百人を越える大部隊で編成されたいたこと
⑤鉦打ちが新旧併せて60人と最も多いこと。
⑥子踊り・ホラ貝・薙刀振り・棒振り・幟など、現在の綾子踊りの構成と共通する役目が多いこと
ここでは、佐文村も江戸時代末期まで、「那珂郡七か村念仏踊り」のメンバーであったことを押さえておきます。
 次に寛政2(1790)年の「那珂郡七か村念仏踊り」(福家惣衛著・讃岐の史話民話164P)の佐文のスタッフ配分は、次のようになっていました。
下知1人、小踊6人、螺吹2人・笛吹1人、太鼓打1人と鼓打2人、長刀振1人、棒振1人、棒突10人の計25人。

先ほどの表では約40年後の文政12年(1829)には棒突10人だけになっています。このことは、佐文村に配分されていたスタッフ数が大きく削られたことを示します。
 問題はそれだけではありません。七箇村組の構成そのものが、大きく変化しています。
編成表を比較してみると、寛政2年には踊組は東と西の二組の編成です。そして、下知は真野村と佐文村から各1人ずつ出されています。ここからは1790年までは「那珂郡七か村念仏踊り」には、次の2つの踊組があったことが分かります。
①東組(真野村中心)
②西組(佐文村中心)
②の西組における佐文の役割を見ておきましょう。
6人一組になって踊役を勤める小踊は、踊りの花でもあります。
それが東組では西七箇村から1人、吉野上下村から3人、小松庄四ヶ村から2人の計6人で構成されていました。ところが、西組は佐文村は単独で6人を出しています。
DSC01887
念仏踊りの花形 棒振りと薙刀振り

さらに、佐文から出されていた役目を挙げておくと、子踊りと並んで花形の薙刀振りや棒振りも次の通りです。
長刀振が真野村と佐文村から1人、
棒振も吉野上下村と佐文村から1人
棒突は西七箇村四人。岸上村三人、小松庄四ヶ村3人の計10人に対して、ここでも佐文村は、10人を単独で出しています。
ここからも滝宮念仏踊の那珂郡南組は、佐文村が西組の中心的な存在であったことが裏付けられます。それが何らかの理由で、中心的な位置から10人の棒付きを出すだけの脇役に追いやられた事になります。どんな事件があったのでしょうか?
 想像を膨らませて、次のような仮説を出しておきましょう。

  佐文村が不祥事(事件)を起こし、その責任を取らされて西組は廃止され、さらに佐文は「役目枠縮小」を余儀なくされ、「棒付き10人」のみを送りだせるだけになった。

この仮説を支える材料を探して見ましょう。
 高松藩・丸亀藩・池御料の三者に属する村々には日頃の対立感情がありました。「那珂郡七か村念仏踊り」が中世に真野郷社の諏訪神社や、小松荘の大井神社に奉納するためにスタートした頃は、郷村の団結のための役割を果たしていました。

那珂郡郷名
真野郷と子松庄

ところが近世になって、この地域は次の三つに分断され行政区が異なることになります。所属する藩が次のように違うようになったのです。
①小松荘が天領の榎井・五条・苗田と丸亀藩の佐文に分割
②真野郷の真野・東七箇村+吉野郷などの高松藩領
③真野郷の西七箇村(旧仲南町)などの丸亀藩。
ここで一番いばったのは①の天領となった村々です。ただ小松荘で天領とならなかったのは佐文です。①の天領の村々からは、運営権を握っていた佐文や真野に対して、何かと文句が出たようです。また、②の親藩髙松藩に属した村々も、外様小藩の丸亀京極藩の住人に対して優越感をもち、見下すような言動があったことは以前にお話ししました。その中で西組の中心でありながら、丸亀藩に属し、他村からの批判を受けがちな佐文は、とかく過激な行動を取ることが多かったようです。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社と別当の龍燈院

  享保年間(1716~36)には、滝宮への踊奉納の際に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順位のことで、東西の踊り組の間で、先後争いが起こしています。そのために元文元年(1736)年以後は、念仏踊は一旦中止され、七箇村組は解体状態になります。それから3年後の元文4年の6月晦日に、夏に大降雹(ひょう)があって、東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を受けます。これは滝宮念仏踊を中止したための神罰であるという声が高まり、関係者の間から念仏踊再興の気運が起こります。龍灯院の住職快巌の斡旋もあって、寛保2(1742)年から滝宮念仏踊は復活します。滝宮龍灯院の斡旋案は、踊奉納をした七箇村組に対して「今後は御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避ける」というものでした。しかし、東西二組編成は、再度の紛争が起こる危険をはらんでいました。
 文化五(1808)年7月に書かれた真野村の庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」の7月24日の龍燈院宛の報告には、次のように記されています。

 七箇村組の行列は、下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人の一編成になっている。取遣留の七月廿五日の龍灯院からの御神酒樽の件は、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」と口上を述べ終わると、御神酒樽は龍灯院へ預かって直ちに持ち帰り、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を書院に招待して御神酒を振る舞った。

 ここからは、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院は接待準備しているのが分かります。この時点で、東西2組編成だったのが1組になり、佐文のスタッフが大幅に減らされたようです。それは、寛政2(1790)年から文化5(1808)年までの18年間の間に起こったことと推察できます。
 あるいは、佐文村の内部に何かの変化があったのかもしれません。それが新たに佐文独自で「綾子踊り」を行うと云う事だったのかもしれません。どちらにしても南組が二編成から一編成になった時点で、佐文は棒振り10人だけのスタッフとして出す立場になったのです。

  以上をまとめておきます
①初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、那珂郡南組(七箇村組)は東西2編成で出場していた。
②その西組は佐文村を中心に編成されていた。
③しかし、藩を超えた南組は対抗心が強く、トラブルメーカーでもあり出場が停止されたこともあった。その責任を佐文村は問われることになる。
④その対策として那珂郡南組は、1編成に規模を縮小し、佐文村のスタッフを大幅に縮小した。
⑤これに対して佐文村では、独自の新たな雨乞い踊りを始めることになった。
⑥それが現在の「綾子踊り」で、念仏踊りに対して風流踊りを中心に据えたものとなった。
⑤⑥は、あくまで私の仮説です。事実ではありません。悪しからず。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P
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阿野郡の郷
阿野郡坂本郷

喜田家文書には坂本念仏踊り編成についても書かれています

 坂本郷踊りは、かつては合計十二ヶ村で踊っていたようです。ところが、黒合印幟を立てる役に当たっていた上法軍寺と下法軍寺の二村の者が、滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなったとあります。十ヶ村とは、次の通りです。

東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津

   
川津・二村郷地図
        坂本郷周辺(讃岐富士の南東側)
これは近世の「村切り」以前の坂本郷のエリアになります。ここからは近世の村々が姿を現すようになる前から念仏踊りが坂本郷で踊られていたことがうかがえます。中世の念仏踊りにつながるもののようです。
 江戸時代に復活してからは3年に一度の滝宮へ踊り入る年は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを相談で決めました。

滝宮の念仏踊り | レディスかわにし

 念仏踊りは、恒例で行われる時と干ばつのために臨時に行う時の二つに分けられます。臨時に行う時は、協議して随時決めていたようです。この時には、大川山頂上に鎮座する大川神社に奉納したこともあったようです。三日間で関係神社を巡回したようですが、次のスケジュールで奉納されました。 
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社

次に念仏踊りの構成について見てみましょう。

 1725(享保十)年の「坂元郷滝宮念仏踊役人割帳」という史料に次のように書かれています。
一小踊   一人 下法    蛍亘     丁、 三二
一小踊   二人 卓小川  一小踊    二人 西小川
一小踊   二人 東ニ   ー小踊    二人 西二
一小踊   二人 東川津  一小踊    二人 西川津
一鐘打 二十一人 東坂元  一鐘打   二十人 川原
一鐘打   八人 真時   一鐘打   十六人 西坂元
一鐘打ち  八人 下法   一鐘打    十人 上法
一團  二十一人 東坂元  一團    二十人 川原
一團    八人 真時   一團    十六人 西坂元
一團    八人 下法   一合印       真時
一合印      下法   一小のほり  三本 下法
一小のほり 八本 西川津  一小のはり  十本 卓川津
一小のほり 八本 卓ニ   ー小のほり  八本 西二
一小のほり 六本 西小川  一小のほり  六本 卓小川
一のほり  五本 上法   一笠ばこ       西二
一笠ほこ     康ニ   ー長柄    三本 卓坂元
一長柄   三本 川原   一長柄    一本 真時
一長柄   三本 西坂元  一赤熊鑓   二本 西小川
一赤熊鑓  二本 卓小川  一赤熊鑓   二本 西川津
一赤熊鑓  二本 下法   一赤熊鑓   二本 上法
一赤熊鑓  二本 東ニ   ー赤熊鑓   二本 西二
一大鳥毛  二本 川原   一大鳥毛   二本 西小川
スタッフは326の大集団になります。
佐文の綾子踊りに比べると、規模が遙かに大きいことに改めて驚かされます。これだけのスタッフを集め、経費を賄うことはひとつの集落では出来なかったでしょう。かつての坂元郷全体で雨乞い踊りとして、取り組んできたことが分かります。

滝宮念仏踊り2

いつまで踊られたいたのでしょうか? 

坂本組念仏踊りは『瀧宮念仏踊記録』に明治8年まで踊った記録が残っています。また、地元史料には明治26年の踊役割帳が残っていますので、そこまでは確実に行われていたことが分かります。
その後、昭和になって三年(1928)七年、十年、十三年、十六年と行われ、太平洋戦争後の二十八年、三十一年と日照りの時には踊られ、三十四年を最後に中断しました。復活したのは昭和五十六年に「坂本念仏踊保存会」が設置されてからです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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